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「サラダ油」は「サラダユ」か「サラダあぶら」か。テレビのお中元のコマーシャルでは「サラダユ」といっているような気がする。しかし、わたしは日常では「サラダあぶら」といっている。

「胡麻油」「椿油」「菜種油」は、「ゴマあぶら」「つばきあぶら」「なたねあぶら」というように思う。「ゴマ」「つばき」「なたね」のような日本語としてこなれている語については「ユ」ではなくて「あぶら」と読んだほうがすわりがよいのだろうか。

「オリーブ油」は「オリーブあぶら」ではなくて「オリーブユ」だと思う。もっとも、いちばんふつうなのは「オリーブオイル」だろう。

「落花生油」はむかし香港でよく使っていた油だが、日本語でどう読むかということは考えたことがなかった。「ラッカセイあぶら」かなと思ったが、Google で検索してみると「ラッカセイユ」というのがふつうのようだ。まあ、これも「ピーナッツオイル」というのがふつうかもしれない。

こういったものは正しい読みかたが 1 つきまっているわけではなく意味がわかればよいのだろう。「北京五輪」は、「北京オリンピック」でも「ペキンゴリン」でもよい。「ヤマザキナビスコ杯」は、「ヤマザキナビスコカップ」でも「ヤマザキナビスコハイ」でもよい。つまり、文字としてのかたちはあるけどきまった読みかたはない。日本語には、こういうまるでピクトグラム(pictogram)のような語がたくさんあるように思う。


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このブログにリンクしてくださっている米国の医師 Mickey さんのブログで知ったのだが、アトランタなどの都市で baggy pants というズボンをお尻や下着が見えるようにはくことを法律で禁じる動きがあり、議論を呼んでいるという。日本のニュースサイトを検索してみると、「『ズボンの腰ばき』禁止条例案めぐり、市民が激論」という記事が見つかった。

わたしは他人に対する関心が薄いうえに服装についての関心が薄く、他人が何を着ているかということを気にすることがほとんどない。実際、さっきまで会っていたひとが何色の服を着ていたかと聞かれても覚えていない。だから、こういうふうに他人の服装を規制したがるひとの気持ちはちょっと理解できない。

このように他人の服装にぐだぐだと文句をつけるのは、tolerance(寛容度)が低いと表現してよいと思う。

tolerance という英単語は、実務翻訳では分野によって公差誤差許容度耐性延べ寸裕度許し代などのさまざまな訳語が当てられるが、次のような意味もある。

(1)(他人の見解や行為に対する)寛容,寛大,容認 for, toward:
tolerance toward religious minorities 宗教的少数グループに対する寛容.
(2)(偏見にとらわれない)公平さ,独断的でないものの見方.
(ランダムハウス英語辞典より)


1. a fair, objective, and permissive attitude toward those whose opinions, practices, race, religion, nationality, etc., differ from one's own; freedom from bigotry.
2. a fair, objective, and permissive attitude toward opinions and practices that differ from one's own.
(Retrieved August 29, 2007, from Dictionary.com website)


アトランタでの『ズボンの腰ばき』取り締まりのような tolerance(寛容度)の低さは、反捕鯨運動やある種の動物愛護運動などの「自分と違う考えかたに対する不寛容さ」を連想させる。そういう態度は、米国らしいといえば米国らしいのかもしれないが、どうもわたしは好きになれない。あれ、そういってしまうと、わたしも不寛容ということになるのか。


追記(2007/08/31):
最後の段落で表現を省略しすぎて意図が伝わりにくくなっていたようなので若干加筆した。
昨夜は皆既月食だったらしいが東京地方はちょうど雷雨になって見ることができなかった。琥珀色の月を見たかった。残念だ。

月や太陽は地平線や水平線に近いと大きく見える。これはほとんどのひとが実感したことがあると思う。しかし、当たり前だが、月や太陽自体の大きさはいつでもほとんど同じだ。五円玉をもって手をいっぱいに伸ばしたときの穴の大きさである。

昇りたての月や沈む月、朝日や夕日はなぜ大きく見えるのかというのははっきりとわかっていないようで、空気の屈折のせいだとか、比較するものがあるからとか、いろいろな説がある。だが、わたしがもっとも本当らしいと思うのは次のような説である。

ヒトは、空を見上げたとき半球を伏せたようなかたちとは認識しておらず、てっぺんの部分を手で押しつけたようなひしゃげたかたち、つまり東京ドームの屋根のようなかたちに認識しているという。したがって、太陽や月が天頂のほうにあるときは、近い場所にあると認識するので相対的に小さいものに見える。逆に水平線や地平線の近くにあるときは、遠い場所にあると認識するので相対的に大きく見えるというのだ。

