上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

将棋棋士の羽生さんと翻訳家の柳瀬さんの対談。とはいっても、実際には文化人の柳瀬さんが羽生さんをインタビューした本という感じである。

羽生さんの話はとてつもなくおもしろい。あちこち線を引きたくて、でも引いたら線だらけになっちゃうなあと思うほどだったが、図書館で借りた本なので実際に線を引くことはできなかった。

羽生さんは、将棋の理論や戦法の流行、勝負の機微などのことを将棋界以外のひとにもわかりやすく説明し、また、そういった将棋の世界で身につけた知見を、世間、社会、自然に的確に応用して説明してみせる。これは従来の棋士にはなかったことだ。

かつて羽生さんと同様に将棋の世界を極めた升田幸三や大山康晴といったひとたちも、表現する意思と技術があれば興味深い考察を聴かせてくれただろうと思う。しかし、升田は「ワシの考えはおまえらにはわからん」といいそうだし、大山は「そんなことしても何の得にもならんでしょう」といいそうだ。

それにしても、対談相手の柳瀬さんは、羽生さんを尊敬するあまりか、どうにもとんちんかんな、というか、つまらない質問をしていたように思う。

たとえば、最初のほうで柳瀬さんは「記憶」に妙にこだわっていた。羽生さんは「勝つためには忘れなければならない」「覚えることはコンピュータにまかせておけばよい」と簡単に流していたが、羽生さんがそんなことをいうなんて信じられないといったようすに見えた。

記憶が将棋の本質とあまり関係がないというのはそれほど強いわけでもないアマチュア棋客のわたしにもわかる。将棋指しは記憶力が高いといわれるが、将棋指しは職業として将棋を一生懸命に指すからその指し手を覚えているわけで、それはどんな職業のひとでも同じだろう。柳瀬さんの英語や日本語の語彙に対する気違いじみた記憶力だって同じこと。同業のわたしから見てもある意味バケモノに見えるが、しかし同時にそんなことは当たり前だろうとも思う。つまり、職業人が自分の仕事に関することで他業種の人にとって手品のような記憶力を発揮するのは当たり前だし、それ以外のときでも記憶力がよいほどよいかというと、そんなことはない。サヴァン症候群のひとが必ずしもその能力によって幸せであるようには見えないことからもわかるように、一般論からいっても、記憶は適当に取捨されてこそ価値があるはずだ。

まあ、将棋のような木でできた単純なゲームでも、極めれば他のひとにとって生きかたの参考にさえなる知恵が得られるというのはおもしろいことであり、一見くだらないと思えるような仕事や雑事をやらざるをえないわたしたちも、それを突き詰めることで何かを得られるかもしれないと思えるという点で、たいへん励みになる。
スポンサーサイト


ひさしぶりに清水さんの小説を読んだ。小説の筋としては、おとなの恋愛の話、といえるだろうか。清水さんらしいナンセンスな味があるので恋愛小説というよりもユーモア小説というべきか。小説の本来の筋とは別に日本語についての雑学的なことがちりばめられている。それら雑学の部分は、ご本人が実際に経験して得た知識や他人から聞いておもしろいと思ったことを紹介していると思われる。

正直いって、単純に小説としてはいまいちの話だと思うし、日本語ウンチク本としてもさほど珍しい知識が書いてあるわけでもなくて中途半端な印象を受けた。しかし、つまらなくて読んでいられないというわけではなくそれなりにおもしろいので、電車や飛行機の中で読むのにはちょうどよさそうだ。1、2時間もあれば読める。

ネットは単なるツールであって、新しくておもしろいことのできる画期的なメディアではないとし、ネットでものを売ったり宣伝したりしようとする企業に対してはネット利用者の大多数はバカか暇人だからあまり期待してはいけない、一般のひとに対してはネットによって人生が変わったりはしない、と主張する本。おもしろかった。

著者の中川さんは、「死ね」「ゴミ」「クズ」と他人を罵倒しまくる人が気持ち悪い、「通報しますた」と揚げ足取りばかりする人が気持ち悪い、アイドルの他愛もないブログが「絶賛キャーキャーコメント」で埋まることが気持ち悪い、ミクシィの「今日のランチはカルボナーラ」のようなどうでもよい書き込みが気持ち悪いという。

たしかに、2ちゃんねるなどの匿名掲示板では罵倒の投稿をよく見るし、アイドルブログではなく一般人のブログでもお互いただただ褒めまくり合ったりキズを舐め合ったりするだけの馴れ合いコメントはよく見るし、ミクシィでなくブログでも「今日のランチはカルボナーラ」式の記事もよく見る。

これはこの本に書いてあることではないが、いろいろなブログを見ていておもしろいなあと思うのは、ブログを書いている人たち同士がコメントをつけ合ったりして知り合いになると、そこに「世間」が自然にできてしまうことだ。誰に頼まれたわけでもなく自分で勝手に始めたブログなのに他人の目を気にして定期的に記事を書かねばならないという義務感を持ったり、ブログでの知り合いが新しい記事を書くと何かコメントしなきゃならないという強迫観念に襲われたりすることがあるようだ。

