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数字を 1 から順に 10 まで数えると、ふつうは

イチ、ニ、サン、、ゴ、ロク、シチ、ハチ、キュウ、ジュウ

と発音する。これを逆に 10 から降順に数えていくと、なぜか

ジュウ、キュウ、ハチ、なな、ロク、ゴ、よん、サン、ニ、イチ

になる。わたしだけでなく多くのひとはそうだと思う。語呂の問題だろうがおもしろい。

日本語の数の読みかたには

ひい、ふう、みい、よ、いつ、むう、なな、や、ここの、とお

という大和詞もある。9 には「キュウ」「ここの」のほかに「ク」という読みかたもある。

英語にこういうたくさんの数字の読みかたがあるとは聞いたことがない。もしどなたかご存じなら教えていただきたい。英語の語根なら 1 を意味する uni- や mono-、2 を意味する bi- や duo-、twi- のようなものもあるが、それらは何かを数えるときに使ったりしないだろう。日本語にはなんと数字の読みかたが多いことか。日本語学習者は大変だと思う。

しかし「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」とか「いちはやく(1889)伊藤博文憲法公布」のような語呂合わせがほとんどの年号に対して可能なのは日本語に数字の読みかたがたくさんあるおかげだ。この例の 1889 年の語呂合わせでは 2 つの 8 が「は」「や」と別の読まれかたになっている。米国では電話機の各数字に割り当てられている文字で電話番号の語呂合わせを作るというが、日本語なら文字を割り当てなくても電話番号の語呂合わせを容易に作ることができるのだ。

宮沢賢治の「アメニモマケズ」という詩に「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というくだりがある。わたしは「四合」を「よんゴウ」と思って読んでいた。おとなになってから、週刊文春に連載されていた高島俊男さんの「お言葉ですが…」というコラム記事で、「シゴウ」が正しいと知った。

「四」の「よん」は訓読みで「ひい、ふう、みい、よ …」の「よ」がなまったものらしい。「シ」は音読み。たしかに、「イチゴウ、ニゴウ、サンゴウ …」と音で読んでいるのだから次は「シゴウ」でないと整合しない。四面楚歌四苦八苦など、古いことばはたいてい「シ」と読むようだ。

この詩は学校で習ったと思っていたが、それなら正しく「シゴウ」と読まされたはずだし耳でもそう聞いているはずだ。なぜまちがって「よんゴウ」と思ったのかふしぎである。もしかすると教科書ではなく別の本で読んだのかもしれない。

立春、雨水、秋分などの「二十四節気」も「にじゅうよんせっき」とまちがって読んでいた。こちらのほうはたぶん活字でしか出会ったことがなく、頭の中で「にじゅうよんせっき」と読んでいた。これは「ニジュウシセッキ」と読むのが正しい。これも上述の高島さんの記事に書いてあった。

追記:
最初の段落で「シチ」と「なな」を間違えて逆に書いていましたが、子守男さんにご指摘いただいて気がつき、訂正いたしました。子守男さん、ありがとうございました。
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日本語の「かたい」には「難い」「硬い」「堅い」「固い」がある。

「難い」の意味はわかりやすい。「むずかしい」ということだ。英語でいえば hard である。

この hard を英和辞典で引くと「堅い」「固い」「硬い」がある。hard という英単語には「難い」「硬い」「堅い」「固い」のすべてが当てはまるらしい。

「硬い」「堅い」「固い」の使い分けは、わたしにはできない。

硬度というぐらいだからかたい石は「硬い石」、堅実というぐらいだから堅実な医師は「堅い医師」という表記がなじむだろうとは思う。「固い」は「固い意志」のように使うと思うが、この「固い」の使いかたがいちばんわからない。

日本語には文字がなかったのだから、むかしは石も医師も意志も同じように「かたい(かたし)」といっていただけだと思う。つまり、大和詞(やまとことば)ではそれらは区別されていなかったわけだ。その大和詞の「かたい」に中国語の「硬」「堅」「固」などを当てはめたので、使い分けなければならなくなってしまった。

こういうのは万葉仮名のようなものでどうせ一種の当て字だと考えるなら(わたしはけっこう本気でそう思っている)、どの漢字を使ってもかまわないということにもなる。

そうはいっても、英日翻訳で「かたい」を漢字でかかなければならないときは調べた上でいちばんなじむと思われる表記を使う。それは仕事だからしかたない。しかし、ふつうに文章を書くときは、ひらがなで「かたい」と書くのが間違いがない。

英語ではどうか。「かたい」に対応すると考えられる形容詞には、上述の hard 以外に solid、firm、tough、tight、stiff、secure、steady、adamantine などがある。これらの使い分けもまたむずかしい。というか、わたしには使い分けられない。

たとえば、hard wood、solid wood、firm wood などは、含意はやや違うだろうが、どれも使われそうな気がする。

「かたい」という日本語とこれらの英単語の関係は、「かたい」と「堅」「固」「硬」の関係と同じで、日本語では「かたい」と区別せずに使っている表現が、英語では複数の形容詞に分かれている(場合がある)ということだろう。
A 型は神経質、B 型はマイペース、O 型はおおらか、AB 型は二重人格などという血液型性格占いはほとんど日本だけの文化だという。その理由としてよく聞くのは、最初に研究されたのが日本であること、日本には A 型、B 型、O 型、AB 型のひとが適度な割合で分布していること、ほとんどの日本人は自分の血液型を知っていることなどである。

以前、言語学者の金田一秀穂先生が雑誌におもしろいことを書いていらっしゃった。先生の学問分野では血液型性格占いには文字のかたちの影響がある考えられるという。正確な内容は忘れてしまったが、鋭角的な A というかたちから神経質、丸い O というかたちからおおらか、左右非対称な B というかたちからマイペース、文字が 2 つ重なっている AB というかたちから二重人格といった性格が連想されている、といったようなことだった。

そうだとすると、それは日本人が漢字を覚えたり読んだりするときに無意識にやっていることと同じだと思う。日本人には、「鬱」なんていう字は見るからにうっとうしい、「楽」という字はたのしそう、といった感覚があるはずだ。

このように印象で文字を覚えたり読んだりするのは日本人は欧米のひとよりも得意なような気がする。血液型性格占いがほぼ日本だけで流行っている理由の 1つには、そういうこともあるのではないだろうか。

Wikipedia によれば、日本以外で血液型性格占いが流布している地域に韓国、中国、台湾があるそうだ。日本ほど流行ってはいないだろうと思うが、いずれも漢字文化圏または元漢字文化圏の国なのは偶然なのか。漢字に慣れている国ではアルファベットも無意識のうちに象形文字として理解しようとしてしまうということもあるのかもしれないと思った。
この春から、「大和証券杯ネット将棋最強戦」という将棋棋戦が始まった。

将棋の棋戦には 7 大タイトルの名人、竜王、王将、棋聖、棋王、王位、王座や、NHK 杯将棋トーナメントなどの優勝棋戦がある。それら従来の棋戦は、対局者が同じ場所に行き、その場にある将棋盤と将棋の駒を使って対局されるものだった。NHK 杯戦などでそういう将棋の対局風景をごらんになったことのあるかたもいらっしゃると思う。

