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白いペンキで「カメデス」と落書きされたのカメが山梨の公園にいて、県はそのカメを保護して落書きを消そうとしているという報道があった。

今日の夕方のニュースによれば、いまのところ、その保護がなかなかうまくいっていないらしい。女性アナウンサーはそのニュースを読み上げた後で、「かわいそうですよね。カメの気持ちを考えてほしいと思うんですよね」と意見をいっていた。本当にそう思っていったのか、それとも「そういう姿勢で報道しましょう」という打ち合わせが事前にあってそういったのかわからないが、落語家が同じことをいったら客がドッと笑ったとしてもおかしくない、滑稽な発言だと思う。

もちろん、ひどいいたずらだとは思うが、ネールアートのようなものだからカメ自身は痛くもかゆくもないだろう。それに、カメが自分の甲羅を見ることができるとは思えないし、「先日背中に何か書かれちゃって恥ずかしいなあ」と意識する能力も記憶力もないだろう。だいたい、あのアナウンサーは、ペットのイヌに首輪をすることや、服を着せたり靴を履かせたりするひとがいることについてはどう思っているのだろうか。

それよりも、九州で病気に感染していないウシやブタが何十万頭単位で殺されているという報道には、ふだんは動物に冷たいわたしもさすがに心が痛んだ。人間に肉を供給するために工業製品のように飼育されているとはいえ、それほど大量の生きものがまさに工業製品のように処分されるというのは理屈抜きで何かおそろしい気分になる。シーシェパードとかグリーンピースのひとたちは何といっているのだろう。

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子どものころから「女王」という語を「ジョーオー」と発音してきた。「ジョオー」という読みかたがあるらしいということを知ったのはほんの数年前のことだ。そのことを初めて知ったときは、ほなあほな、みな「ジョーオー」と発音しとりまんがな、と思ったが、「女王」の発音について取り上げているいろいろなブログやホームページなどを見てみたら、自分は「ジョオー」と発音していて「ジョーオー」などという発音は聞いたこともない、というわたしとは正反対の意見がけっこうあった。おもしろい。

先週のサザエさんでたまたま「女王」をテーマにした話があったので注意深く聞いてみたが、カツオもワカメもサザエさんも波平さんも「ジョーオー」と発音していたように思えた。また、将棋女流タイトル保持者の称号に「女王」というのがあるが、棋士やアナウンサーがそのタイトル保持者をどう呼ぶかをテレビで注意深く聞いてみても「ジョーオー」と発音しているようにしかわたしには聞こえない。

ただ、語の聞こえかたというのはけっこういいかげんというか、自分が知っている、または思い込んでいるように聞いてしまうということはある。たとえば、「雰囲気」という語の発音を「ふいんき」だと思い込んでいる人は、たとえ他人が「ふんいき」と発音していても「ふいんき」と聞いているのだと思う。

人はなぜ騙されるのか―非科学を科学する (朝日文庫)」というとてもおもしろい本に、著者の知り合いで日本語が流暢な在日外国人についての話がある。その外国人がタクシーに乗って「柳馬場蛸薬師」と日本語で目的地をいうと、運転手は何か英語で話しかけられたと思い込んで「アイ・ドント・スピーク・エングリッシュ」などといってくるそうだ。外国人の顔をしているというだけで相手のいったことが何でも英語に聞こえてしまうわけだ。その後、その人は、タクシーに乗ったらすぐに「どっこいしょ」といったり、目的地をいう前に「ほれ、あるやろあれ」などと前置きしたりすることで、運転手に「この外国人は日本語を話しているんだ」と思ってもらうことに成功したという。これも、人間は耳で物理的な音を聞いてそれだけで理解しているのではなくて、自分の思い込みも含むいろいろな文脈に基づいて理解しているというわかりやすい例の1つだと思う。

発音の聞き取りということだけではなくて内容の理解についても同じことがいえる。聞き手がわからないと思い込んでいれば、わかるはずの話もわからない。大学の先生の話だからむずかしい話なんだろうと思って聞くとわからないが、同じことを池上彰さんがいえばわかるということもある。

そう考えると、自分が話したり書いたりしたことのうち、意図どおりに相手に伝わっている部分はかなり少ないのだろうなと思う。わたしはお人好しなので相手のいうことは基本的に好意的に受けとめるし、たいていのことは善意で発言しているのだが、どうも、「他人がそんな人の好いことをいうわけがない」と思われて誤解されることが多いような気がする。その場合、その相手は少なくとも「お人好し」ではないのだろうと思う。けっきょく人間というのは他人の発言を「自分」というフィルターを通してしか理解できない。万物の尺度は人間、というのはこういうことなんだろうか。
だいぶ前だが、世論調査で83パーセントの国民が小沢さんの幹事長辞任を求めていると新聞で読んだ。

