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前回の「こだわり」についての記事にのらさんからとても勉強になるコメントをいただいたのでご紹介する。

米国留学経験のあるのらさんは日本語の「こだわる」を be obsessed with というふうに表現なさっていたとおっしゃる。名詞は obsession。なるほどなあと思う。たとえば

He is obsessed with money.

は「あいつはお金にこだわっている」ということか。もちろん、obsess はかなり強い意味だと思うから「やつは金のことばかり考えている」のように、もう少し強い意味の訳でもよいのかもしれないが。

わたしのもっている辞書では obsess、obsessed に「こだわる、こだわりをもつ」といった訳語を載せているものはない。のらさんが実生活から獲得なさった、まさに生きた英語表現だろう。

このコメントを読んで、わたしは、それなら be preoccupied with も使えそうだなと思った。「研究社新編英和活用大辞典」にある preoccupy の例文を 1 つ引用すると

The management became increasingly preoccupied with the enhancement of revenues. 経営者側はいかに総収入をふやすかということにますます没頭するようになった

というのがある。これなどは「ますますこだわるようになった」と訳してもよさそうだ。


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「こだわり」にこだわる
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こだわりの逸品」「こだわりの宿」「料理長のこだわり」のような表現がよく使われている。年配のひとの中には、「こだわり」ということばはもともと悪い意味だったはずだからよい意味で使うのはおかしいというひともいるようだ。

たんご屋は決して若いとはいえない中年男だが、「こだわり」をよい意味で使うことにあまり違和感はない。よい意味でも悪い意味でも、何かに拘泥、固着することを「こだわり」というのだろうと思っている。

小学館の類語例解辞典で「こだわる」を引いてみると、類語として「かかずらう」「拘泥」、関連語として「かまける」という語が載っており

「こだわる」は、否定的な評価と積極的な評価の両方に用いられる

とある。この解釈はわたしと同じである。

しかし、「ハイブリッド新辞林」「広辞苑 第四版」では「こだわる」をそれぞれ

ささいなことに心がとらわれる(新辞林)
気にしなくてもよいような些細なことにとらわれる(広辞苑)

と説明しているので、悪い意味で使う語だとしているようである。

さきほどの「こだわりの逸品」のような表現をおもしろいと思うのは、「何にこだわるか」が問題にされていないことだ。つまり「こだわりの逸品」というだけで「何にこだわっているのかはわからないしどうでもよいけど、なんとなく高級そう」という意味になっていると思われる。

もともとの意味はどうでもよくて印象だけで使われているという意味では「グルメ」ということばもそれに似ている。グルメ(gourmet)はもともと食通、食道楽、美食家といった意味のはずだが、昨今では「おいしいもの」とか「食べること」という意味でも使われている。「北海道グルメを食べに行こう」のように北海道の美食家がぞっとするような使われかたもある。

英語の辞書でも「こだわり」を調べてみた。

ランダムハウス英語辞典

hang-up
n.
【1】俗;こだわり,コンプレックス.

なるほど、「こだわり」とは「コンプレックス」か。そうすると「フェティシズム」も一種の「こだわり」といえるのかもしれない。

研究社新和英大辞典

こだわり
n. a prejudice 《against》; adherence 《to》.

prejudice は「先入観」という訳語でよく知られている。たしかに、たとえば「食わず嫌い」などは、食べものの嗜好についての意味でも比喩的な意味でも、「こだわり」であり「先入観」でもある。

追記:
「こだわりの逸品」のような「こだわり」は辞書にはもちろん載っていないが、「おすすめ」という意味だろうから the special とでもいえばよいのだろうか。



日本語を反省してみませんか
ISBN:4047040665 金田一春彦 角川書店 2002/01 ¥600

親子三代にわたる言語学者金田一春彦さんの最晩年に出版された本で、過去の原稿を寄せ集めて修正したものだそうである。生前テレビでときどきお姿を拝見した金田一春彦さんはいつも着物をお召しになっていて見るからに好好爺といった感じの先生だったが、このエッセイ集も先生が語りかけるようにやさしく書かれていてとても理解しやすかった。

書名から受ける印象とは異なって、最近の乱れた日本語に苦言を呈しているというわけではない。むしろ、日本語と日本文化に思いを巡らしていっしょに楽しみませんかという感じのエッセイ集である。言語と文化を違うものだと思っているひとはこの本で目からうろこを落とすことができるかもしれない。お父さんの京助先生の逸話も出てきたり、池田弥三郎や加藤秀俊などのなつかしい文化人のお話なども出てきたりするところも興味深い。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
以前、NHK ラジオで遠山顕さんの「英会話入門」という番組をよく聴いていた。いまは聴いていないのでわからないが、たぶんこの番組はなくなっているはずだ。その中のあるコーナーでは「睦月一月」「如月二月」というふうに陰暦月の別称を必ず読み上げていた。英会話の番組なのについでに陰暦月の別称も覚えさせようとしていたのだから粋な番組だったと思う。

陰暦月の別称は、一月から順に次のとおり。

睦月(むつき)、如月(きさらぎ)、弥生(やよい)、卯月(うづき)、皐月(さつき)、水無月(みなづき)、文月(ふづき)、葉月(はづき)、長月(ながつき)、神無月(かんなづき)、霜月(しもつき)、師走(しわす)

文芸教養のある人なら自然に覚えるのだろう。たんご屋は子どものころ科学少年で文芸のことはまるでわからないので、自然に覚えるということはなかった。わたしが覚えたのは、宇宙物理学者の堀源一郎さんが子ども向けに書いた天文学の本からである。その本には、次のような呪文が紹介されていた。

むきやうさみふ、はなかしし

陰暦月の頭文字を並べただけである。無理な語呂合わせと思われるかもしれないが、いちおう七五調にはなっている。この句を「向こうを見よ、花か獅子」というイメージと重ね合わせて覚えるのだ。意外に忘れないものである。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)


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数の読みかた
OL とは女性会社員のことだが、わたしはこのことばを実際の人間に対してしゃべったり書いたりしたことがない。連れ合いは会社に勤めているが、そのことを他人に伝えるときは会社員とか勤め人とか言っている。

WOMANSWORD という本がある。女性に関する日本語のキーワードを解説し日本女性の置かれている状況を考察している本である。この本の OL の項から一部を引用する。
The OL is the butt of many jokes, but few people stop to consider how the nation's business would probably screech to a halt without OLs to do paperwork and field phone calls.
この本の初版は 1987 年である。そのころから OL とは単なる女性会社員という意味ではなく、コピー取りや電話番などを主な仕事にする職業という含意があったということだ。