大和証券杯は、将棋の盤駒を使わない初めての棋戦である。つまり、インターネットを介して仮想の盤と駒で戦われる。毎週日曜日の夜にプロ棋士がそれぞれの自宅(自宅が不都合な場合は他の施設)で対局し、ファンはインターネットを通じてその対局をリアルタイムで観戦することができる。

うーむ、技術の進歩はそこまできたかと感慨深い。かつて、谷川九段は「自分の生きているうちは和室で和服を着て盤駒で対局するといった慣習が変わることはないと思う」というようなことをよくいっていたが、なんのことはない、もう変わり始めてしまった。

もともと、コンピュータと将棋は相性がよいと思う。コードというか符号のやり取りさえすればよく、それ以外の盤や駒の表示は、本来、あってもなくてもよいからだ。将棋は麻雀やバックギャモンと違って必ずしも盤駒が必要ではない。

盤駒を使わずに符号だけで将棋を指すことを「目隠し将棋」という。わたしも学生のころ居酒屋で友人と符号だけで将棋を指していたことがある。当時は初段に毛が生えたぐらいの棋力だったと思うが、そのくらいの棋力でも慣れれば「目隠し将棋」はできる。ソロバンのできるひとがソロバンなしで暗算できるのとちょっと似ているのかもしれない。

つまり、将棋の世界は脳の中だけで完結している。門外漢だが、こういうところは数学に似ているのかなあと想像する。数学者が数学を考えるのに脳以外のものは必要ないだろう。将棋の世界も数学の世界も脳の中だけに存在するということだと思う。
子どものころ、男の子が何かいやらしいことをいうと(といっても子どもだからたいした話ではないが)女の子に「エッチ、スケッチ、ワンタッチ」といってはやし立てられた。

「エッチ、スケッチ、ワンタッチ」は、当時の子どもたちのはやり言葉である。七五調だし、脚韻を踏んでいるし、よくできている。

エッチとは「H」のことで、よく知られているように、変態(Hentai)の頭文字だ。「変態」といわれると立ち直れないが「エッチ」なら、まあ立ち直れる。

THE BLACK MOON という日本のおたく文化を紹介しているページでは、ecchi という単語を次のように紹介している。

Ecchi is a mild term referring to someone or something of a perverse sexual nature. It is also the Japanese pronunciation of the English letter "H" (see HENTAI).


その他、ネット上には ecchi についての説明しているページがたくさんあるようだ。ecchi は形容詞で、名詞は ecchiness ということになるらしい。

「変態」をローマ字でつづった頭文字が「エッチ」になり、それがまた英語になるのがおもしろい。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲したものです)
サクランボ

近くの公園のソメイヨシノにサクランボができていた。ソメイヨシノは挿し木で増やす園芸品種で種子ができないのがふつうだが、ここのソメイヨシノにはよくサクランボができる。親品種のオオシマザクラが近くにあるとソメイヨシノでもサクランボができやすいという。この公園には親品種といわれるオオシマザクラもエドヒガンもどちらも植えられているはずである。

日本全国にあるソメイヨシノはすべて同じ DNA をもつクローンだ。リンゴのフジもそうだったと思う。ほ乳類の体細胞クローンが作られると大騒ぎになるが、植物の体細胞クローンはむかしから利用してきたわけだ。植物には意識がないと考えられているから問題視されないのだろう。

そういえば、植物にも意識があるという研究が慶應大学で行われているとかいうことを最近聞いた。植物は早い段階で神経系をもたないという選択をして、動物とは違う進化を立派に遂げてきた生物だと思っているので、植物にも意識があるなどと動物になぞらえて考えるのはかえって植物に失礼だと個人的には思う。

機械とか道具にも意識があるかのように感じることがある。「きょうはなんだかパソコンの機嫌が悪いな」と思ったりする。どうも、対象の中に意識を見つけようとするくせが人間にはあるらしい。植物に意識があるという研究結果は、そういうくせが大きく影響しているのではないかという気がする。
きのうまでよい天気が続いており、夜更けにベランダから南の空を見るとひときわ明るい星がいつも白く輝いていた。

あんなに明るい恒星はない。惑星であることはたしかだ。水星と金星は太陽の近くにいるので夜更けに見えることはない。火星は赤い。土星は木星より少し暗い。むかしよく天体観測をしたのでそのくらいのことはわかる。

そうすると木星としか考えられないが確証はない。天文年鑑があれば確認できるが、そんなもの、もう何年も買っていない。つまり、Unidentified Twinkling Object だ。

しかし、インターネットの時代である。惑星の位置もわかる星座早見盤のようなものがネット上にあるのではないかと思って探してみると、シンプルですてきな星座早見盤が見つかった。惑星の位置もわかる。すばらしい。わたしの見ていた星はやはり木星らしい。

星座早見盤は英語で何というのかなと思ってついでに調べてみた。planisphere というらしい。この単語、いわゆる星座早見盤という意味以外に「平面球形図」という意味もあるようだ。

Google の画像検索でサイト上にある planisphere の画像を見てみると、星座早見盤の画像だけではなくメルカトル図法などで描かれた世界地図の画像もたくさんあった。地球という球体を平面で表しているのだから、それも「平面球形図」なのだろう。

こんな単語を覚えても、これから死ぬまで使うことはないだろうなあ。

もう 1 つ、ついでに見つけた、プラネタリウム感覚で見ることのできる星座早見盤のサイトもご紹介する。こちらはきれいで機能も豊富だが、惑星の位置はわからない。
命と向き合う 老いと日本人とがんの壁」という本を読んだ。

解剖学者の養老孟司さんは、現在の日本人は「自分は死なない」と思っている、そのために社会や医療がおかしくなっている、という主旨のことを最近よく書いている。

この本では、がんの放射線治療と緩和ケアの専門家である中川恵一さん、精神科医の和田秀樹さん、そしておふたりの東大医学部時代の恩師にあたる養老孟司さんの 3 人が、そういう主張を繰り返している。

対談と講演の書き起こしがほとんど。また、やはり高齢の読者を想定しているのか、文字がかなり大きい。あっという間に読み終わる。

「人間の死亡率は 100%」「がんと認知症はどちらも老化現象」というのが何度も繰り返して出てくるこの本のキーワードだ。身体の老化ががんで脳の老化がボケ。長生きすればどちらも避けることができないという。

また、中川さんは、現在の日本人にはもう 1 つ傾向があるという。それは、善か悪か、がんかがんでないか、老人か若者かなど、はっきりと割り切りたがるアメリカ的な考えが支配的になっていることだ。たとえば、終身雇用制の廃止、アンチエイジングの流行などがその例だという。

和田さんは、こういった現象から

「老いを受け入れるスタンスが弱くなっている」
「老いを前向きに受け入れることを公言して脚光を浴びた『老人力』も、マネー敗戦以来の若さ至上主義に押し切られてしまった」

という。わたしも「老人力」を読んでおもしろいと思ったが、たしかに、老いを受け入れるつもりのないひとにはあのような価値観はまったく理解できないだろう。

考えてみれば、勝ち組、負け組とかいった言葉が流行したり、ともかくお金があることがよいことだという堀江さん流の拝金主義がある程度は世間に受け入れられたりした(たとえば自民党が選挙で彼を擁立した)ことなどもそういう傾向の 1 つだ。