これと同じ理屈で前回書いた水平線が湾曲して見える件も説明できるかもしれない。水平線の場合は空ではなく自分の前方の空間の話になる。前方の空間も、すべての場所が等距離の半球ではなく、視野の中央が近くて視野の左右の端が遠い、ひしゃげたかたちの空間として認識しているような気がする。

その状態で横一直線の水平線をながめると、視野の中央では小さくつまり遠くあるように見え、視野の端のほうは大きくつまり近くにあるように感じるのではないか。その視野の端のほうが近いという脳の感覚を正当化するために水平線の端の部分を手前に引き寄せるかたちで湾曲させて認識するということはありえるかもしれない。これは前回と似ているけれど少し違う、また別の説である。


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水平線は湾曲しているか
水平線までの距離
水平線や地平線の中央がふくらんで見えるというひとがいるのはなぜだろう。ふくらんで見えるというのはアーチ状に歪んで見えるという意味である。その理由はよくわかっていないようなので仮説を考えてみた。

まず、極端に小さな例から考えてみる。たとえば、国技館の土俵の中央に立って土俵の縁(ふち)をながめたらアーチ状に曲がって見えるはずだ。

次に、東京ドームのグラウンド上で内のりに沿っていちばん大きくなる土俵を作るとする。その中央に立つと土俵の縁はどう見えるか。おそらく、ゆるやかに曲がって見えるだろう。このように、土俵が広くなればなるほど土俵の縁のたわみはゆるやかになって直線に近く見える。

水平線や地平線までの距離は約 5 km である。その土俵がさらに広くなって半径 5 km になったときに土俵の縁は曲がって見えるだろうか。それがつまり水平線や地平線は曲がって見えるかどうかということだ。円周がそのくらい大きくなると網膜に入ってくる水平線や地平線はおそらく完全に直線だと思う。ではなぜ湾曲して見えるのか。

話をわかりやすくするために、見わたすかぎり水平線の洋上とか見わたすかぎり地平線の大平原にいることを考えてみる。そのひとは広い円盤の中央に立っている感覚になるのではないだろうか。

その結果、縁がぐるりとつながった土俵のような円の中心の少し上方に自分がいると見なして視野の中央部分よりも視野の両端部分のほうが視野の中で相対的に下がるように脳が補正して認識する(つまりアーチ状にたわんでいるように認識する)のではないかというのがわたしの考えた仮説である。つまり、球ではなく円を認識するから水平線がアーチ状に見えるのではないかということだ。


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水平線までの距離
水平線の中央がふくらんでいるように見えて地球が丸いことを実感したという経験をよく聞く。水平線の中央がやや高く両端が低く見えるとしたらそのひとは地球の丸さを見ているということになる。本当にふくらんで見えるのだろうか。子守男さんの先日の記事を読んでそのことを考えた。

海の見えるところで生まれ育ったので、もう何千回、何万回も水平線を見ていると思う。ふくらんで見えていていたかといわれるとそんな気もするし、直線だと思っていたような気もする。ひとの記憶なんて本当にいいかげんなものだ。

そもそも、水平線はどのくらい先にあるのか。水平線までの距離は三平方の定理で簡単に計算できたはずだが、自分で計算するのは面倒なので Google で見つけたサイトから計算式をもってきた。

3570 ×(目の高さ)の平方根

という式に代入すればよいらしい。仮に渚に立った状態で目の高さが 1.5 m だとすると、上の式と Google 電卓機能を使って、「3570 × 1.5 の平方根」を Google の検索窓に入れて検索することで、4 372.33919 という数字を得られる。つまり、およそ 4.3 km だ。思っていたよりもずっと近い。

4.3 km といえば、時速 60 km の車なら 4 分とちょっとで到達できるということだ。野生動物の走る速度はだいたいそのくらいだろう。アフリカで地平線にライオンが見えたときにあと何分ぐらいで自分のいる位置までライオンが到着するかの目安になる。しっかりと覚えておくといつか役に立つ(わけがない)。

子どものころは水平線あたりに漁船をよく見た。本当に小さく見える。あの大きさは、それが何であるかを識別可能なぎりぎりの大きさなのではないかという気もする。考えてみれば、海原や平地では水平線や地平線より先のものはどんなに目がよくても見ることができない。人間の視力はちょうど水平線や地平線のあたりのものがぎりぎり判別できる程度になっているのかもしれないと思う。
わたしは機能本位、実用本位のものが好きだ。イルカの流線とかチーターのしなやかなからだつきなど、特定の機能に特化したものは美しいと思う。