しかし、民主党員なら話はまた別だが、そうでない人たちは彼が民主党の役職を辞めるかどうかなんてことに本当に関心があるのだろうか。こんなことを書くととんでもない世間知らずと思われそうだが、民主党(やその他の政党)の幹事長というのは国民が選挙で与えた役職でもなんでもなく政党が自分たちで決めて勝手にやっているだけのことなので、どうでもよいようにわたしには思える。町内会の役員をだれにするかというようなもので、当事者や関係者には重大事かもしれないが、周りにとってはどうでもいいことではないのか。

まあ、最大与党の幹事長が、事実上、大きな権限なり権力なりを持っているらしいということはいくら政治音痴のわたしでもなんとなく聞いている。しかし、憲法では行政の権限は内閣に属するとしているはずで、政党の幹事長なんて憲法に一切記載のない人物が首相よりも大きな権限を持っているのだとしたらその構造がおかしいのだと思う。政党の役員人事には国民が関与できないのだから権力の濫用を防ぐ手立てがない。
朝は NHK で6時台や7時台のニュース番組「おはよう日本」を見る。見るといっても、テレビの前に正座して見るわけではなく、つけっぱなしにして耳で聴いていて、気になるニュースのときに画面に目を向けるというような見方だ。しかし、最近はその時間にオリンピック中継ばかりやっているような気がする。「ばかり」というのは気のせいかもしれない。でもやはり、ふつうのニュースをあまり聞いていないような印象がある。ニュースでもオリンピック結果ばかり報道しているからか。

オリンピック中継もけっこうだが、NHK は衛星放送でも四六時中オリンピック中継をやっているのではないか。どうして総合テレビでもあれほど長時間オリンピック中継を流さなければならないんだろう。衛星放送を受信できない人でオリンピック中継を見たい人のためだろうか。その割りには来年からアナログ放送受信者を切り捨てようとしているわけだが。
先日の NHK の「クローズアップ現代」の「実験が苦手~理科離れする教師たち~」(2009年11月12日放送)を見た。ゆとり教育を受けてきた教員が子どもに理科を教えることに困難を覚えているとのことだ。子どももいないので「ゆとり教育」というものに興味をもったことはなかったが、その番組によれば、ここ 30 年で小学校の理科の授業数は半減しており、さらに、近年では月の満ち欠けのしくみを教えることなく満月とか上弦とかいった月のかたちを覚えさせているという。

びっくりした。月のかたちの名前というのは理科ではなくて国語の範疇だし、それも学校で教えるようなことではなくて各家庭で教えることだろう。半減した貴重な授業数を使ってそんなことを教えているとは。あほらしい。学校で何を教えるかをどういうひとが決めているのか知らないけれど、ともかく覚えさせりゃいいんだろう、という悪い意味で文科的、官僚的な発想のように感じる。理科の意味がわかっていないひとが決めたとしか思えない。

理科が暗記科目と考えられているというのにも驚いた。漢字を覚えさせる国語や年号を覚えさせる歴史が暗記科目というのならわかるが、理科のどこが暗記科目か。理科というのは、自然の中にある不思議なことをなぜだろうと疑問に思い、筋道を立ててそのしくみを考え、観察や実験によって確かめる、その心や技術を教える科目ではないのか。そういう事実や筋道立てた考えかたを尊ぶ理科的な見方によって、社会の作った偏見や差別、自分の中の嫉妬心や損得勘定を度外視した、公正さ、客観性、潔さが養われるのだろうと思う。理科の「理」は「ことわり」つまり「ものごとの正しい道筋」でもあるのだ。

思えば、わたしの子どものころは、夜の星を見たり、昆虫やカエルを捕まえたり、砂を掘ってカニを捕まえたり、食べられる野草を摘んでおやつとして食べたり、海でおぼれかけたり、タツノオトシゴをコップに入れて出産のようすを観察したり、さまざまなかたちで「自然」とつきあった。自然の中で生きているという実感があったし、自分も自然の一部だという実感もあった。そういった中で、どの昆虫でも足は 6 本でどの足も胸から出ているとか、セミのお腹は空っぽとかいうのは当たり前のように知った。

しかし、わたしの姪や甥を見ているとわかるが、田舎の子でももはや自然とつきあっていない。どういう科目に力を入れればよい学校に行けて将来の金儲けに役立つかという人間の決めた社会のことばかりを気にして生きている。地位やら名誉やら財産というのは社会の産物だ。いまの若い先生、あるいはそういった教育を考えたひとたちは、ある意味、人工的な価値で構築された社会という環境の中で生きてきたから、つまり、よい学校に行って毎月毎月きちんと給料をもらえることを至上の目的として育ってきたから、理科(自然科学)でさえもただ教わったことを覚えた上でテストで正解できればよいというふうに考えているのではないか。
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