あるいは「脳年齢」とか「脳トレ」とかいったことの流行。多くのひとは脳が若いことが絶対的によいことだと思っているようだ。身体がどんどん衰えていくのに脳だけ元気なままでどうするのか。身体の老化に従って脳(神経系)も相応に老化しないといびつになってしまう。大学教授のように脳を酷使する仕事は脳卒中になりやすいと養老さんも何かでいっていた。

まあ、大脳生理学の第一人者久保田競さんによれば現在のゲームなどの「脳年齢」という概念には意味がないそうだ。

実際にがんになってからこういう本を読むのはつらいし、痴呆症になってからではおそらく読めない。いまのうちに読んでおくのがよいと思う。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲したものです)
騒音とは「やかましい音」のこと。わたしは知らなかったが騒色ということばもあるらしい。街の景観にそぐわないけばけばしい色として公害の 1 つと見なされているそうで 20~30 年前から知るひとぞ知る用語のようだ。では、騒臭ということばはあるのだろうかと思ってぐぐってみたら、数は非常に少ないがまったくないというわけでもなかった。

騒色も騒臭も、むかしから存在したことばではなく騒音をもじった造語だろう。「やかましい色」「やかましい臭い」という日本語表現はもともと存在しないと思う。ただ、「やかましい色」のほうは Google で少し見つかるので、これからふつうに使われるようになるかもしれない。

先日紹介した「英語の感覚・日本語の感覚」によれば、英語には loud colorloud smell という表現があるそうだ。

辞書で調べてみると、loud color は「派手で不快な色」、loud smell は「強烈で不快な匂い」などと書いてある。まあ、騒色や騒臭と似た感覚なのだろう。

loud color を複数のオンライン翻訳サイトに訳させてみると、「派手な色」と正しく訳せたのは ブラザー TransLand のみ。それ以外の翻訳サイトは「大きな色」「騒々しい色」「やかましい色」などと訳した。loud smell のほうは全滅で、どの翻訳サイトも「大きい匂い」「大声で、匂ってください」など訳し、正しく訳せなかった。文脈を理解しないと翻訳はできないということがよくわかる。

loud と同じ聴覚系の単語 aloud も嗅覚の表現に使用できるようだ。研究社リーダーズによれば reek/stink aloud は「ぷんぷん臭う」という意味だという。

英語では色や匂いを聴覚的に表現できるというのがおもしろい。日本語と英語の感覚の違いとしかいいようがない。やはり、英語ノンネイティブが英語感覚を身につけるのはそうとうむずかしいことだと思った。
怪しい日本語研究室 という本をご紹介する。

たんご屋と同業、つまり実務翻訳を生業にするカナダ人が日本語について書いた本。著者はかなりの日本語マニアで、日本語が母語でない人でも日本語についてここまで深く考えることができるのかとびっくりする本だ。

たとえば、日本語の乱れについての節では、吉田兼好が徒然草で「『護摩する』が正しくて『護摩焚く』は正しくない」というようなことをいっているとアーシーさんは書いている。そんなこと、ふつうの日本人は知らない。わたしも知らなかった。

そして、過去形の「見た」は「見たり」の省略だがだれも「り抜きことば」といって告発したりしなかったといい、「日本語の乱れ」は日本語の変化をその時代の主観で否定的に捉えたに過ぎないという見方もできると指摘している。最近の日本語は乱れていると嘆いているだけの日本語蘊蓄本が多い中で、日本語を母語としない人が日本語に愛情をもって冷静に分析しているのはすばらしいと思う。

そのほか、外来語やカタカナ語などの話、パソコンの OS が表示する不思議なメッセージの話など、さまざまな話題を英語ネイティブならではの視点でおもしろおかしく分析している。

ところで、ジャケットについている著者の顔写真やプロフィールを見ていて気がついたが、どうやらたんご屋はこの著者と話をしたことがある。ずいぶん前に東京郊外の英会話サロンのようなところで何回か会ったことがあると思う。場所が場所なので英語で話をしたが、これほど日本語に一家言のある人だったのなら、日本語についての話を日本語でしてみたかった。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲したものです)
このブログ右下の[その他リンク]の欄に載せている「ちょっと便利帳」というサイトをご存じだろうか。実にあきれるほど多くの情報が載っているおもしろいページで、全国地名読み方一覧度量衡換算色彩辞典 など独自に制作されたコンテンツもたくさんある。

みんなの知識委員会という団体のページということになっているが、もともとは 福島中央テレビ というテレビ局が社内で使用するために作成したサイトだった。記者が調べものをしたりアナウンサがテレビで披露する蘊蓄を仕入れたりするために使っていたのだろうか。

かつてこのサイトで知ったことで、おもしろいと思ったのは、年齢が 1 つ加算されるのはいつかという話。誕生日に加算されると考えるのがふつうだと思うが法的には誕生日前日の 24 時だとのこと。

たとえば、国民投票の投票権が 18 歳からになるということが話題になっているが、誕生から 18 年目の誕生日の前日が投票日になる青年は投票権があるということになる。

まあ、「誕生日前日の 24 時」と「誕生日の 0 時」は表現のしかたが違うだけで同じ瞬間のことだから、こういったことをはっきりさせるための便宜的な取り決めにすぎないが、おもしろい話だと思う。

このサイト、いろいろな調べものにも使えるだろうが、時間のあるときにぱらぱらと見ているとへたな雑学本よりおもしろい。

追記(2007/05/22):
ここでは勘違いのないように 24 時間制で表記したが、別の言いかたをすると「誕生日前日の 午後 12 時」および「誕生日の午前 12 時」ということになると思う。そのことについては、以前、午前12時、午後12時という記事で書いたのでごらんいただきたい。
山口仲美さんの「日本語の歴史」という本を読んだ。ちょっと読みにくかった。

奈良時代から平安時代までは、万葉仮名、宣命体、変体漢文、漢字カタカナ交じり文、草仮名文、ひらがな文といった日本語表記自体の変化の歴史を実例を交えながら説明している。

鎌倉と室町時代は、「なむ」「ぞ」「こそ」という強調の助詞の係り結びがなくなっていくことを例にして、古典文法の変化情緒を重んじた平安貴族に代わって武士が台頭するにつれて日本語が情緒性よりも論理性を重視する文法に変化していくようすを解説している。

江戸時代は、「浮世風呂」を例に、発音の多様性と変化のようす、人称や敬語の使われかたや成り立ち、女房詞(おでん、しゃもじなど)、遊里詞(ありんす、なんすなど)について書いている。つまり、文化の担い手が貴族から武士を経て(江戸の)町人に変わってきたということらしい。

明治時代以降は、言文一致の流れを中心に、ローマ字のこと、西洋語の漢語への翻訳のこと、「ござる」体や「である」体のことなどを説明している。

こうやって書いてみると、かなり多岐にわたる内容になっていることに気がついた。啓蒙書なので1つの主題を数ページで済ませてしまっているが、専門的にはどの主題でもそれだけで何冊もの本になるようなことなのだろうと思う。

現在でも外来語をカタカナにして「サボタージュする」とか「ナイーブだ」のように「する」や「だ」をつけることで外来語を簡単に日本語に取り込んでいるが、江戸時代以前でも漢語に「す」とか「たり」「なり」をつけて日本語の語彙にしてきたわけで、それと同じことをやっているんだなあと思った。