「機能本位」というと nofrills という英単語を連想する。

【1】余分のサービス抜きの,基本的なサービスだけを提供する
【2】〈商品が〉ノーブランドの(no-name)
【3】簡単[簡素]である,実質本位の
(ランダムハウス英語辞典)

しかし、Google で検索してみると、この単語は商標やサービスの名称などで使われているぐらいで、ふつうの文ではあまり使われていないようだ。

そこで、いくつかの辞書で「実用本位の」という意味の英単語を調べてみたら、functional でよいということがわかった。

Functional things are useful rather than decorative.
(Collins COBUILD English Dictionary)

functional というと、「動作可能な」という意味でよく見かけるのでちょっと意外だが、考えてみれば、あえて動作可能というのは装飾的なことを度外視した言いかたなわけだから、「実用本位の」という意味にもなるのかなと思った。

このブログは背景色も画像も少なめで「機能本位」にしているつもりである。こんなブログに機能なんてあるのといわれそうだが、Web ページというのはどんなものでもユーザ エージェント(他の人間が利用するためのソフトウェア)に情報を提供するのが目的であり機能だろう。このブログの場合はほとんどすべて文字情報なので、回線にあまり負荷をかけないし、白黒モニタ、テキストブラウザ、音声ブラウザなどにも比較的円滑に情報を提供できる。内容(コンテンツ)には大して価値がないかもしれないが、少なくともこういうことを書いている人間がいるという統計情報に資することはできる。いちおう見ばえよりも機能を重視しているといってもよかろう。
最近生活が乱れているよ、と妻に注意されたとして
わかった。反省すべきを反省し、起きるべきときに起き、食べるべきを食べ、すべきをし、せざるべきをせず、寝るべきときに寝ることにする。
と答えたら、わたしは妻に怒られる。間違いない。こんなの何もいっていないのと同じことだからだ。

参院選以来、「反省すべきは反省する」といった発言を何回も聞いた。同語反復で内容がない。公の場でこのようにしか言えないということは、何を反省すべきなのか本人もわかっていないということだろう。

こういうのは、何を反省するか説明する必要のないとき、たとえば、辞めるに際して自分に向かって言うことだと思う。「見るべきほどのことは見つ」は辞世の独白だったはずだ。


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将棋では、駒がぶつかるまでを序盤、駒がぶつかってから終盤までを中盤、互いに相手の王将に狙いをつけ始めるのが終盤ということになっている。序盤の目的は「布陣」つまり攻撃や防御に適した陣形を布くことであり、将棋用語では「駒組み」ともいう。

「布陣」を和英辞典で引くと line-up という単語が出てくるが、将棋の場合は deploying the pieces でよいのではないかと思う。

deploy
to distribute systematically or strategically
(WordNet より)


この deploy という単語はコンピュータの世界でもよく使われている。よく使う訳語は「デプロイする」「配備する」「導入する」「インストールする」などである。

「デプロイする」という場合は、ネットワークにつながったコンピュータにソフトウェアを組み入れて(インストールして)、ネットワークから利用できるようにするという意味がふつうのようである。

ほかには、複数のコンピュータにソフトウェアを組み入れて連動して動作できるようにする、またはハードウェアとソフトウェアを含む大規模なシステムを適材適所に導入して使用できるようにすることも deploy と表現されると思う。これは本来の軍事的な意味に近いので、「配備する」などと訳すのがよさそうだ。


関連記事:
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布石と布陣
電話の「#」は“シャープ”ではない」という記事を読んだ。電話には「#」という記号のボタンがあるが、あれは井桁(#)であってシャープ(♯)ではないという話である。

むかし勤めていたソフトハウスのひとたちがよく「イゲタ」という言いかたをしていて、わたしもその言いかたを覚えた。だからあれは井桁だといわれても、なるほどそうかとしか思わない。もっとも、その会社がたまたまそうだっただけかもしれないわけで、コンピュータ業界のひとたちがみな#のことを「イゲタ」と呼んでいるかどうかはわからない。

#と♯は同じ記号のように見えるが微妙にかたちが違う。考えてみればフラット(♭)もアルファベットの b とはかたちが違う。こういうシャープとかフラットとかいう記号は音楽以外の目的で使うことがほとんどないということではないかと思う。

井桁をシャープだと思うひとが多いということは、学校の音楽の授業で習ったことをおとなになっても覚えているひとが多いということだ。学校教育の影響って大きいんだなあとあらためて思う。

#を英語で a number signa pound signa hash sign というというのはなんとなく知っていたが、「スクエア」というのは知らなかった。square(正方形)のことだと思うが、辞書で井桁の意味を見つけることはできなかった。「スクエア」というのは square ではなくて別の単語なのかもしれない。ご存じのかたがいらっしゃったら教えていただきたい。