女性会社員には昭和 30 年代まで BGBusiness Girl)という呼び名が使われていた。ところが英語圏では BG は Bar Girl の略称で売春婦の意味でも使われるということが知られ、東京五輪(昭和 39 年)の前年に雑誌「女性自身」が新しい名称を公募した。その結果、この OL ということばが選ばれたという。

なぜふつうに会社員という呼び名ではいけなかったのかというと、男性会社員と区別する必要があったのだと思う。当時の女性会社員は、1 つにはお茶くみや電話番のような補助的な仕事が中心だったこと、もう 1 つは結婚退職までのいわゆる「腰掛け」として就業している女性社員が多く社会もそのように見なしていたため、そうではない正規戦力としての男性会社員と区別する必要があったということなのだろう。

昨日の日経新聞の春秋も OL ということばのことを取り上げていた。いわく、
往時は輝きを放っていたに違いないこの言葉も、今やすっかり手あかが付いている。
本当に往時は輝きを放っていたのだろうか。わたしはそうは思わない。「女性」会社員を特別なものとして区別しようとしてできたことばだからだ。いずれ死語になるであろうことばだと思う。
Web ページに「当サイトはリンクフリーです」という文言を書き始めたのはどこのだれなのだろう。特定の個人が始めたというより、ある時期に同時発生したのかなという気もする。

リンクフリーは和製英語で「わたしに断らずにリンクしてくださってもよいですよ」という意味だ。英語には link free という表現はなく、しいてそのように表現すれば「リンクはありません」という意味か「リンクは無料です」という意味になるという。

このブログは、もちろん「リンクフリー」である。というか他サイトからのリンクを制限する権利がわたしにあるとは思っていない。だいいち、このブログの記事の多くは Google や Yahoo のような検索エンジンが勝手にリンクしており、それらの会社がわたしに許可を求めてきたことはない。

わたしの住む自治体の公式 Web サイトにはかつて「無断リンクを禁じます」と書いてあった。それはおかしいよとだれかが指摘したのか、現在はその文言はなくなっている。しかし、「トップページへのリンクをお願いします」という文言はいまでも残っている。この Web サイトは、トップページの下に、ゴミ出しカレンダー、催し物の情報、バスの時刻表など公共の利便のために提供しているのであろう情報ページがたくさんある。それらのページに直接リンクしていけないのならこの自治体は何のためにサイトを公開しているのか。

もう 1 つよくわからないのは相互リンク。いや、相互リンクということばの意味はわかる。2 つのページまたはサイトが互いにリンクし合っている状態のことだ。これが Google などの検索エンジンで上位に表示されるために役立つということが知れわたったためだろう、「相互リンクしてください」とか、「リンクしてくれないのならこちらからもリンクしない」とか、自サイトアクセスアップの手段としてしか考えられていない風潮がよくわからないのである。

わたしの認識では、相互リンクというのは結果として生じることであって目的や手段にするようなことではない。おもしろい、価値がある、関連があると思うページをリンクすることがあるし、相手も同様に思えば自分のページにリンクしてくれることもある。その結果としてたまたまお互いにリンクし合う状態になったのが相互リンクだろう。

このブログはこちらから一方的に他のサイトにリンクしているが(相手もリンクしてくださって結果として相互リンクになっているサイトもあるが)、相手が自分のページにリンクしてくれないということはそのひとがこちらのページに興味を持っていないというだけのことで、どうしようもないことだしふつうのことだ。たくさんリンクしてほしければ自分のサイトを魅力的にするように努めるしかない。
以前の記事で「お受験」「お教室」は「ご受験」「ご教室」という言いかたのほうがふつうではないかと書いた。もちろん、こういうことはどちらが慣用かという話であってどちらが正しいという話ではないが、和語(訓読み)には「お」、漢語(音読み)には「ご」がつけるのがすわりがよいと思う。

「受験」「教室」は単独だと「お」のほうが慣用のような気もするが「受験日」とか「教室経営者」であれば「ご受験日」「ご教室経営者」のほうがしっくりくる。

和語なのに「ご」がつくことばはちょっと思いつかないが、漢語なのに「お」がつくことばはある。食に関する用語は、漢語であっても「ご」ではなく「お」をつけることが多いようだ。「お食事」「お料理」「お醤油」「お砂糖」「お味噌」「お新香」「お茶」などである。個人的には、これらの単語に「お」をつけるのはちょっとお上品すぎるので「お」はないほうがよいと思う。

こういうことばに「お」をつけることが多い理由は、これらの漢語が外来語(または外来語的な読みかた)と意識されないほど日常のことばになっているからだろう。また、「おでん(お田楽)」のように女房詞が「お」を多用した影響もあるかもしれない。ただし、やはり何ごとにも例外はあるらしく、「ご飯」は「ご」がつくことばでしかも「ご」をとることができない。

それ以外では、「お電話」「お口座」「お返事」という言いかたもよく使われているようだ。同じようでも「お返信」はさすがにないだろうなと思ったら、Google で検索するとけっこう使われている。わたしとしては「お電話」以外は「ご口座」「ご返事」「ご返信」と言いたい。

もっと新しい外来語、つまりカタカナ語の場合はどうかというと、「お」をつける単語はあっても「ご」をつける単語はないように思う。「お」をつけることのあるカタカナ語は「おビール」「おテーブル」「おソース」「おジュース」「おトイレ」「おタバコ」ぐらいだろうか。どれも生活に密着した単語である。これらも、個人的には「お」をつけたくない。


関連記事:
お受験のお教室

追記:漢語に「お」をつけたかたちは「ご」をつけてもおかしくないものが多いようである。ここで書いた「お食事」「お料理」には「ご食事」「ご料理」という言いかたもあるようだ。「ご電話」はないだろうと思ったが、Google で検索するとそういう表記も見つかった。さすがに「ご茶」とは言わないと思うが「ご茶碗」はどうか。

はじめてわかる国語 ISBN:4062752727 清水義範 講談社 2006/02/16 ¥650

作家の清水義範さんが「おもしろくっても理科」「もっとおもしろくっても理科」「どうころんでも社会科」「もっとどうころんでも社会科」「いやでも楽しめる算数」に続き、ついに主要四教科の最後にあたる国語に手を出したエッセイ集。

挿絵およびコメント担当の西原理恵子さんは、清水義範さんのことを「ハカセ」と呼ぶ。西原さんは、このシリーズ第1作の「おもしろくっても理科」ではじめて清水さんとコンビを組んだとき、清水さんのことをなんと科学エッセーを書く学者先生だと思いこんでいたらしい。