ただ、日本語が漢字を利用してきた歴史ということなら、高島俊男さんの「漢字と日本人」のほうが、わたしには読みやすかったし、おもしろかった。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲したものです)
たまたま見つけたのだが、「水戸黄門大学」というサイトに人気時代ドラマ「水戸黄門」のいろいろな雑学が載っていて、これがなかなかおもしろい。

このサイトは大学を模した構成になっていて、いろいろな情報が「社会学部」「理学部」などの学部に分類されている。その中の「外国語学部」では水戸黄門に出てくる定番の台詞を英語でいうとどうなるかが紹介されていた。

たとえば、商人が役人に菓子折を差し出すときの台詞。

This is nothing to speak of , but please accept it.
/つまらないものですが、どうぞおおさめのほどを・・・

と書いてある。そういうものなのか。自分で使うことはないだろうが勉強になる。

しかし、実際に字幕か吹き替えに使われている英語を紹介しているのだろうが、あの番組で商人が役人に菓子折を差し出すときはそれはたいていわいろで菓子の代わりにお金が入っているものだと思う。そういうときに「つまらないものですが」なんて殊勝なことをいっていたかな。まあ、最近あまり見ていないのでよくわからない。

日本人ならだれでも知っているだろう名台詞は次のようになっている。

The man who's standing here is Shogun's uncle , the great lord Mitsukuni Mito .
/ここにおわすお方こそ、前の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ!

Bow your heads , down your knees .
/頭が高い、控えおろう!

なるほど、「前の副将軍」をそのまま訳そうとしても訳しようがない(ex-vice Shogun では仮に通じたとしてもその価値が伝わらない)から将軍の叔父という別の表現を使っているわけか。というか水戸光圀は将軍の叔父だったのか。知らなかった。

英語ノンネイティブのわたしにはよくわからないのだが、The man who's standing here is … なんて表現、本当にするのだろうか。極端な直訳のように思えるが。

This gentleman is … などではもったいぶった感じが伝わらないということなのかもしれない。

とまあ、こんな具合でなかなかおもしろいが、タイポかなと思われる部分もあった。

悪い役人が女をたらし込もうとする場面の台詞。

Nobody will come to matter how you scream. Now, stop struggling, and listen to what I have to say.
/呼んだって誰も来るものか。さ、観念してワシの言うことを・・・

この to matter howno matter how の間違いだろうなあ、やっぱり。
ことしの母の日はアロマテラピーができるとかいう何種類かの精油(essential oil)と、それらを蒸散させるためのランプを贈った。

しかし、それらの精油の瓶には英語の名札が貼られており、母はどれがどれかわからないとのことだった。「日本で売ってる商品なのになんで英語の名札しかつけないかな」とちょっと腹が立った。

母に贈ったのは、グレープフルーツ、ティートリー、ペパーミント、ラベンダー、タンジェリンの 5 つだ。そこで、購入した業者のサイトからそれらの英語表記に対応する日本語とアロマテラピーとしての効能書きを印刷して郵便で送ることにした。

それはまあよいのだが、グレープフルーツの説明を見てびっくりした。対応する英語表記に Greapfruit と書いてあったのである。

あれ、こんな綴りだったっけ。たしかグレープフルーツはぶどうのように房でたくさんの実がなるからグレープフルーツというのだと思ったが。それなら grapefruit のはずと思って辞書を引いてみたら、やはり、英語では grapefruit が正しいようだった。

greap という英単語はないようだが、なんとなく嫌な感じのする綴りだ。greasy とか creep とかいう単語を連想するからか。そもそも、greap なら「グリープ」と読むだろう。「グレープ」とは読めない。

ただわたしが無知なだけで欧州には greapfruit と表記する言語があるのかもしれない。もしご存じのかたがいらっしゃれば教えていただきたい。
ずいぶん前のはなしだが、両親が海外旅行に行くというときに電話がかかってきたことがある。

両親が海外旅行に行くのはそれが 2 回目だったが、英語を始めとして外国語はまったくできないひとたちである。少しは不安になったのだろう。次のようなやりとりをした。

「何か持って行ったほうがよいものはあるかね」
「割りばしを束でもっていくといいよ」
「そうか」

そう、割りばしなのである。海外に慣れていない日本人は海外旅行に行ってナイフやフォークで食事をしても本当に食べた気がしないのだ。味がよくわからない。そういう日本人が海外の食べものの味を本当に楽しむにはハシで食べることが重要であると思う。

返還前のマカオのポルトガル料理店で、現在は連れ合いになっている女性と食事をしたことがある。たんご屋はハシをもってくるように中国人の店員さんに頼んだ。そんなことを頼む人はめったにいないらしく店員さんは店の奥に引っ込んていったが、しばらくして安物の割りばしを一膳持ってきた。

中華文化圏のはずなのに割りばししかないのかいなと思ったが、ともかく、その割りばしで干しダラを食べようとした。だが、干しダラはとても堅く割りばしはすぐに折れてしまった。中国人の店員さんたちはそれを見てへらへらと笑っていた。日本ならすぐに代わりのハシをもってくるのにと憤慨した。

どこの航空会社か覚えていないが、機内食にハシが出てこなかったのでハシを頼んだこともある。そうしたら「ハシはない」といわれた。

また、ベルギーのアントワープで中華料理屋に行ったときもハシが出てこなかった。例によってハシをもってくるように店員に頼んだが、やはり「ハシはない」といわれた。中華料理屋なのにハシがないとは、あきれた。

中国や韓国でもハシを使うが、ハシだけでなく蓮華やスプーンを併用しているようだ。日本人が蓮華やスプーンなしのハシだけで食事をできるのは、食器を手で持ち上げて口まで運ぶという文化のおかげだろうと思う。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲したものです)
ずっと自宅にいると商品の勧誘などいろいろな電話がかかってくるものである。

あのー、洗濯機を掃除させていただく新しい会社でして、ご挨拶ということでお電話をさしあげています
「はあ、そうですか」
えーっと、奥さまはいらっしゃらないでしょうか
「はあ」
あのー、お子さんですか
「はあ、いま妻はおりません。なぜ妻に話す必要があるのですか」
あのー、ご家庭の掃除などは奥さまがやっていらっしゃると思いますので…

まずここでカチンと来たが、まあ、ちょっと相手をしてやろうと思った。

「いや、うちではわたしがやっていますが、それがなにか」
それはどうも失礼しました。あのですね、これから梅雨の季節になって洗濯槽に黒いカビができやすいんですよ。マイナスイオン水でそれがきれいに落とせますのでね
「… はあ。… そのマイナスイオンってなんですか。陰イオン、つまり negative ion のことをおっしゃっているんですか」

ふつう、このぐらいいえば「ああ、よく知りません、ごめんなさい」といって向こうから電話を切ることが多い。ところが今日の相手はけっこうしつこかった。

はい。そのとおりです。マイナスイオン水で洗濯槽のよごれを落とすということをやらせていただいていまして、みなさんによろこんでいただいております

と、まだ食いついてきた。

「ふーん、そうですか。ところで、その会社はどこにあるのですか」
東京の○○です
「あなたは社員ですか」
いえ。わたしは雇われて電話しているだけなのですけどね
「なるほど、そうですか。あなたね、あなたのいうことを信じて騙されるひともいるかもしれないじゃないですか。そういうことをやっていると、インチキ商売の片棒を担ぐことになりますよ。ちっとは考えてから仕事を選んでくださいね」