追記(2007/08/24):
リンク先の URL が正しくなかったので訂正した。
また、ブログ「光の中を歩む」の mamarimama さんからたいへん参考になるページを紹介していただいた。このページによれば、「スクエア」はやはり square のことで、英国でときおり使われる言いかたであるとのこと。mamarimama さん、いつもありがとうございます。
忘備録(ぼうびろく)という語があることを知った。

以前から「備忘のために記しておく」といったことをよく書いていたので「備忘+録」で当然備忘録だと思っていたし、耳でも「びぼうろく」という言いかたしか聞いたことがない。

ところが、Google で検索すると「忘備録」という表記は現時点で約 241,000 件もある。これまでも「忘備録」という表記を見たことがあったにちがいないが、頭が勝手に「備忘録」と変換して理解していたのだろう。

広辞苑に「忘備録」の見出しはないが「備忘録」の項に次のように書いてある。

びぼう‐ろく【備忘録】
忘れた時の用心に書きとめておくノート。手控え。忘備録。
(広辞苑 第四版)


わたしのもっている他の辞書には「忘備録」という語はなかった。想像するに、本来は「備忘録」なのだが「忘備録」という言いかたも急速に増えて市民権を得つつあるという状況ではないかと思う。「いっしょけんめい(一所懸命)」と「いっしょうけんめい(一生懸命)」のようなものか。
この春から牛乳を配達してもらっている。わたしは小学校のときに牛乳配達をやっていた。そのころのように子どもが毎朝牛乳を配達してくれるのだろうと思っていたのだが、その販売店の配達はそういう方法ではなかった。毎週、月曜日の昼に 3 本、木曜日の昼に 4 本、車で運んできて置いていくのである。牛乳配達の少年というのはもういなくなったのだろうか。なんだかさみしい。

宅配牛乳 1 本は約 200cc で価格は 120 円ぐらい。その 5 本分にあたる 1 リットルの紙パック牛乳はスーパーの安売りなら 170 円ぐらいで売られている。価格だけを比較すると話にならないが、それでも牛乳を配達してもらうことにした理由の 1 つは環境負荷が小さいだろうということである。牛乳瓶を引き取ってもらって再利用してもらうのだから中身の牛乳だけを買っていることになるのが気に入っている。そのくらいのぜいたくはしてもよいだろう。

うちではビールもかつては酒屋さんに瓶ビールをケースで配達してもらっていたが、その酒屋さんのほうから「缶ビールにしてくださいよ」といわれるようになってやめた。重かったのだろう(笑)。

まあ、考えてみれば、牛乳瓶やビール瓶は紙パックやアルミ缶と比べるとずいぶん重い。つまりそれだけ輸送コストも高いわけで本当に全体の環境負荷が小さいのかどうかはきちんと調べないとわからないのかもしれない。

先日、テレビの番組で大学教授の槌田敦さんが「新品の商品は税をかけて高くし、リサイクル品のほうが安く買えるようにするべきだ」というようなことをおっしゃっていた。

なるほどと思った。たしかに現状では新品の商品のほうが安いということがよくある。シャンプーや台所用中性洗剤などはプラスチック容器に入った商品のほうが詰め替え用の袋に入った商品よりなぜか安かったりする。あれでは、プラスチック容器の商品を買うひとのほうが多くて当然だ。



環境保護運動はどこが間違っているのか?
槌田敦 宝島社 2007/06 ISBN:9784796658935 720円


追記:
瓶の牛乳やビールの「輸送コストが高い」というのは、単にお金がかかるということではなくて、資源(石油)を使うという意味である。念のため。
渋谷の女子高校生の話していることば(ギャル語)の 1 つに KY というのがあるらしい。山本寛斎さんのことでも吉行和子さんのことでもなく、「空気(K)読めない(Y)」という意味だそうだ。

周りの空気を理解すること、理解できるかどうかということにそんなに若いころから高い関心があるとは、さすが「和をもって尊しとなす」の国だなあと思う。生意気ざかりの若者が場の空気を保つことに執着するというのは、西欧でも他のアジアの国でもあまり見られない現象ではなかろうか。

「空気を読む」を英語ではどう表現するかを少し考えてみた。

そういえば air にも「雰囲気」という意味がある。read the air と言えればいちばんわかりやすいと思ったが、どうもそういう言いかたはないようである。

であれば、atmospheremood を使うのがよさそうで、たぶん、sense the atmospherefeel the atmospheresense the moodjudge the mood といった表現が使えそうだ。

追記:
わたしは空気を読むことが苦手だし「空気を読む」ことを半ば強要するような「空気」は嫌いである。そういう「空気」というのは、勢力の強い側にとっての快さを保つためのしかけになっていることがあると思う。また、「空気が読めない」といって他人を非難する行為は、「みんなのための意見」であるかのように偽装された「本人だけの意見」にすぎないということも多いだろう。
installation は、the act of installing という意味なら、文脈によってインストール、取り付け、据え付け、架設、設置などと訳すことができるが、もう少し訳しにくい installation もある。

Windows installations are vulnerable in their default configurations.