このシリーズのこれまでの作品では、西原さんは荒れ狂っていた。たとえば「理科」では、清水さんが慣性の法則についてていねいに説明しても、西原さんにはけっきょく理解できず、例によって乱暴な絵と遠慮のないコメントを書いていた。しかし、今回は比較的おとなしい。年をとっておちついてきたか、あるいは、これまでの教科のエッセイよりは内容を理解できるのかもしれない。

清水さんといえば、国語の教員免許をもつ作家であり、「国語入試問題必勝法」というベストセラーもある。国語はいわば専門分野なわけだが、内容が濃いかというとそうでもない。本人も書いているが専門分野であることを意識しすぎたらしい。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)


いまさらながら、老人力を読んだ。

「老人力」は流行語大賞も獲った有名な言葉だが、誤って使われていることも多いと赤瀬川さんは書いている。つまり、たとえば日野原先生のように高齢にもかかわらずしっかりと仕事や生活をすることを「老人力がある」と表現する人がいるというのだ。これは、もちろん赤瀬川さんの意図した意味ではない。赤瀬川さんのいう老人力とは、物忘れがはげしくなるとか行動がゆっくりになるといったような、年をとることによって獲得する能力のことである。

老人力は、たんご屋もおおいに実感する。若いころにくらべて細かいことをあまり気にしなくなった。若いころは無限に続くように感じていた自分の人生の先も見えてきた。おかげで、わりに楽な気持ちで生きられるようになってきたようだ。赤瀬川さんは、人間ちょぼちょぼ、人生ちょぼちょぼとおっしゃっている。至言だと思う。

かといって、若いころの恋愛の苦しみや過剰な自意識といったものはむだだったのかというと、それはおそらく違う。そういうことがあったからこそ今があるのだと思う。

それにしても赤瀬川さんは本当に論理的で読みやすい文を書かれる。自分の考えていることをこれほど明晰に書くことができたら楽しいだろうなと思う。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)


読書についての主な過去記事:
世界の日本人ジョーク集
匂いをかがれる かぐや姫
「私」はなぜ存在するか
命と向き合う 老いと日本人とがんの壁
人間は情報を知覚(入力)してそれを処理し話したり書いたり(出力)するが、入力が間違っていても正しい出力をすることがある。しかし、コンピュータは入力されたデータを演算処理して出力にするだけの装置である。入力されたデータが間違っていれば、どのような演算をしても結果を正しくすることはできない。

たんご屋はむかしシステム エンジニアをやっていたが、かつて係わったことのあるコンピュータ システムに地名データベースがあった。そのデータベースは、ひとによって異なった綴りで中国の地名を登録するものだから、同じ地名なのに複数のデータが登録されていた。たとえば、北京は Peking でも Beijing でも登録されているといった具合である。

入力データには必ず誤りが混入するというのがシステム エンジニアのふつうの認識であって、それを見越して Discrepancy Report などを出力できるようにしておき、どういう頻度でそれを出力してどのように照合処理を行うかといった運用を取り決めておくのがふつうだと思う。システム エンジニアは一般に思われているようなコンピュータのソフトウェアを設計するだけの仕事ではなく、ソフトウェアを含むすべての情報と業務の流れを設計する仕事なのである。

入力データの精度が低くなりすぎると、そのデータを使った帳票や分析も使いものにならなくなる。「入るのがゴミなら、出るのもゴミになる」、つまり、コンピュータはゴミの詰まったただの箱になるわけだ。それを Garbage In, Garbage Out という。頭文字をとって GIGO とも表記する。

年金記録漏れ事件の対応でコンピュータ内のデータを突合するといっているがそれに意味があるのはデータが正しいという前提のある場合である。情報が間違っていればコンピュータの外にある情報と付き合わすしかない。外にある情報が人間の記憶だけなら、コンピュータの電気信号を人間の脳内信号と付き合わせるよりほかに方法がない。


英語表現についての主な過去記事:
loud color、loud smell
「走行」という意味の pulling
精神科医
I don't know

言いまつがい
著者: ほぼ日刊イトイ新聞編集部 /糸井重里
出版社: 新潮社

この本はコーヒーを飲みながら読んではいけない。電車の中や喫茶店で読むのも危険だ。ひとりで自宅にいるときに読むことをおすすめする。

むかし欧州のベルギーで何ヶ月か仕事をしたことがある。せっかくだから観光もしようということで、ある休日に列車でブルージュという街に行き一泊した。
観光バスを利用して街を見た。とても美しい街だった。そのときはよく知らなかったが、ブルージュ(Brugge)はベルギーのみならず欧州でも有数の美しい街だとのことである。観光バスには各座席にヘッドフォンが備え付けてあって音声による案内を複数の言語から選択できるようになっている。わたしはもちろん日本語による案内を選択した。
そのバスが運河の近くを通ったとき次のような案内がヘッドフォンから聞こえた。

ゆうゆうしい姿で立つ風車をごらんください。

「ゆうゆうしい」ってなに?ああ、「雄雄しい」のことか。


日本語の本についての主な過去記事:
文章読本さん江
日本語の歴史
中公新書「新日本語の現場」を読んで
怪しい日本語研究室
英語の感覚・日本語の感覚
年金記録漏れの件でふしぎなのは、生年月日に「9 月 31 日」というようなあり得ない日付を入力してしまったデータがあるなどといわれていることである。

わたしがシステム屋をやっていたのは 10 年以上前だが、そんな大昔でも「9 月 31 日」のような誤った情報は入力できないように設計するのが常識だった。それだけではない。うるう年かどうかを判断して、うるう年以外の年の「4 月 29 日」という日付も入力できないように設計していた。社会保険庁のシステムがいつごろ作られたのか知らないが非常に高価なシステムだと聞いている。その程度の誤入力防止機能も用意されていなかったというのがちょっと信じられない。

このような誤入力防止機能を業界で俗に「バカよけ」といった。英語では foolproof である。

接尾語の -proof は「(前につけた単語の示すもの)の影響を受けない、(前につけた単語の示すもの)から守る」ということで、たとえば、waterproof lighter(防水ライター)は「水の影響を受けない」、bulletproof glass(防弾ガラス)は「弾丸から守る」という意味になる。つまり、foolproof は「バカから守る」ということである。社会保険庁には、この foolproof 機能がなかったようである。

ところが、childproof という単語はなぜか「子どもから守る」という意味にはならず「子どもを守る」という意味になる。たとえば、childproof toy は「子どもにとって安全なおもちゃ」だ。ことばとはおもしろいものだと思う。


英語表現についての主な過去記事:
Doubting Thomas
水戸黄門の英語表現
scientific wrestler
「さすが」を英語で
貧乏性
漫談家の長井秀和さんは、ちょっと意表を突く辛辣なことをいったあとに「間違いないっ!」と強く断言して笑いを誘う。