といって、わたしは電話を切った。
英語の感覚・日本語の感覚
〈ことばの意味〉のしくみ

著者: 池上嘉彦
出版社: 日本放送出版協会

ことば、文法、意味といったことのしくみや日本語と英語つまり日本文化と英語圏文化のそれぞれの特徴を比較して精緻に説明している本である。

この本、最初のほうは、ことばというものに関心のあるひとならだれでも知っているだろう、あるいは考えたことがあるだろうと思えるような内容が妙に丹念に書かれていて、ちょっと退屈だなあ、こんな本を買ったのは失敗だったのかなあ、と思いながら少しずつ何日もかけて読んでいた。

ところが、途中から俄然おもしろくなってきて、最後まで一気に読んでしまった。もう 1 回読んだら、また感想が変わるかもしれない。

全 7 章で構成されているが、第 3 章の後半で「表現の形式が違えば意味も違う」ということが書かれており、このあたりから少しずつおもしろくなってくる。たとえば

John showed Mary a photo.
John showed a photo to Mary.

はどのように意味が違うのかということが説明されている。これは「日本人の英語」か何かマーク・ピーターセンさんの本でも読んだような気がするし、それ以外の本にもよく書いてあることだと思う。しかし、

I believe John honest.
I believe John to be honest.
I believe that John is honest.

の意味あいの違いまで分析しているのは、わたしは初めて読んだ。

最終章は「ことばの限界を越えて」ということで、「ことばの牢獄」「ことばが世界を作るという意識」といったちょっと哲学的な内容から俳句と英語のことまで、幅広い内容が書かれている。

とくにおもしろいと思ったのは、日本画と洋画の違いや、日本庭園と西洋庭園の違いが、日本語と英語の違いと平行しているという指摘だった。

言語は「文化」そのものなのでそういうことがあってもふしぎではないとは思うし、俗流精神分析のようにやりかた次第でどのようにでも解釈できるという面もあると思うが、それでもおもしろい。
昨日やっていた英日翻訳の原稿に tape pulling という表現が出てきた。一般的な英語表現だと思うので、ここに書いても問題ないだろう。

文脈からいって磁気テープ(magnetic tape)と関係のある動作あるいは操作であることは間違いない。しかし、どういう動作や操作のことをいっているのかわからず、辞書で調べてもわからなかった。

コンピュータで使う磁気テープは、たとえばカセットテープのようなもの、といえばどなたもおわかりになると思う。非常に古くから使われている記憶媒体だ。大型コンピュータや中型コンピュータでは音楽録音用のカセットテープよりもう少し大きな磁気テープを使う。

余談だが、音楽録音用のカセットテープにもデータの記録はもちろんできる。わたし自身、MSX という 8 ビット コンピュータの記憶媒体として音楽用のカセットテープを実際に使用していたことがある。なお、NEC の PC-9800 シリーズ、日本 IBM の 5550 シリーズなどは 16 ビット コンピュータ。MSX はその 1 つ前の世代のコンピュータである。

むかしの SF ドラマ、ウルトラマンなどで描かれていた近未来のコンピュータには、たいてい前面に大きなテープがあってぐるぐる回っていたような記憶がある。いま考えるとなぜテープなのと思うが、昨今のコンピュータの進歩はむかしのひとの想像力を簡単に抜き去るほど速いということだろう。

またじじいの昔話になってしまった。閑話休題。辞書ではわからないので、しかたなく tape pulling という表現を Google で調べていたら、tape pulling timetape pulling hours という表現が出てきた。ああ、これは「テープの走行時間」のことか、ということは、tape pulling は「テープの走行」のことだな、とわかった。

なぜ、pull で「走行する」という意味になるのか。

pull を改めて辞書で調べてみると「(車や列車が)進む」という自動詞があった。そういえば pull over (車を脇に寄せる)という有名な句動詞がある。それと同じような感覚で「テープが進む」ということなのか。

しかし、わたしは、この表現は駆動装置(drive)がテープを少しずつ引っぱり出しているイメージから来ているのだと思う。テープは自分で動くのではなく駆動装置が動かしているわけだから。

「テープの走行時間」を英語にしろと日本人にいったら、ほとんどのひとは tape running time と書くのではないか。Google で検索すると、tape running time という表現も多く使われている。
tape running time は、テープの側から見たいいかた、tape pulling time は駆動装置の側から見たいいかたなのだろう。

日本でも駆動装置の側から見た「テープ引き出し時間」という表現があってもよいだろうと思うが、少なくとも Google ではそういう表現を使っているサイトは見つからなかった。どうやら、現在の日本語では「テープ走行時間」というしかないようだ。
ラー油

数年前から、ラー油は自分で作っている。

きっかけは、それまで使っていた市販のラー油がなくなっていたときに、少量のラー油を手作りする方法を紹介しているサイトをたまたま見つけたことだ。
「かんたんそうだし、おもしろそうじゃない」
と思ってやってみた。
思ったように辛くならなかったのだが、よい香味油になっていて連れ合いにも好評だった。

最近ラー油がなくなっていて、「また作ってよ」といわれていた。ところが、これまで参考にしていたサイトが見つからない。
「うーん、何回か経験しているのだから記憶をたよりにやってみるか」
ということで、やってみた。

以下、わたしが実際にやった方法をご紹介する。

ジャムの空き瓶に、鷹の爪を数本、一味唐辛子を適量、八角茴香をひとかけ、胡麻と花椒と五香粉を少しずつ入れてから、ごま油をひたひたに入れて一晩おいておく。

次の日、白ネギの青いところの輪切り、ニンニクひとかけ、ショウガの皮を追加で入れて、すべての具が浸かる状態になるまでごま油を足す。

いよいよ調理開始。

といっても、実に簡単。その瓶を 170 度のオーブンに入れて 20 分ほど加熱するだけなのだ。

以前お世話になったサイトには、具を焦がすと苦くなっておじゃんになるとくどいほど書いてあった。そこで、ときどきようすを見ながら油はグツグツいいながらも具は焦げないように気をつけた。

本来のラー油はある程度の量を中華鍋で作るものらしいが、一般家庭には量が多すぎる。そこで、少量だけ作るこの方法を考え出したひとがいたというわけだ。

さっそく中華奴に使ってみた。とてつもなく辛くなっていた。一味唐辛子の量が多かったらしい。

でも、うちは辛いものが大好きな家庭である。うまいうまいといいながらふたりともおいしく食べた。
まあ、成功だったといえるだろう。


追記:
もちろん、ネギは白いところを使ってもよいし、ショウガは実の部分を使ってもよい。ネギの青いところとショウガの皮を使ったのは、わたしがケチなだけである。

油は空気に触れて酸化するので、加熱のとき以外は蓋をしておくのがよい。
病気が原因で 30 年ほど車椅子生活をしている知り合いがいる。

彼女は車椅子生活 25 周年の記念事業として市内の車椅子用トイレの図面を書いた。そのきっかけは、入院していた病院の車椅子用トイレが使えなかったこと。

最初はわざわざ車椅子利用者のために設計されたトイレを車椅子利用者が使えないなんてことがあるのだろうかと訝しく思ったが、よくよく話を聞いてみると、車椅子用トイレはたくさんあっても実は使えない車椅子用トイレのほうが多いという現実を知った。