このような installations は「インストール(ソフトウェアの組み込み)」という意味ではなくて、ハードウェアに対する次の語義に準ずる意味だと思う。

1. something installed, as machinery or apparatus placed in position or connected for use.

installation. (n.d.). Dictionary.com Unabridged (v 1.1). Retrieved August 19, 2007, from Dictionary.com website: http://dictionary.reference.com/browse/installation


この意味の installation はどう訳すかむずかしいとわたしは思っている。カセット効果に期待して「Windows インストレーション」と訳してしまうのも 1 つの方法なのかもしれない。


関連記事:
「インストール(install)」 のこと
翻訳語成立事情
インストールする」とはコンピュータにソフトウェアを組み入れること。英語では install である。

install は本来「設置する」「取り付ける」という意味で、わたしの仕事ではそういうふうに訳すこともけっこう多い。たとえば、Install the hard drive into the drive bay. であれば「ハードディスク ドライブをドライブ ベイに取り付けてください」という意味だ。

コンピュータにソフトウェアを組み入れることという意味では、20 年ぐらい前にわたしが見ていたパソコンやソフトウェアの説明書では「インストールする」ではなくて「導入する」と書かれていたと思う。

コンピュータ関係の用語も日本語でいえばよいのに、という意見をよく聞く。カタカナ語だって日本語だとか、カタカナ語が日本語じゃないなら漢語だって日本語じゃないだろうという話は措いておいても、「インストールする」ではなくて「導入する」をずっと使っていたとしたら本当にわかりやすかったのだろうか。個人的には疑問がある。

英語では install の名詞は installation でカタカナ語にすると「インストレーション」なのだが、この語は「インストールする」という語ほど浸透していないようだ。だから日本語では名詞も「インストール」と表現することが多い。つまり、ease of installation は「インストレーションのしやすさ」ではなくて「インストールのしやすさ」と訳されるのがふつうである。

この installation という単語は「インスタレーション」というカタカナ語になることもあり、その場合は芸術用語として使われているようだ。

インスタレーション【installation】現代芸術において,従来の彫刻や絵画というジャンルに組み込むことができない作品とその環境を,総体として観客に呈示する芸術的空間のこと。
(新辞林より)


なお、installment(instalment)という単語もある。いかにも install の名詞のような顔をしているが「分割払いの 1 回分」という意味である。pay in monthly installments は「月賦で払う」ということだ。恥ずかしながら、たんご屋はこちらの単語にもけっこうなじみがある。

コンピュータ関係の文書では「動作する」という表現をよく使っている。英日翻訳では、run、act、operate、work、function などの動詞を「動作する」と訳すことが多い。

変な日本語だという意見もあるようだ。「作動する」の間違いではというひともいるかもしれないが、「作動する」は「機械が運転しはじめること(新辞林)」という意味で「動作する」とは違う。「動作する」は(持続的に)はたらくという意味である。

新辞林には「動作する」という動詞はなく「動作」という名詞として次のように書かれている。

どうさ【動作】
体を動かすこと。また,体の動き。挙措。所作。
(新辞林)

こういう抽象的な意味の名詞に「する」をつけて安直に動詞にしてしまっているところが「お茶する」とか「科学する」のような違和感を覚えさせるのだろう。からだの動きのことを機械の動きの意味で使うのは「挙動」もそうだし英語の behavior もそうだから変だとは思わない。

もう 1 つ、このことばが変わっているのは自動詞だか他動詞だかよくわからないということである。たとえば、次のどちらの使いかたもある。

このようにしてプログラムを動作します
このソフトウェアは、Windows XP Professional x64 Editionで動作します

わたしも何か変だなと思うことがあるが、広く使われているので別の表現を使うわけにもいかない。技術分野独特の方言のようなものだろうか。


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「お茶をする」と「お茶にする」
no-single-point-of-failure
power cycle、Vulcan nerve pinch など
コンピュータを「立ち上げる」は間違いか
Garbage In, Garbage Out
球技の bowling は「ボウリング」と書く。「ボーリング」と書くと温泉や石油などのために穴を掘るという意味である。とはいえ発音はどちらも「ぼーりんぐ」だ。