長井さんの「間違いない」は英語でいえば no doubt ということだが、これを「間違えない」だと思っているひとがいるらしい。そう書いてあるサイトがいくつかある。文字だけなのではっきりしないが、このように書くひとは「けして間違えない」というときのような動詞の未然形だと思っているのではなく「間違え」という名詞に「ない」をつけた表現だと解釈しているのだと思う。

たしかに、「間違い」のことを「間違え」ということがある。学者ではないので正しいかどうかは保証しないが、「間違い」は五段動詞の「間違う」の連用形が名詞になったもの、「間違え」は下二段動詞の「間違える」の連用形が名詞になったものだと思う。

動詞の連用形が名詞になることはよくある。「賭け(賭ける)」や「すすめ(勧める)」がそうだ。「間違え」に似たものなら「備え(備える)」があるし、「間違い」に似たものなら「救い(救う)」がある。

間違いない」は「間違い(間違え)がない」ということなのだろうか。それはたぶん違う。「しかたない」「かたじけない」「とんでもない」がそうであるように、「間違いない」はそれだけで 1 つの形容詞だろう。

「しかたない(仕方ない)」の「仕方」と同じ意味だからといって「やりかたない」というわけにはいかない。したがって、「間違いない」を「間違えない」と言い換えることはできないと思う。

この説が正しいとすると、「とんでもありません」が誤用なのと同様に、「間違いありません」「間違いございません」と言うのもおかしいのだろう。「間違いのうございます」が正しいはずだ。間違いない(かもしれない)。


日本語についての主な過去記事:
硬いイシ、堅いイシ、固いイシ
禁漁が解禁
ルー語変換
碁将棋の日本語
安倍首相と「親切」ということば
幼稚園受験や小学校受験のことを世間で「お受験」というらしいとは知っていたが、幼児が通う教室のことを「お教室」というというのはほんの数日前まで知らなかった。

受験も教室も漢語なのだから、御の字をつけて美化語にするなら「ご受験」「ご教室」のように「ご」がつくほうがふつうである。たとえば皇族の子女に対して本当の敬語として使うのなら「ご受験のためにご教室にお通いになっています」のように「ご」を使うだろうと思う。

なぜ一般人の幼児の受験や教室は「お受験」「お教室」なのか。ふつうの意味の「受験」「教室」ではないということなのだろう。

「お受験」というのは、年端もいかぬ幼児に受験という苦労をさせる子煩悩で親バカな行為を揶揄しているのだと思っていた。自分の子どもに使うときは
「親バカで恥ずかしいんだけどねえ、(いわゆる)お受験をさせるんですよ」
と照れと自嘲を込めているのだと思っていた。

しかし、連れ合いに意見を聞いてみると、そうではなくてふつうの丁寧語として使われているのではないかという。どちらの感覚が正しいのか、このことばが生活語彙になっていないわたしたちには本当のところはもちろんわからない。

わざわざ「お」をつける理由は、「おてて」「ご本」のような幼児語にすることで幼児の受験であることを示しているのかもしれないし、上品ぶった大人の言いかたを揶揄しているのかもしれない。あるいは、「とんだご挨拶だね」とか「大きなお世話だ」のように丁寧語にすることで皮肉を込めているのかもしれない。
前回、additional を形容詞として訳す話を書いた。しかし、英文で形容詞を使っているからといって必ずしも訳文でも形容詞を使わなければならないわけではない。たとえば、I have no money の no は連体修飾語としては訳せないので「お金がない」と述語に変えて訳すのがふつうだ。

英語は名詞句を多用するのに対して日本語は用言や連用修飾語を多用するという。したがって、英日翻訳では名詞句をほぐして用言や連用修飾語にすれば日本語らしくなるというのが理屈である。このことは、「英文翻訳術」などのいろいろな本に書いてあることだし、そういう本を読んでいなくても英語を学習していればだれでも自然に気がつくことだと思う。有名なのは次の例である。

He is a good cook. = 彼は料理がうまい。


このように品詞にこだわらずに additional を訳すとどうなるか。たとえば

For additional information, refer to the following documents.

という英文は、「追加情報については」とか「補足の情報については」と訳さなくても、次のように訳せばよいことになる。

詳しくは、次の文書を参照してください。


前回の例文「This section describes additional factors …」は

… 要素をもう少し説明します。

ではどうだろうか。これがよいというわけではないが、このような方法もあると思う。
additional という単語は訳しにくい。I have no money というときの no という形容詞が日本語に存在しないのと同じように、日本語にはもともと additional にあたる形容詞がないのだと思う。

This section describes additional factors which you should consider when planning your wedding.

こういった文の additional はどう訳したらよいだろう。辞書には「追加の」「付加的な」「補足の」などの訳語が載っているが、「追加の要素」「付加的な要素」「補足の要素」ではどうもしっくりしない。このような表現は翻訳以外ではほとんど使われないのではないだろうか。

このような文では「その他の要素」のように「その他の」という表現をわたしはよく使う。「追加の」よりは自然だと思うが、もちろん additional をいつでも「その他の」と訳せるというわけではない。

additional の訳語には「さらなる」という和語(やまとことば)もあるが、これもなんだか無理矢理つくったようなことばだと思う。

「超」整理法の野口悠紀雄さんはさらなる」という日本語は誤りだから追放しなければならないとおっしゃっている。「さらなる」は「月のころは更なり」の「さらなり(更なり)」という形容動詞の連体形のかたちになっているが「更なり」は「新しい」という意味であって、additional の意味にはならないという主旨だ。

わたしは「さらなる」という日本語を追放しなければならないとは思わない。だいいち、追放しなければならない理由がない。しかし、野口先生のおっしゃるように「さらなる」が新しいことばだとすると、additional のような外国語の訳語として作られたのかもしれないと思う。
昨日の新聞に家庭用生ゴミ処理機のチラシが入っていた。購入価格の 80% を市が助成するということで 7000 円で入手できるとのことだ。

わたしの住む自治体は深刻なゴミ問題をかかえている。これまで使っていたゴミ処理施設が使えなくなるというのに、それに代わるゴミ処理方法を考えて来なかったのだ。

「ふーん」と思ってそのチラシを見ていたら、どうにも意味のわからない宣伝文句があった。

お手入れは、2週間度空気通気用フィルターと集塵袋を洗い、乾燥した際に水をまきます。

というのである。

2週間度」は「にしゅうかんたび」としかわたしには読めないが、まあ「2週間毎にしゅうかんごと)」という意味なのだろう。「空気通気」は「通気」でよいような気がするが意味はわかる。