ひとが集まると世間(仲間集団)を作って安心し、その仲間うちでは正当な批判さえも控えて軋轢をできるだけなくすことに汲々とする一方で、世間の外にいるひとに対しては極端に懐疑的、排他的になって平気で罵倒するということがあるのかもしれない。なんとも日本的だなあとは思うが。やっていないから詳しくは知らないけれど、ミクシィのような SNS での日記ならなおさらそういう傾向があるだろうなと想像する。なんにせよ、実生活の世間だけでも息苦しいのにネット上の「世間」まで気にしなければならないというのはたいへんなことだ。

中川さんはネットの住人の多くは「バカ」と「暇人」だという。頭の悪い罵詈雑言や暇つぶしの難詰はたしかに多いと思うけれど、経済活動に最大の価値を置いていつも忙しくバリバリ働いている広告業界出身の中川さんが、そうではない価値観のひとを理解しかねているという面もあるのではないかという気がした。

東京在住のひと、地方在住のひと、外地在住のひと、高学歴のひと、低学歴のひと、大企業の会社員、派遣社員、主婦、引きこもりなど、ネットのない時代はそれぞれの集団の中でしかほとんど交流をしていなかったひとたちが、現在では、集団の垣根を越えて交流できるようになった、あるいは(ネットを利用する以上)交流せざるをえなくなった。つまり、それぞれのひとが自分とまったく価値観の違うひとの言動を目にすることが多くなった。まったく価値観が違うひとの言動はもちろん理解できないので、お互いに相手のことをバカといって切り捨てているというのは実生活でもよくあることだと思う。

たとえばわたしなどは、経済活動にしか意味を見いだせないひとはある意味「バカ」だと思っている。しかし、そういうひとたちはわたしのことなどまるきりの「バカ」だと思っているだろう。まあ、具体的な付き合いがなければお互いにそう思っていればよいだけなのだが、今のネットというのはそういうひと同士が出会い、否が応でも相手の言動が目に入ってしまうような場になっているということではないだろうか。


このブログにだれかを取り上げるときは、大学教授でも政治家でも医師でも弁護士でも、基本的に名前に「さん」をつけて書くようにしている(尊敬しているひとには「先生」をつけることもある)。大学教授や国会議員などという肩書きに無意識にへへーと恐れ入って気圧されないようにしたいからだ。わたしのような一般人は、学者がいうのだからあるいは政治家がいうのだから自分ごときの考えよりも正しいのだろう、と思ってしまいがちだ。しかし、他人の肩書きに萎縮したり、学術的で高尚に見えるものをありがたがったりするのは、見かけや職業などによる偏見や差別と同じ種類の卑しい心根だと思う。どちらも自分の頭で判断することを怠っている。

商業オカルト、似非科学、ダイエットブームや、全体主義、独裁制、ポピュリズムなどの政治のあり方、それらを支えるミーハー、スノッブ(俗物)、妄信、衒学趣味、知的怠惰といった個人の性質、その背後にあると思われる僻み、妬み、同調圧力、差別意識などは、どれもこれも権威主義に関係があるのではないか、だとしたら、世の中のいろいろな不幸は権威主義に由来しているのではないかという気がしていた。で、この本を読んでみた。組織で働く社会人向けに書かれた本のようだが、わたしのように興味本位で読むものにとっても十分におもしろくて勉強になるよい本だった。

最初に、正当な権威と権威主義の違い、権威主義は学問の世界ではどのように考えられているか、どうして権威主義が学問の世界で取り上げられるようになったのかについて書かれている。著者の岡本さんによれば、権威主義ということばは 社会科学では極めて重要度の高い専門用語 であり、今日の社会科学において最も中心的な概念のひとつ だそうである。

第二章では、権威主義研究の原点だというナチスによるホロコーストを取り上げて、同調や服従といった権威主義的行動がこの世のできごととは思えない悲劇を招くようすがかなり詳細に書かれている。日本の中高ではこのようなことはまったく教えていないだろう。この章だけでも、全国の中高生にぜひ読んでもらいたいと思う。

第三章と第四章は学問の世界ではどのように権威主義が研究されてきたかという話で、有名な社会心理学の実験がいくつか紹介され、人格心理学で唱えられてきた権威主義的人格の尺度として「教条主義」「ファシスト傾向」「因習主義」「反ユダヤ主義」「自民族中心主義」「右翼的権威主義」「因習的家庭観」「形式主義」が紹介されている。自分の中の権威主義的傾向を測るのにちょうどよい。わたし自身を考えると、「形式主義」の傾向がかなりある。その他の傾向はほとんどないと思う。

第四章はこの本の中でいちばんおもしろいと思った章で、権威主義的傾向と他の人格傾向との相関についても紹介されている。相関があるとされているのは、教育程度、政治的傾向、親の厳しさ、過罰性などで、教育程度が低いひとほど権威主義的傾向が強い、政治的に保守的なひとほど権威主義的傾向が強い、自分の親の過罰性を高く認識しているひとほど権威主義的傾向が強いといったことがわかっているという。これらは、わたしたちが直観的に認識していることとだいたい同じではないだろうか。