現在大リーグで活躍中の鈴木一朗選手は、日本語の表記としては「いちろう」のはずだが、日本での登録名は「イチロウ」ではなく発音どおり「イチロー」である。イチローのほうが軽快な感じがしてよい。もしイチロウという登録名だったら今のような国民的人気はなかったかもしれない。

いまはやりの「ハンカチ王子」とか「はにかみ王子」とかの王子は、だれもが「おーじ」と発音しているが表記は「おうじ」である。将棋や餃子の王将(おーしょー)も「おうしょう」だ。

では、お段の長音はなんでも「う」を使って表記すればよいかというとそうでもないからややこしい。「小売り」や「高利」は「こうり」だが「氷」は「こおり」である。愛知県蒲郡市も「がまごうり」ではなく「がまごおり」。「大きい」は「おおきい」、「多い」は「おおい」である。

ものの本によれば、お段の長音に「お」を使って表記するのは、歴史的仮名遣いで「ほ」とか「を」だった語だという。たとえば、「多い」は「おほい」、「十」は「とを」だったからそれぞれ「おおい」「とお」と表記するのだそうだ。

しかし、子どものころから現代仮名遣いを習ってきたわたしには歴史的仮名遣いで「ほ」「を」だったかどうかをにわかには判断できない。「シクラメンのかほり」の「かほり」は「かをり」が正しいといわれても、ああそうですか、というよりない。困ったものだ。


謎解きの英文法 文の意味
ISBN:9784874243237 久野□/高見健一 くろしお出版 2005/04 1,500円

掲題の本を読んだ。帯には次のように書いてある。

正直な男が、嘘つき??
Mary says that that honest man is a liar.
この英文、支離滅裂に見えますが、実はちゃんとした適格文。
実際にネイティブが使う英語には、学校で教わった英文法では説明のつかない「謎」がいっぱい。
進行形、受身文、使役文、直接/間接話法など、そのような謎を解くと、本当の文の意味が見えてきます。

この Mary says … という文は、honest といっているのはだれかというところがミソである。ただ、それは間接話法を正しく理解しているかどうかという問題であって「学校で教わった英文法では説明のつかない謎」ではないとは思うが。

この本は、使役の make、have、get、let の意味の違いといった実用的な知識が一部書かれていて、それ以外のほとんどの部分は、構文は正しいが意味としては正しくない文についての説明になっている。

Hamlet was read by John yesterday.
I sent Indonesia the letter.
It was Paris that John doesn't live in.

これらの文は、構文は正しいが(よほど特殊な文脈でないかぎり)成立しない文であるとこの本はいう。そして、なぜこのようにいうことができないのかということを理詰めで精緻に説明している。説明の内容はいちいちもっともである。しかし、上のような文が変であることは理屈でなくて感覚でもわかるような気もするけれど。

章の合間に入っているコラムがおもしろい。とくに、「John donated the museum a painting は本当に『間違い』か」というコラムは参考になった。
囲碁の大物棋士に藤沢秀行というひとがいる。もとはひでゆきと読むらしいが一般にはシュウコウさんとして知られている。NHK の番組でも藤沢シュウコウ名誉棋聖と読んでいたと思う。

棋界ではこういうふうに訓読みの名前を音読みにして呼ぶことがたまにある。近代将棋社の元社長、永井英明(ひであき)さんはエイメイさん、元アマチュア名人の小池重明(しげあき)さんはジュウメイさんという呼びかたでよく知られていると思う。また、将棋の名棋士である故森安秀光(ひでみつ)さんは、仲間うちではシュウコウさんと呼ばれていたようだ。もっとも、これは藤沢シュウコウさんをまねたのかもしれない。

このようなことは、安部公房(本名はきみふさ)さん、開高健(たぶん本名はたけし)さんなど、有名人によくあることのようである。名前ではないが、土井晩翠(元の姓はつちい)さんという例もある。

ずっと昔のひとだと、藤原定家という歌人のことを思い出す。わたしは、子どものころこの人の名前を「ふじわらのさだいえ」だと思っていた。中学だか高校になってから「ふじわらのていか」というかなが振ってあるのを見て「へえ、ていかというのか。変わっているな」と思った。

こういうふうに偉いひとを音読みで読むのは、字(あざな)の影響なのだろうか。字とは本名の代わりに呼ぶために別の名前を使うという中国の習慣で、諸葛孔明(本名は諸葛亮)の孔明、白楽天(本名は白居易)の楽天などが有名である。日本でも、むかしの儒学者はそれをまねて本名以外に字をもっていた。字はとうぜん音読みだから、訓読みの名前を音読みで読むことで字であるかのように聞こえる、つまり偉い儒学者のように聞こえるのだろうか。