そんなことよりも文全体の意味がわからない。わたしの読解力が低いだけでわかるひとにはわかるのだろうか。連れ合いに聞いてみたら連れ合いも「わからない」という。

「2週間ごとに部品を洗う」というのはわかる。しかし、そのあとの「乾燥した際に水をまきます」というのはどういうことか。洗ったフィルターや袋が乾いたらまた水に浸す、ということだろうか。

かなり長く考えてみて、これは 2 つのことをいいたいのかなと気がついた。つまり、

お手入れは、2週間ごとに通気用フィルターと集塵袋を洗うことと、乾燥した際に水をまくことだけです。

というような意味なのだと思う。まあ、この文を書いた本人に聞いてみなければ、この解釈が本当に正しいかどうかはわからない。
40 年くらい前のベストセラー「英語に強くなる本」に「線香読み」という英語の読みかたの手法が書いてある。

暗やみで線香を使って少しずつ英字新聞を読むとする。読んだ部分は線香で焼けてしまうので戻って確認することができない。そのように、決して前に戻らずに先へ先へと読みすすめていく読みかたが線香読みだ。

つまり、

She went to the park (彼女が公園に行ったのね) with her family (ほほう、家族とごいっしょですか) to celebrate her nephew's birthday.(なるほど、甥御さんが誕生日だったわけね

といったぐあいに読むというわけだ。

意味を順に理解していくようすを便宜上日本語で書いたが、もちろん、実際には英語のまま理解すればよく、いちいち頭の中で日本語に訳す必要はない。

文を頭から順に読むというのは、日本語でも英語でもネイティブにとって当たり前のことだ。だいいち、話し言葉ならどんどん先に流れて行っちゃうから、後から出てきたことを前に戻して理解するというわけにはいかない。

しかし、日本では漢文に返り点を付けて読んでいた歴史があり、英文でも「するところの」のように関係詞のところで前に戻って読むことが多いということだろう。実際、幕末のころの日本人英語学習者は英文に返り点をつけて読んでいた。

これはつまり翻訳しながら読んでいるということだ。漢文を考えれば、あれはまさに読むことと翻訳することが同じである。読むついでに翻訳もしてしまうのだから、ある意味、とても効率がよいともいえる。しかしこの方法では速く読むことができない。ただ読むだけなら翻訳しないで読んだほうがよいにきまっている。

日本語と英語では語順が違うので、翻訳では後ろのほうで出てきた節や句を前に戻して日本語にせざるをえないことが多い。それでも、翻訳技法としては、一般に、頭から訳し下すのがよいとされている。線香読みに倣えば、これは「線香訳」とでもいうことができるだろうか。

Please read this manual carefully before using the product.

もしこれが学校の英文和訳の問題であれば、次のように訳さなければならない。

製品を使用する前に、このマニュアルをよく読んでください。

なぜなら、学校の英文和訳というのは、たとえば before の意味を理解していることを先生に示すためにあるものだからだ。

しかし、実務翻訳なら(少なくともわたしは)次のように訳すだろう。

このマニュアルをよく読んでから、製品をご使用ください。

これなら、英文と同じ順で時系列に沿って訳していることになる。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
二葉亭四迷だったか坪内逍遙だったか、弟子がもってきた翻訳文の原文を見ないで訳文だけを見て朱を入れたという話を聞いたことがある。こなれていない訳文は原文が透けて見えるので原文を見る必要がなかったのかもしれない。それにしても、翻訳のうまさは日本語のうまさだということをよく表している逸話だと思う。

何十年か前、新卒で会社に就職したころ、本来の業務とは別に、よく日本語を英語に訳させられたり英語を日本語に訳させられたりした。

いま思えば、よく恥ずかしげもなく訳したものだと思う。わたしの母校は英語教育に定評のある大学だったが、わたしの専攻は英文科でも語学科でもなく、たいして英語ができたというわけではない。まあ、それ以上に日本語に対する認識が甘かった。日本人なのだから日本語なんて読めるし書けるよ、と軽く考えていた。

その後、テクニカルライティングの会社に転職したのだが、その会社での仕事を通じて、自分の書く日本語がいかにデタラメだったかということがよくわかった。何回書き直しても赤ペンで修正が入る。最終稿になってもどこか自信のもてない不満の残る文章にしかならなくて、これで完ぺきという文章になることは一度もなかった。

それはいまでもそうである。英語もそうだが日本語もなかなか上達しない。このブログの文章でも、あとで間違いに気づいたり、この表現は誤解されるかもしれないなと思って書き直したりすることはしょっちゅうである。

翻訳の専門家でも何でもない新入社員のわたしが翻訳をやらされたということからもわかるように、翻訳という仕事はどこかなめられていると思う。あんなもの、英語のできるひとの余技じゃないかと思われている。実際、英語ができるというだけで頼まれ仕事で翻訳をするひとも多いだろう。そういうひともいるので実務翻訳の相場も高くならない。専門性の高い職業のはずだが報酬は非常に低いのが現実である。なんとかならないものか。
文章読本さん江 ISBN:448081437X 斎藤 美奈子 筑摩書房 2002/02 ¥1,785

これまで出版された文章の手引き書をいろいろな側面から批判的に分析している本である。

著者がいうには、谷崎潤一郎(文章読本)、三島由紀夫(文章読本)、清水幾太郎(論文の書き方)が「文章読本界の御三家」、本多勝一(日本語の作文技術)、丸谷才一(文章読本)、井上ひさし(自家製文章読本)が「文章読本界の新御三家」だそうだ。

しかし、これらの新旧の御三家以外に、おぼえていられないほどたくさんの文章読本が俎上に上げられている。文章読本という種類の本がこれほどたくさんあるとは思わなかった。それぞれの本の特徴が明快に説明されているので、読んでいなくても読んだような気分になる。

前半で、男たちはなぜ「文章読本」を書きたがるのかを皮肉たっぷりに分析し、それぞれの本の矛盾点や問題点などを指摘している。するどいし、著者のユーモアのある文章がとても楽しい。

後半では、明治時代の文章典範から始まって、作文作法書の歴史をわかりやすく紹介している。

明治時代の小学生にとって、作文とは「観梅の記」とか「潮干狩りの記」などの記事文を漢文調の決まり文句で書くことだったという。「一瓢を携へて山に登れば」「忽ち酒を酌み白を挙げ」「盛に盃を飛ばし、或は吟じ或は歌ひ」「是に於て一小亭に息ひ、酒を命じ肴を呼び」といった文を(小学生が)本気で書いていたらしい。おもしろい。