ここで「使えない」というのは、設計や管理上の問題で使えないという意味だ。たとえば、車椅子の通路に大きな洗面台が作りつけてある、入り口にじゃまなものが置いてあるなどのことである。

彼女はおよそ 100 箇所のトイレを自ら周って図面を書いた。100 箇所ものトイレを車椅子で見て回るのはたいへんな苦労だっただろう。自分が車椅子生活になったとして同じことができるかといわれると、とてもそんな自信はない。

彼女の作成した図面は地元有志の協力によって冊子として販売され、「だれでもトイレ」というホームページとして公開された。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲したものです)
「私」はなぜ存在するか」という本をご紹介する。

尊敬する世界的な免疫学者多田富雄、生命科学者の中村桂子、そして今をときめく解剖学者養老孟司の鼎談である。

免疫の「自己」、ゲノムの「私」、脳の「自我」。自説をやみくもに主張するのではなく、互いの知識と見識を尊重しながら各自のこだわる主題を 1 つずつ整理していく。無駄な発言がほとんどなく議論が絶妙にかみ合っている。お互いがお互いを認め、信頼し合っていることがわかる。

多田先生は本書発行の後脳梗塞で倒れた。一命はとりとめたものの声を失い半身不随となった。それからの活動がまたすごい。

文藝春秋に「鈍重な巨人~脳梗塞からの生還」という手記を発表。さらに倒れるまでは使えなかったというパソコンを片手で操作し、遺伝学者柳澤桂子との往復書簡「「露の身ながら―往復書簡いのちへの対話」、さらに社会学者鶴見和子との往復書簡「邂逅」をあいついで上梓した。

柳澤先生は長年にわたる闘病を続けながら明晰で示唆に富む科学エッセイを発表している学者。鶴見先生は、脳出血で半身麻痺になられたが世界的な社会学者だ。お 2 人とも現在ガンと闘っていらっしゃる。

どちらの往復書簡もおすすめだ。人は病気で苦しんでいても、こんなにも明るく前向きに生きられるものなのか、とうならされる。

多田先生には次のような名言がある。
女は存在、男は現象
なるほど、実にうまいことをいう。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲したものです。鶴見和子先生は残念ながら故人となられました。ご冥福をお祈りいたします。多田先生の手記は「邂逅」に収められています)
先日、テレビのニュース バラエティを見ていたら、男性アナウンサが「逆 DV」という言葉を使った。連れ合いがおもしろがって「逆 DV だって」とわたしに話しかけてきたので、「うーむ、たしかにそういったね」と答えた。

さて、このアナウンサはどういう意味で「逆 DV」という言葉を使ったかおわかりになるだろうか。

DV とは domestic violence の略で、そのまま訳せば「家庭内暴力」のことである。
では、「逆 DV」とは「家庭暴力」のことだろうか。それとも「家庭内平和」のことか。

実は、そのアナウンサが使った「逆 DV」という言葉の意味は女性から男性への暴力のことだった。

そのアナウンサは「DV とは男性から女性への暴力のこと」と思いこんでいて、逆方向の暴力ということで「逆 DV」といったのだと思われる。

そういえば、むかし「逆セクハラ」という言葉もあったか。なんだかもう、わけがわからない。
PCの警告、きつすぎます」という記事。
「重大なエラーが発生しました」「深刻なエラーが発生しました」「不正な処理が行われたため、アプリケーションを終了します」といったパソコンのメッセージが心臓によくないという。
おもしろいと思って読んだ。

この記事中、実務翻訳者の女性は

「『notice』や『warning』はいわゆる『警告』で、『critical』とかが『重大な』で、『damaged』『failure』『error』になっているっていう英語からきてるんですけど。そもそもアメリカ人だと、わざわざ『critical』とか言ってあげないと、『warning』くらいじゃ全然注意しないんじゃないかと思うんですよねー」

と説明している。

まあ趣旨はそのとおりと思うが、個々の訳語の感覚はわたしと少し違う。

notice は「警告」ではなくて「注意」とわたしなら訳すと思う。caution もそうだ。「警告」と訳すのは warning だけだ。「重大な」には critical もあるけれど fatal もある。どちらも「致命的な」と訳す場合もある。それだとユーザはもっとびびるだろう。「深刻なエラー」は、おそらく serious error の訳語だ。

いずれにせよ、critical error、fatal error、serious error が「重大なエラー」「致命的なエラー」「深刻なエラー」などと日本語で表示されるのであればたいした問題ではないと思う。

本当に深刻なのは、こういったエラーメッセージが英語のまま表示されたときだろう。訳されていないということは表示される可能性が非常に低いと考えられているメッセージなのだから、そのコンピュータはかなり深刻な状態になっている可能性がある。
「大地震」と「大震災」は「おおじしん」と「だいしんさい」と読む。原則としては、和語につけるときは「おお」、漢語につけるときは「だい」と読むのだろうから「おおじしん」は例外的な読みかただ。

「書籍編集者の校正日記」の鮎さんが「大地震と大震災」という記事でそのように書いていらっしゃる。鮎さんは「大勝負(おおしょうぶ)」や「大舞台(おおぶたい)」、「大火事(おおかじ)」「大喧嘩(おおげんか)」などの例を挙げ、古くから使われている言葉につく場合は漢語であっても「おお」と読むようだと分析なさっている。

なるほど、おっしゃるとおりだ。カタカナ語につく場合はどうだったかなとちょっと考えてみた。でも、例をほとんど思いつかない。1 つだけ「大ショック」というのを思いついた。これはたぶん「だいショック」と読むと思う。

わたしは子どものころ大地震を「だいじしん」と読んでいた。おとなになってからニュースでアナウンサが「おおじしん」と読むのを聞いて、あれれと思った。

辞書を見てみると、どちらの読みかたも項目になっている。新辞林では

おおじしん【大地震】大規模な地震。→だいじしん
だいじしん【大地震】大きな地震。マグニチュード 7 以上の地震をさす。→巨大地震
きょだいじしん【巨大地震】マグニチュードが 8 程度以上の大地震。

となっている。広辞苑では

おお‐じしん【大地震】広域にわたり被害の大きい地震。また、ゆれの大きな地震。
だい‐じしん【大地震】マグニチュード七以上の地震。それより小さいものに中・小・微小などの地震がある。

とのことだ。

どうやら、「だいじしん」は、小地震、中地震、大地震、巨大地震などマグニチュードで分類される用語の 1 つとしての読みかたらしい。たしかに、小地震、中地震を「しょうじしん」「ちゅうじしん」と読むのなら大地震を「おおじしん」とは読むのは変だ。かといって小地震、中地震を「こじしん」「なかじしん」と読むのはもっと変だろう。