ここまでの内容をきょうの記事にしようと思っていたのだが、このような音読みでの読みかたは「字」とは関係がなく、「有職読み」というらしいということをさきほど Wikipedia で知った。Wikipedia によれば、藤原定家は、やはりふじわらのさだいえが正式らしい。なんだ、けっきょくわたしが子どものときに思っていた読みかたでよかったのじゃないか。有識読みの例としてほかに伊藤博文などが挙げられていた。たしかに、イトウハクブンとも読むな。
ブログの個々の記事のこと「エントリ」という。わたしはカタカナ語を使うのがあまり好きではないので、エントリの代わりに記事という語を使っている。「記事」は新聞や雑誌などでよく使われる語なので、日記の項目にはちょっと大げさなような気もするが、ほかに適当な語がみつからない。

カタカナ語のエントリは英語では entry 。これは enter (を記入する)の名詞で、日記や帳簿などの記載項目のことだ。 つまり、英語と意味の違う和製英語というわけではなく英語でもそのまま通じるカタカナ語である。念のため。
仕事がら辞書を引くことが多い。考えてみれば年中辞書を引いている気がする。子どものころから辞書を引くのが好きだった。今の仕事は自分に合っていると思う。

以前、自分の書けない漢字やちょっとでも気になる表現があれば辞書で確認して書けるように練習しながら本を読むととても勉強になると書いた。それはまさに勉強、つまり学習のためにやることであって、文芸作品を楽しむつもりならできるだけ辞書を引かないほうがよい。

小説を読んでいるときにいちいち辞書を引いているとせっかく入り込んでいた世界から何度も出てこなければならなくなる。実際に辞書を引かなくても「この漢字はわたしには書けないな」などと文字面を気にしながら読んでいたら小説の世界に没頭することができない。それでは小説を楽しめないし何のために本を読んでいるのかわからない。時間がもったいないだけである。

また、詩を読むときに辞書を引くことにはまるで意味がない。詩にもいろいろなものがあるのだろうが、ほとんどの詩は辞書の定義で解釈してよいようなものではないと思うからだ。

しかし、英語の本の場合は、学生さんを含むほとんどの日本人は英語学習のために読む。だから、小説であっても詩であっても辞書を引きながら読むのが当然だろう。

大学に入った年に、The Old Man and the Sea、Chariots of Fire、The Catcher in the Rye などの英語の本を読まされた。そのとき、米国人の先生は口を酸っぱくして辞書を引くなと学生にいった。自分たち英語ネイティブだって読んでいて知らない単語が出てくるけれど辞書は引かないと先生はいうのである。

しかし、その前の年まで田舎の高校生だった子どもが辞書を引かずにそういった本を簡単に読めるわけがない。同窓の学生たちは辞書を引きながら読んだに違いない。わたしはくそまじめなのかいいかげんなのか、その先生の教えのとおり辞書を引かずに読んでしまった。そういう無理なことをすると、なんとなくわかったような気がしているが明確には理解できていないことも自覚できているという状態になる。しかし、同じ本を再び読もうという気にもなれない。実にもったいないことをしてしまったと思っている。

ただし、知らない単語や知らない表現があることを恐れなくなったとはいえる。長文読解問題のある何かの試験の前に一時期だけそういう読みかたをすることは意味があるかもしれない。


関連記事:
辞書を引きながら本を読むこと
英辞郎第三版の辞書データをマウスオーバー検索
うちでは大きな土鍋を使ってカレーを作る。カレーを食べた後に、すくいきれないカレーソースが鍋に残る。これをどうするか。そのまま洗ってしまうのがふつうだろうが、どうしてももったいないなあと思ってしまう。そこで、出汁とうどんを入れてカレーうどんにしたり、その中でお米を炒めてカレーピラフにしたりするのが我が家の定番である。われながらケチなやつだと思う。

「ケチ」には「金品を必要以上に惜しむ」という意味と「心が狭くてくだらない」という意味があるらしい。金品を必要以上に惜しむという行為は、心が狭くてくだらないという性格につながるのだろうか。金品を必要以上に惜しむひとでも心の広いひともいると思うが、やはり関連性の高いことだと思う。英語の stingy とか miserly という単語も、辞書を引いてみたかぎり、金品を惜しむという意味と心が狭いという意味のどちらもあるようである。

ケチの本質とは、金品を「必要以上に」惜しむということだろう。必要以上でないなら、金品を惜しむことはよいことだ。とはいえ、何かが必要であるかどうかの判断はむずかしい。だれもいない台所にエアコンをつけっぱなしにしているのは無駄なことかもしれないが、それによって食中毒が予防できていたのなら実は必要なことだったといえる。無駄かどうかなんてことを突き詰めていけば、おまえが生きていることはそもそも無駄なことでないのかという議論になってしまう。