たんご屋は翻訳とはいえ文章を書くのが仕事であることにはちがいないので、この本で著者が揶揄まじりに造語した「文章プロレタリアート」(編集者、ライターなど、名前の出ることのない文筆業者)という職業人になるのだろう。実際、わたしも、どのように文章を書くのがわかりやすくて誤解されにくいのかということに興味を持ってきたし、なんとかそういう明快な文章を書けるようになりたいものだと思ってきた。

しかし、この本の基底にある考えは(著者は明確には書いていないが)、文章はどう書いてもよいのだ、ということである。たしかにそのとおりだなあと思って反省した。勉強になる本だった。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
中公新書の「新日本語の現場」という本を何かで知り、amazon.co.jp でも高い評価がついていたので買って読んでみた。

読売新聞で連載しているコラムをまとめたものらしい。1 回分の記事は見開き 2 ページで、それが掲載日付順にそのまま掲載されている。

第一部「気になる若者言葉」では、「チョー」と英語の「スーパー(super)」という接頭語、「うざい」の多摩起源説、「じゃん」の三河起源説など、若者言葉とされていることばについての話題が取り上げられている。第二部「氾濫するカタカナ語」では、コンピュータ用語として使われているカタカナ語、お役所で使われるカタカナ語など、カタカナ語(外来語)についての広範な話題が取り上げられている。

新聞の連載記事なので、読者からの意見や感想を随時紹介しつつ話をすすめている部分がある。たとえば、じゃんは三河起源かという記事のあとで、山梨や長野の読者から「うちのほうでもむかしから使っている」という投書がきたことをネタにしてじゃんの起源についての話を発展させている。これは、新聞の特性をうまく活かしたやりかただと思う。

話題が目新しくておもしろいということはない。ほぼ同じぐらいの価格で購入できる「問題な日本語」、「続弾!問題な日本語 」のほうが各テーマがより深く掘り下げられていると思う。ただ、この本は、さすがに新聞の記事だけあって情報源は幅広い。いろいろな分野の専門家から話を聞いているし、新聞掲載時に読者から寄せられた情報もたくさん紹介されている。

ひとつひとつの記事は短く、地下鉄の 1 駅ぐらいの半端な時間でも読めるだろう。会社勤めのひとが上着の内ポケットに入れておけば時間つぶしによいと思う。
最近知り合ったひとで、わたしと感覚の大きく違うひとがいる。なんと表現したらよいのか、そのひとは、いつもものごとの裏を見ようとし、他人のやることは何でも隠謀なのでないか、他人は自分を騙そうとしているのではないかと疑っている。だから話をしていてちょっととまどうことがある。

Google Adsense という広告サービスについて話をしていたときもそうだった。このサービスは広告依頼主は基本的に広告がクリックされた回数に応じて料金を支払うというしくみになっている。彼は事業主だから広告主側にあたる。
わたしはああいうのは信用できないんですよ。だれかが何回もクリックするかもしれないから
と彼がいうので
「だれが何のためにそんなことをするの。一銭の得にもならないのにそんなことをするひまなやつはいないよ」
と答えると
Google の社員って何やっているのだろうね。そいつらがクリックするかもしれない
というのでびっくりしてしまった。わたしはお人好しだからそういう発想はまるでないが、事業主としてはそのくらい疑い深いほうがよいのかもしれない。

疑い深いひとというと、Doubting Thomas という英語表現を連想する。彼のようなひとのことをいうのかなと思って辞書で確認してみると、ちょっと違うようだ。Collins COBUILD English Dictionary では次のように定義している。

If you describe someone as a Doubting Thomas, you mean they refuse to believe something until they see definite proof or evidence of it.

つまり、「証拠がないと何でも疑うひと」ということである。もともと聖書でイエスを見るまで復活を信じなかったひとが語源だから、現在でもそういう意味で使われているのだろう。

彼の場合は証拠がないから疑うというのではなく基本的に人間とか社会とかいうものを信じていない。そういう性格をなんというのか、日本語でも思いつかない。あわよくば他人を利用して得してやろうという気持ちが彼の中に強くあって、その気持ちを他人の言動に投影してしまうのだろうと思う。まさに、人間は万物の尺度であるといったところか。

「証拠がないと何でも疑うひと」という意味なら、むしろわたしのほうが近い。わたしは UFO、血液型性格占い、風水、心霊などの商業オカルトは信じない。

しかし、わたしは他人の善意や社会を信じるほうである。何でも無条件に信じるわけではないが、まずは信じるほうから始める。だから、社会保険庁の 5000 万件の年金記録漏れの件には本当に驚いた。

わたしのような「甘いひと」「お目出度きひと」つまり「カモ」というと英語では suckerdupe といった単語を連想する。辞書を引いてみると、とてもここには書ききれないほどたくさんの表現が載っていた。一部をご紹介する。

fruit、easy mark、easy meat、steamer、wet noodle、yold、bunny、chouse、clay pigeon、come-on、Jay、jugigins、jigigins、quick push、scissor bill、score

これ以外にもたくさんある。世の中、こすっからいひとよりも甘いひとのほうが多いらしい。
トリに関係のある単語や表現が多い。日本語の「カモ」と符合していておもしろい。また、「カモ」という意味以外に「ホモ(homosexual)」という意味もある表現が多いようだ。
昆虫の英単語」の続編。はじめてしまったので続きを書く。どうせ、わたしの語彙力ではそれほど長くは続かない。
dragonfly

トンボ。漢字で書くと「蜻蛉」。この漢字はサイレイあるいはカゲロウとも読む。現在ではカゲロウは別の昆虫(dayfly)のことを指すが、むかしの日本ではトンボのことを指していた。
トンボの古語にはアキツ(アキズ、秋津)もあり、秋津島といえば日本のことである。
幼虫のヤゴは naiad

ladybug(ladybird)

テントウムシ。お天道さまに向かってちょこちょこと歩き続けるかわらしい昆虫だが、実は肉食でアリマキを食べてくれる益虫である。人間でも昆虫でも lady は怖いものらしい。

ant

アリ。小さいや大きいのがいて、こいつも種類が多い。
シロアリは termite で生物学上は別の種類だが、英語でも white ant ということがあるらしい。

grasshopper

バッタ、イナゴなどの総称。grass は「草」、hop は「跳ぶ」だからわかりやすい。
The Ant and the Grasshopper は「アリとキリギリス」。

locust

イナゴ(稲子)。ときに大量に発生して作物を荒らす。
この単語は昨年(2006年)の第 2 回英検準 1 級の読解問題に出ていた。
米国ではセミの意味もあるらしい。

cricket

コオロギ。たくさんいるし、かんたんに捕まえられる。わたしもこどものころ飼っていた。
鳴き声は chirp
(as) merry as a cricket は、コオロギのように明るいという意味。
スズムシ、マツムシなどの秋の鳴く虫は、どれも a kind of cricket というしかないようだ。

mole cricket

ケラ。オケラ。地上、地中、水上、空中のすべての場所に対応できて、子どもながらもかっこいい昆虫だと思っていた。mole はモグラのこと。まあ、そのままの名前だ。

数日前の「血液型と文字のかたち」という記事で、金田一秀穂さんの書かれた血液型と文字のかたちの関係についての雑誌記事をむかし読んだことを書いた。

その金田一先生が「NHK 知るを楽しむ」という番組で 8 回にわたって日本語についての話をなさるとのことで、昨晩、その第 1 回を見た。見てよかったと思った。おもしろいし勉強になった。