アナウンサは、専門用語の大地震(だいじしん)と混同されないように「おおじしん」と読んでいるのかもしれないと思った。


追記:
その後、カタカナ語につく例として「大リーグ」「大オーケストラ」「大サーカス」を思いついた。これらは、みな「だい」と読む。カタカナ語は古くから使われていた言葉ではないので漢語と同様に「だい」と読むというのが原則だろうと思うが例外はないのだろうか。

さらに追記:
「大ショベルカー」は「おおショベルカー」と読むかもしれない。「大テーブル」「140 カラットの大ダイヤ」はどうだろう。

親譲りのラッシュで小供の時から損ばかりしている。小学校にビーするタイム学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたとヒアーする人があるかも知れぬ。別段深いリーズンでもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人がジェストゥに、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。カワードゥやーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰をオミットゥする奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

どこかで見たような・・・という感じだろうか。実はこれ、夏目漱石の「坊ちゃん」の冒頭部分である。「ルー語変換」というサイトでタレントのルー大柴さんのような日本語に変換したのがこの文章だ。

全体におもしろい文章に変換されていて感心する。特に、「聞く」を「ヒアーする」、「腰を抜かす」を「腰をオミットゥする」に変換しているところがおもしろい。

「なんとも機械的な置き換えだなあ、その『聞く』は hear じゃないよ」とさかしらに文句をつけたくなるが、よく考えると、わたしたちがふだん使っているカタカナ語も同じようなものだ。苦情は complaints ではなくてクレームだし、平凡な会社員が apartment ではなくてマンションに住んでいたりする。

ルー大柴さんの持ち芸は過剰に英語を交ぜて話すことで観客の笑いを誘うことだが、その芸が笑いを誘うということは、逆にいえば、日本語に英語を過剰に交ぜることは妙なことだという感覚はまだ健在だということだろう。

以前も書いたが、安倍首相の言う「子育てフレンドリー」は、わたしには、ギャグだとしか思えない。同じことをルー大柴さんが言ったらみな笑うのだろうが、安倍首相が言うとだれも笑わない。「ホワイトカラー エグゼンプション」なんて言葉も、聞いて笑い出す人がいないのが不思議といえば不思議だ。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
最近は 「メガ」とか 「ギガ」を副詞のように使用して程度の大きいことを表現することがあるらしい。

メガ (mega)、ギガ (giga)はコンピュータ業界でよく使われる接頭辞だ。そういえば、かつての 2000 年問題も 「(Y)2K 問題」と表記されていた。それだけパソコンが一般家庭に普及してコンピュータ用語が身近になったということなのだろう。

20 年ぐらい前に情報処理業界で働いていたことがあるが、そのころのパソコンのメモリはせいぜい 1 MB しかなかった。しかも実際に一度に利用できるメモリはたったの 640 KB だった。当時非常に高価だった企業用オフィス コンピュータでもメモリは 1 MB から数 MB ぐらいしかなかったと思う。それが今は家庭用のパソコンで GB 単位のメモリも利用できるらしい。本当に隔世の感がある。そのころは、メガだのギガだのという用語を業界以外の人が使うようになるなんて想像もできなかった。

こんなにコンピュータ用語を多用した文を書くと、もう読みたくない、というひともいるかもしれない。申し訳ない。いちおう簡単に説明する。

メモリとは主記憶装置(main memory)のことで、コンピュータがデータを実際に処理する作業場のようなところである。もちろん、作業場が広ければ広いほどコンピュータは速く安定して動作する。

KBMBGB とは、それぞれ キロバイト(kilobyte)、メガバイト(megabyte)、ギガバイト(gigabyte)のことだ。byte(バイト)とは英数字の 1 文字分に当たる情報量の単位である。

コンピュータでは 2 進数 1 桁を binary digit つまり bit (ビット)といい、それが情報の最小単位である。1 ビットではオフ(0)とオン(1)の 2 つの状態を表すことができる。2 ビットなら 00、01、10、11 と 4 つの状態を表現できる。当たり前だが、表現できる情報量は 1 桁増えることに倍々で増えていく。

1 バイトという単位は、もともとは 6 ビット~8 ビットまでいくつか種類があったらしいが、現在ではふつう 8 ビットのことだ。オクテット(octet) ともいう。octet の oct- は 8 を示すので、こちらは必ず 8 ビットのことである。00000000、00000001 … 11111110、11111111 といったふうに 2 の 8 乗、 256 個の状態を表現できる。

たとえばタイプライタで使われるアルファベット、数字、各種記号などは全部で 256 種類もないわけだから 1 バイトで十分に表現することができるわけだ。日本語、中国語、ハングル文字などは 1 バイトでは足らないので、ふつうは 2 バイト(16 ビット)を使って表現する。つまりそれが全角文字である。

km とか kg の k は 1000 のことだが、KB の K は、ふつう、コンピュータの世界では 2 の 10 乗1024 のことだ。同様に、メガは 2 の 20 乗1048576、ギガは 2 の 30 乗1073741824 のことである。ただし、コンピュータの分野でも、それぞれ 1000、1000000、1000000000 である場合もあるので、ややこしい。

K のように大文字だと 1024 のこと、k のように小文字だと 1000 のことを示すと何かで読んだことがあるが本当かどうか知らない。でも、わたし自身はそれをいちおうの目安にしている。

なお、通信の世界ではバイトではなくビットが単位になることが多い。Mb と「b」を小文字で書いてあると、ふつうはメガバイトではなくてメガビットのこと。
先日の句動詞についての記事で「高校のときに句動詞をたくさん覚えさせられたが残念ながら忘れてしまった」というコメントうさぎいちごさんにいただいた。

わたしも単なる名詞や動詞などの単語よりも句動詞のほうが忘れやすい気がしている。それは一部の句動詞がイメージと連動させにくいからなのではないかと思った。

draw という動詞は、引っぱるというイメージで覚えている。この単語の描くとか(線を)引くという意味も、わたしの頭の中では、紙の上でペンの線を引っぱるという同じイメージにつながっている。わたしは単語をそういうふうに覚える。したがって

draw in fluid by suction (液体を吸引力により吸引する
the sessions drew crowds (観客を動員した
We can draw the following conclusions (以下の結論を導き出すことができる)

といった意味なら、引っぱる(引っぱり出す)というイメージで連想できるので容易に読解できる。

しかし

draw on one's knowledge and experience 知識と経験を生かす(活用する)

の場合は、on の接触継続のイメージを動員しても draw の引っぱるというイメージからは意味を連想しにくい。このあたりが、一部の句動詞というものの覚えにくさ、忘れやすさの原因になっているように思う。

もちろん、句動詞でもイメージで記憶できるものもある。draw に関する句動詞でいえば、draw out (引き延ばす、だらだら続く)とか draw up (策定する、書類を作る)などはイメージで理解しやすい。ほかの動詞での句動詞の例を挙げれば、put onput togetherput asideput away などはイメージで覚えやすいし、実際、わたしはイメージから覚えている。

しかし、draw on のような(わたしの英語レベルでは)イメージで覚えにくい句動詞は、新しい単語だと思って覚えるのがよいのかもしれない。

そのようにして覚えた句動詞がある程度の数になるとブレークスルーが起きて、いまの段階ではまだ理解できていない、 drawon についての新しいイメージを得ることができるような気がする。