さらに、権威主義的人格の認知的傾向として「あいまいさへの低耐性」という概念が出てくる。あいまいであることに耐えられない、ものごとに実際以上の意味づけをするということだ。オカルトにはまるタイプのひと、差別意識の強いひとがやっているのはまさにこれだ。そして、あいまいさへの低耐性、権威主義、そして反応の硬さを集約した人格傾向が、この本のキーワードと思われる「認知的複雑性」ということらしい。「認知的複雑性」が低いひとは、善悪などの評価次元とほかの次元の間に相関がないことがうまく受け入れられない傾向 があるということだ。

この定義はなるほどと思う。そのようなことはぼんやりと考えていたが、このように文でうまく表現してもらうと自分の中でも明確に整理できた気がする。自分のことを棚に上げていえば、実生活のつきあいでもネット上のつきあいでも、相手にこのような「認知的複雑性」の低さを感じることは実によく体験する。このブログでも、単にことばの話をしているだけなのに、そのことばの発言者を攻撃していると受け取られたり、特定の政治的信条を主張していると受け取られたりすることがある。

第五章は権威主義が組織を如何にダメにするかという話。組織に属さないわたしにはあまり興味のもてない話だが、なるほど、官僚主義も、食品偽装などの近年話題になったさまざまな企業の醜聞も、すべて権威主義が原因だったとも考えられるのかと気付かされた。この本を読む前の「世の中のいろいろな不幸は権威主義に由来している」のではないかというわたしの直感はけっこう正しかったようだ。この部分は、企業の管理職のひとが読むと非常に参考になるのではないかと思う。

第六章と第七章はそれまでの章となぜか毛色が変わった内容になっていて、第六章は「権威主義的人物の見分け方」と題してハウツー本的な内容になっている。「宗教性の強い人」「美男美女が好きな人」など、ちょっと目を引く小見出しがつけられた項でそれぞれの人たちがなぜ権威主義的人物であることが多いかということが説明されている。そもそも権威主義的傾向はだれにでもあるし、時と場合によってそれが強く発現したりまったく発現しなかったりするものだと思うが、おおまかな傾向としてはそういうことはあるだろうなあと思う。

第七章は著者岡本さんの社会評論。もっともな意見もあるし賛成できない議論もある。「日本人は英会話ができない」というのも 現代日本の誤った教条のひとつ と岡本さんは断じている。わたしはけっこうそのとおりだと思うが、反対意見のひとも多かろう。いずれにせよ、世間巷間でよくいわれる決めつけに疑問をもつ態度が大切であることは間違いない。なんでも反対すべきだという意味ではない。疑問をもってよく考えた上でやはり世間のいうとおりだと思うのなら、その態度は権威主義ではないと思う。

ともかく、よい本を読むことができた。これからも折にふれて取り出して読むことになりそうだ。



日本語力と英語力

著者: 斎藤孝/斎藤兆史

斎藤兆史さんは「『英語が使える日本人』幻想から醒めよ」といい、齋藤孝さんは「英語力の基礎は日本語力」という。本当にそのとおりだと思う。

おふたりは、「英会話ごっこ」のような早期英語教育、「実践コミュニケーション」主義で文法軽視の英語教育に疑問を呈し、基礎からしっかり教える教育を推奨している。特に齋藤孝さんは、英語なり日本語なりを学習するために「型」が重要だと強調している。この「型」は文法のこととも受け取れるけれど、もう少し広い意味だろう。武道や茶道などでいう「型」だ。野球でいえば素振りとかキャッチボール、将棋でいえば手筋とか定跡。まずは、そういった基礎となることを手本に倣って練習する。上達するにつれてどうしても手本に倣えない部分が出てくればそれがそのひとの個性だ。最初から個性があるわけではない。それが「型より入りて型より出づる」ということだろう。

わたしは英語が好きで学校でも個人的にもそれなりに勉強したが、社会人になるまで海外に行ったことがなかった。会社員になって海外出張や海外駐在で英語を使って仕事をすることになった。英会話学校で習うような For here or to go? とか Here you are. とかいった決まり文句は、覚えればもちろん役に立つけれど、覚えてしまえばそれでおしまい。応用もへったくれもない。けっきょく、ファックスとかテレックス、レポートなどを英語で書けなければ仕事にならない(当時はまだなかったが、いまなら「電子メール」を英語で書けなければ仕事にならないだろう)。そういうときにやはり役に立ったのは学校で習った文法中心の英語だ。This is a pen. とか He gives me a book. のような一見実用的でない英文のほうが応用がきく。

英語学習で「コミュニケーション」というと会話力という印象が強いが、読み書きだってコミュニケーションだ。国民全体の英語力向上によって国際競争力を維持強化するのが国策だというなら、むしろ読み書きの力を重視したほうがよい。学問や商業の世界で本当に必要なのは英語で世間話ができる能力ではなく、読み書きの能力だと思う。そのためには、この本でおふたりが主張しておられるように、小学校ではお遊戯のような「英会話ごっこ」をするのではなくかけ算の九九や漢文の素読、古文の暗記に対応するような骨太の基礎学習が必要なのだろう。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。