たとえば、「この」「その」「あの」の意味の違いを解説している。
「この」は近いところ、「その」は少し遠いところ、「あの」はもっと遠いところを指すと思っているひとが多いが、そうではなく、「この」は自分の領域にあるもの、「その」は相手の領域にあるもの、「あの」は自分でも相手でもない外の領域にあるものを指していると先生はいう。

つまり、自分がもっている本は「この本」、相手がもっている本は「その本」、ふたりに関係のない机に置いてある本は「あの本」ということになる。この場合、たとえその机が相手よりも近くにあっても「あの本」である。だから物理的距離は関係ない。

そして、他人に背中を掻いてもらっているときに、どのようにかゆい場所を説明するかということを例に挙げて説明する。掻いてもらっているほうは、「そこ、そこ」という。掻いているほうは「ここか、ここか」という。たしかにそうだ。この例では、背中は自分のからだの一部であっても自分の視野にはないから自分の領域にはなく、掻いているほうのひとはよく見えているから自分の領域と見なしているそうだ。

うーん、おもしろい。

これを聞いて、このブログにときどきコメントをくださる日本語ノンネイティブの翻訳者である ゆ さんが以前ご自分のブログで日本語についての質問をなさっていたことを思い出した。

毎月、…する予定です。その計画は…を目的として行います。

この文の「その」を「この」にしてもよいか、違いは何か、という質問だった。
これに対して、わたしは「心理的な距離の差ではないか」といったようなことをコメントしたのだが、この金田一先生の解説をうかがうと、わたしの意見もまんざらではなかったと思う。

この番組は、毎週月曜日の 22 時 25 分から 20 分間放送される。昨晩の回の再放送は、来週の月曜日の 5 時 5 分からあるようだ。日本語に興味のあるかたで昨晩の放送を見逃したかたには、ぜひ再放送をごらんになることをおすすめしたい。

ところで、テキストを買おうと思って NHK のサイトに行って先生の略歴を見ると、大学院の専攻は日本語だが学部では心理学が専攻だったということがわかった。なるほど、だから血液型性格占いがなぜ日本で流行しているのかに興味があるのかと得心がいった。
冷蔵庫にムネ肉が残っていて何しようかと考えて、そうだ、「海南チキンライス」にしてみよう、と思い立って作ってみた。海南チキンライスはシンガポールでよく食べた鶏肉ごはん料理である。
あっちこっちのサイトを参照して適当にレシピを組み合わせて作ってみたら、なかなかおいしくできた。今回の自分の作り方を備忘メモとしてここに記録しておくことにする。
  1. 2 リットルくらいのお湯にショウガとムネ肉を入れる。3 分間ゆでて火を止めて 20 分冷ます、という作業を 3 セット繰り返したら、ムネ肉だけを取り出して氷水で急激に冷やす
  2. ムネ肉が冷えたら醤油、ごま油、おろしニンニクをまぜたものを塗る
  3. 土鍋にごま油を入れて、ネギとショウガを炒めてから無洗米を入れて炒め、塩、こしょうで味付けする
  4. 米が炒まったらゆで汁を入れて土鍋にフタをし、ふつうに炊く
  5. 炊けたご飯を盛って、2 センチ幅に切ったムネ肉と適当に刻んだ香菜を載せる
鶏肉と香菜さえあれば、いつでもできる簡単な料理だ。鶏肉もゆで汁も使い切るので無駄がない。香菜は、別名を中国パセリ、コリアンダー、パクチーなどというややクセのある野菜だが、そのせいなのかレシピを参考にさせてもらったサイトの中には香菜を使っていないものもあった。
うちは夫婦揃って香菜好きで、この料理に香菜は「是非もの」だと思った。
今回の反省点は、次のとおり。
  • キュウリとトマトを用意しておけばよかった
  • お米を洗ったり浸水したりしないのが1つのポイントだが長粒米だったらもっとよかっただろう
  • 勤め人である連れ合いのことを気にしてお米を炒めるのにニンニクを使うことを控えたが、本当はニンニクも使ったほうがよかっただろう
  • 蒸し鶏を急激に冷やすと弾力がでるというが、ムネ肉でなくモモ肉だったらもっとしっとりできあがっただろう
(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
このところ日本語のことばかり書いている。たまには英語のことも書こう。
日本語や英語の豆知識を交えて昆虫に関連する英単語をまとめてみることにする。


insect

昆虫。昆虫は、頭、胸、腹の 3 つの体節に分かれている(切れている)。section などの単語でわかるとおり、sect は「切れた」という意味である。
昆虫のその他の特徴は、羽が 2 対 4 枚であること、胸から出ている足は 3 対 6 本であることである。したがって、エビやクモは節足動物ではあるが昆虫ではない。

bug

昆虫。コンピュータの世界ではそのまま「バグ(不具合)」と読んでよく使われている。バグを直すことを debug(動詞)、debugging (名詞)という。むかし IBM の大型コンピュータにガが紛れ込んで故障したところからこの意味ができたと聞いたことがあるが、真偽のほどはわからない。
カやハエなどがまわりを飛んでいると煩わしいが、bug には「(だれかを)困らせる」という意味もある。Stop bugging me! は「うるさい!」という意味。
カやハエなどの昆虫に人間のことばがわかれば盗聴するのは簡単である。同様に、bug には「盗聴器、盗聴する」という意味もある。

hexapod

昆虫、六脚類。昆虫は 6 本の足をもつ。
hexagon (6 角形、ヘキサゴン)でわかるとおり、hex(a)- は 6 のこと。tetrapod(テトラポッド、tetra は 4 の意)でわかるとおり、pod は足のこと。つまり、hexapod で「6 本足」である。

mosquito

カ(蚊)。カやハエは、飛ぶための羽が 2 枚しかない。じゃあ昆虫ではないではないかということなるが、やはり本来は 4 枚の羽をもっていたのであって、後ろの羽は退化しているが痕跡が残っている。
この単語、複数形が mosquitoes になることで有名である。
蚊取り線香は mosquito coil