ところで、draw には「引き分け」という意味もある。ここにも「引」という字が使われているのは偶然なのだろうか、それとも「引き分け」という日本語は draw からできたのか。「くじを引く(draw lots)」とか「預金を引き出す(draw out a deposit )」の「引」はどうなのだろう。
UFO は「Unidentified Flying Object未確認飛行物体)」の略。つまり「何だかわからないが空を飛んでいるもの」だ。

日本では「ユーフォー」と読むことが多いが海外では「ユー・エフ・オー」とアルファベットで読むのがふつうらしい。もっとも、わたしのもっている辞書で発音記号のあるものはすべて両方の発音を載せているので「ユーフォー」が間違いというわけではないだろう。

そういう物体ならわたしも目撃したことがある。中学では理科部、高校では天文部に所属していたので夜空をながめる機会はおおかったが、何だかわからない星ではない光がゆっくりと動いているのをみたことは何十回もある。あれらも確認されていない飛行物体なのだから UFO なのだろう。

もっといえば、とおくのほうで「あれはカラスかな、トンビかなあ」という物体がとんでいることもある。それも「未確認飛行物体」だ。

小学生のような屁理屈をいってしまったが、ふつう、UFO といえば「空飛ぶ円盤flying saucer)」ともいわれる、異星人だか未来人だかの乗りもののことだというのはわかっている。

あなたはUFOを信じますか?」 というアンケートによると、日本人の約四割は UFO の存在を信じているという。

四割ものひとが UFO の存在を信じているというのは興味深い。科学的とされていないことで、これほど広く信じられている観念は、めずらしいのではないだろうか。四割といえば、サンタクロースや座敷わらしなどの存在を信じているひとよりもたぶんおおいだろうと思う。

わたしは UFO を信じていない。どうして信じないかというと、積極的に信じる理由がないからだ。

「中国の山奥には真っ白のカラスがいる」とか「太平洋の真ん中の海中深くには全長 500m のタコが棲んでいる」とかいわれたとしても、そんなことは絶対にありえないとはいえない。しかし、その話を積極的に信じなければならない理由はない。UFO の話もわたしにとってはそれと同じだ。

ただ、地球がまるいということも、わたしは信じているが、自分の目で見たり自分のからだで感じたりしたというわけではない。そう信じたほうが、いろいろなことのつじつまが合うというだけだ。その意味では、科学を信じていることと UFO を信じていることは本質的にはあまり変わらないと思う。
昨年の英検準一級の問題をやって draw on という句動詞の問題を間違えた。「…を利用する」という意味があるらしいが知らなかった。

わたしはこういう句動詞に弱い。それは知っていたはずだが、忘れていた。というか、その点を強化する必要性をあまり感じてこなかった。英語の運用能力を全体的に高めるにはこういう弱点を重点的に補うことが必要だろう。英検の過去問を解いてみることで自分の弱点を改めて認識することができてよかったと思う。

句動詞に弱いのは、これまで読み書き中心に英語に接してきたこと、そして、自分が仕事で接することの多い技術英文には句動詞があまり使われないことが原因だろう。

英文テクニカル ライティングの通信講座を受けたことがあるが、句動詞はできるだけ使わないのがセオリーだと習った。つまり、put out よりも extinguishturn around よりも rotategive back よりも return などを使うほうが意味が厳密かつ明快になるとされている。技術英文の著者はふつうはテクニカル ライターなので、そのセオリーに則って英文を書いているだろう。それなら、わたしが句動詞に接する機会は必然的に少なくなる。

句動詞の効率的な覚えかたはわからない。やはり、たまたま出会ったものを順々に覚えていくしかないのだろうか。

今回は、自分の学習のために、draw を使った句動詞をまとめてみる。

Scientists today know that galaxies are drawing ( away ) from us.
He drew ( back ) into the crowd to avoid being identified.
We plan to draw ( down ) cash reserves for any major expense.
Only humans can draw ( on ) past experiences to plan for the future.
The teacher gently drew the shy child ( out ).
You should not have bought such a tediously drawn ( out ) book.
Bob drew ( up ) at the stepping stone, alighted and opened the door.

なお、この記事をカラーモニタでごらんのかたは、カッコで囲まれている部分の単語が記入されていないかのように見えると思う。前景色と背景色を同じにしているからだ。マウスでドラッグするなどの方法で文を選択して反転表示させるとカッコ内の単語も表示される。
東京地方は、この大型連休の間、行楽に適したさわやかに晴れた日が多く、けっこうなことだった。昨日もあまりにきもちよく晴れているので昼過ぎから数時間連れ合いといっしょに近くの公園に行きシートを敷いてごろんと横になったり世間話をしたりしていた。

徒然に話をしていたときに連れ合いがとつぜん「あっ」といった。何だろうと思うまもなく自分の頭の右側にボコッと何かが当たった。

なんだろうと思ったら、子どもが飛ばしたプラスチックの円いプロペラが後方から飛んできてわたしの頭に当たったらしい。振り返ると、何十メートルか先に 10 歳ぐらいの少年がばつが悪そうな顔で立っていた。

公園でなごんでいると、こういうことは珍しくはない。ビーチボールやらサッカーボールやらが飛んでくることもある。そういうときは、飛ばした本人が「どうも、すみません」といって取りに来るものだ。

公園には球技が禁止されている場所がある。もしそういう場所だったとしたら、こちらも文句をいう。だが、そのときわたしたちがいた場所は球技などが禁止されていたわけではなかった。取りに来てくれれば「もうちょっと気をつけて遊んでね」といって返すつもりだった。

ところが、その少年は取りに来なかった。取りに来ないのにこちらからもっていってやるほどやさしくはない。
「そのうち謝って取りに来るだろ」
とそのまま連れ合いとの話を続けていた。

5 分ぐらい経ってから、お母さんらしきひとが恐縮したようすで少年を連れてやってきた。
「本当にすみませんでした。子どもの飛ばしたプロペラがさきほどこちらに来てしまったそうで…」
という。そこで
「ああ、あずかっていますよ」
といってそのプロペラをお母さんに渡した。

お母さんと少年はそのまま離れていった。それでよいかなと思っていた。
だが、連れ合いはなかなかいじわるで
「あの子どもはぜんぜん謝っていないね」
と、聞こえるようにつぶやいた。

すると、少し離れたところでお母さんが少年に
「ひとに迷惑をかけたらちゃんと謝らなければダメでしょう」
と説教しているのが聞こえた。

それからしばらくして、そのお母さんは少年を連れて再びやってきた。
「本当にすみませんでした。子どもに謝らせますので」
とお母さんはいった。少年は泣きそうになりながら
「ごめんなさい」
と謝ってくれた。

そこで
「わかりました。これからは気をつけてね」
と答えた。

お母さんの対応は立派だったと思う。昨今の時勢なら親に逆ギレされるような事態も考えられなくはない。

なんだか、漫画のサザエさんで、小学生のカツオ君が野球のボールで他人のうちの窓を割ってしまって謝りにいこうかどうしようかと悩んでいるような状況での窓を割られた側の頑固で偏屈なおやじになったような気分だった。そういう年になったということだろう。

わたしたちには子どもはないが、この件では、日本の将来をになうのであろう少年の教育に少しは寄与することができたようだな、とちょっとうれしく思った。
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