fly

ハエ。かつて「The Fly」という SF 映画があった。ある機械翻訳ソフトが「Time flies like an arrow.(光陰矢のごとし)」を「時バエは矢を好む」と訳したというのも有名である。
南米に time fly という昆虫がいるというまことしやかな話を聞いたことがあるが、ぐぐってもまったく見つからないのでたぶんウソだ。

bee

ミツバチ。いつもせわしなくはたらいている印象のある昆虫である。
(as) busy as a bee は「ハチのようにいそがしい」という意味。

wasp

アングロサクソン系白人新教徒…ではない。ススメバチだ。こいつに刺されるとへたすると死ぬこともある。
短気な人気むずかし屋という意味もある。

butterfly

チョウ。考えてみれば「バターバエ」である。色の黄色いものが多いところからこのような名前になったらしい。
have butterflies in one's stomach(落ち着かない)という慣用句が有名か。

mantis

カマキリ。わたしの好きな昆虫である。praying mantis ともいう。西洋のひとには祈っているように見えるらしい。そういわれればそう見えるかもしれない。
mantis shrimp といえば、お寿司屋さんで出てくるシャコのこと。カマキリに似ているだろうか。

beetle

カブトムシ、クワガタムシ、コガネムシなど、背中のかたい昆虫。甲虫。英語圏ではこれらをあまり区別しないのだろう。

firefly

ホタル。知らなくても見れば意味のわかる単語である。

ant lion(doodle bug)

アリジゴク。ウスバカゲロウ。
最近はアリジゴクやウスバカゲロウを見たことのないひとが多いかもしれない。アリジゴクはウスバカゲロウの幼虫で、砂地にすり鉢状のワナを作り、その底でアリが落ちてくるのを待っている。
ウスバカゲロウはその成虫で、ちょっと小さめのトンボのようなすがただが、消化器がなくて何も食べずに生殖だけして死んでいくはかない昆虫である。


たくさん書いていけば読むかたの参考になる内容になるかもしれないと思って書き始めてみたが、こんなふうに続けていてもきりがない。
そもそも、昆虫は、地球上の全生物種の 5 割以上を占めるもっとも種類の多い生物なのである。
気が向いたら続きを書くことにして、このあたりでやめておく。
東京都広報の「東京カレンダー」という欄で、季節の話題として「初夏の味わい、鮎(あゆ)の塩焼き」という標題の記事が書かれていた。その前半の段落を引用する。

「香魚(こうぎょ)」とも呼ばれるように、独特の香りが特徴の鮎。6月には11月からの禁漁が解禁。東京湾で育った江戸前の鮎も川面(かわも)で踊る。

太字部分が妙にわかりにくい。そこでアユならぬこの文を俎上にして、どうしたらもっとわかりやすく表現できるだろうかということを検討してみたい。

まず、「6月には11月からの」の部分について考えてみる。「6月」というのは今月のことであり、「11月」というのは昨年の 11 月のことだ。それなのに、この文では、後のことである「6月」が先に出てきて、先のことである「11月」が後で出てくる。こういうのは時系列に沿って「昨年 11 月」を先に書いたほうがわかりやすいのではないだろうか。

その次の「禁漁が解禁」は重複表現である。ひねくれたひとは「禁漁することが解禁になるのなら、これから大手をふるって禁漁するということじゃないか」と思うかもしれない。「禁漁が解かれる」というのがおそらく一般的な表現になると思う。

そうすると、とりあえずの書き換え案は「昨年11月からの禁漁が6月には解かれる」となる。

しかし、いまは 6 月である。だからこそ、原著者は「6月には11月からの禁漁が解禁」と 6 月を強調する書きかたをしたと思われる。

それを踏まえると、「昨年11月からの禁漁が、この6月に解かれる」という表現がわかりやすいのではないだろうかと思う。
グーグルのロゴ

Goole 日本語版のテキストボックスの上に並んでいるリンク文字列のうち、それまでの「イメージ」が「画像」に、同じく「マップ」が「地図」に変わっていることに気がついた。

表示できる文字数は物理的にかぎられているし、転送速度や描画速度とまったく無関係というわけでもないだろうから、文字列は短ければ短いほどよいというのが、この変更の 1 つの理由だろう。

もう 1 つは、カタカナ語より漢語のほうが意味を正しく理解できるひとの数が多いことだろう。とくに、「イメージ」というカタカナ語は印象とか心象というような意味でよく使われている。この Google 検索での意味はそうではなく、まさに「画像」のことだから「画像」としたほうが勘違いされる可能性が少ないと思う。



新聞の折り込みチラシを見ていたら、スーパーの広告に「写真はイメージです」と書いてあった。そりゃあまあ、写真は image だろう。冗談はともかく、こういうのは英語だったらなんて書くのかなあとその広告を見ながら少し考えていた。

This picture is an image.

では、当たり前だろ、と言われそうな気がする。結局、そのときは次の文を考えた。

The actual appearance may slightly differ from the picture.

長すぎて広告の同じ部分に入りそうもない。

英語圏の国ではこういうものを何と表記しているのかをご存じのかたがいらっしゃったら、ぜひ教えていただきたい。
子守男さんが、安倍首相の「慙愧に堪えない」というコメントは不適切という記事を書いていらっしゃる。たしかに、この首相はときどきおかしなことばを使う。

年金記録漏れの件で、安倍さんは

「国民の不安は必ず解消しなければいけない。親切に国民の立場に立って、年金を払った人が確実にもらえるようにあらゆる努力をしていく」

と言ったという。この「親切に」という言いかたに、わたしと連れ合いはおおいに腹を立てている。

保険料を納付したものに正しく年金を給付するのは行政の最低限の役務であって「親切に」やってあげることではない。だいたい、公僕の長が主権者に対して「親切に」とは何ごとか。

そもそも「親切」などというのは自分や自分側の行為に対して使うことばではないだろう。このようなときは「誠実に」とか「誠意をもって」とでも言うのがふつうではないか。

仮に、民間保険会社の社長が

親切に顧客の立場に立って、保険料を払った人が確実に保険金をもらえるようにあらゆる努力をしていく」

と言ったとしたら「そんなの当たり前じゃないか。親切に、とは何ごとか」と叩かれるに違いない。

しかし、メディアでは、安倍さんの「親切に」という発言に違和感を覚えるという意見をなぜか聞かない。むしろ、主権者のほうが「親切に首相の立場に立って」あげているのだろうか。

追記:
内容をあまり反映していないタイトルにしてしまっていたので、このタイトルに変更しました。
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