ただ、自分の仕事に関することについてケチになってはいけないと思う。わたしは貧乏性ではあるが、仕事に関係する本やソフトウェアにかかる費用、通信費などはケチっていないつもりである。これらは、ある意味、借金をしてでも維持しなければならないことだ。

そういう意味でケチだなあと思う知り合いがいる。2 枚程度のある資料を渡す必要があったのでファックスで送るよといったらファックスの紙がもったいないから送らないでくれという。それならなんでファクシミリの機械をもっているのか。もっているだけで使わないなんてそれこそもったいない。


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なつかしい時代劇「月影兵庫」が再制作されて火曜日にテレビ朝日で放送されている。かつて月影兵庫や花山大吉は大好きだったので、新しい番組もぜひ見てみたいと思った。しかし、再制作版のできが悪いと元番組のよい印象が薄れてしまう上に悪い印象だけが残るということもあるかもしれない。そういうわけで、期待半分、警戒半分で見た。

実際に放映を見てみるとよくできていて楽しんでいる。主人公の月影兵庫を演じている近衛十四郎の息子、松方弘樹さんはさすがにお父さんによく似ているしうまくやっていらっしゃると思う。やはり、さすが親子ということか。

人選がむずかしいだろうなと思ったのは焼津の半次のほうだ。焼津の半次といえば、スタートレックのミスター・スポックのようなもので、このドラマには決して欠かせない名脇役である。新ドラマでの焼津の半次は初めて見る俳優が演じて元番組の焼津の半次とはかなり異なる印象になっている。それでも、それなりの味で演じていらっしゃって慣れればふつうに感じるようになるだろう。兵庫と半次との軽妙洒脱な会話は今回の作品でもある程度は再現できていると思う。

元番組を見たことがないというひとでもきっと楽しめる。新しく想い出の番組になるかもしれない。おすすめしたい。
茶は英語で tea だと習う。それはそのとおりだ。しかし夏になるとわたしたちは麦茶を飲む。これも tea だといえば英国人はびっくりするだろう。

麦茶には、いわゆる植物としての茶、tea は入っていない。ドクダミ茶やそば茶、杜仲茶なども基本的には tea は入っていない。日本人はそういったものでも「茶」と呼ぶ。

そういう、お茶のようではあるが茶の入っていない飲料を英語では tisane というらしい。この単語は、もともとフランス語から来ているようだ。あるいは herbal tea という言いかたもあるという。日本語と同じ tea つまり「茶」という単語が使われているのが興味深い。

しかし、日本語の「茶」はもっと意味が広い。「お茶にしましょう」というときの「お茶」は紅茶や中国茶はもちろん、コーヒーやココアでもよい。あるいは、オレンジジュースやラムネでも「お茶」ということになる。つまり、日本語の「お茶」という語は soft drinks を含みアルコールを含まない beverages のすべてを意味しているように思われる。

これは、「お酒」という語が日本酒、ウイスキー、ビールなどすべてのアルコール飲料を指すことと対応しているような気がする。日本人にとって飲みものというのは、水をのぞけば、お茶とお酒に大きく分けられていて、細かい分類はあまり気にされていないのかもしれない。
ある日英翻訳教室に気になる例があった。原文は次のようなものだった(若干変更してある)。

社内で流通するオフィス文書などを見映え良く完成させたい場合など手軽に画質調整を実現できる機能をご提供いたします。

模範訳は次のようになっている。

The function that can adjust an image easily is provided when you want to create nice-looking office documents for distribution in the office.


この模範訳にはいろいろな点で賛成できないが、いちばん違和感を覚えるのは、主節の主語が function、従属節の主語が you になっていることである。このように主語を移動させると読者の視点も移動するので意味をすんなりと理解することがむずかしくなるのではないだろうか。

そのあたりを考慮すると、次のような英文のほうがよいと思う。

The product delivers an easy image adjustment capability that allows you to create nice-looking inhouse Microsoft Office documents.



ネイティブチェックが自分でできる英語正誤用例事典
ISBN:9784789010115 James T. Keating ジャパンタイムズ 2000/09 2,400円

accordingly は、なぜかつい使いたくなる単語である。具体的に説明するのではなく、「しかるべくお願いいたします」「そこのところうまく伝えて」のような、日本人好みのちょっとあいまいな心もちに通ずるところがあるのだろうか。それとも、つい使いたくなるのはわたしだけなのか。

英文テクニカル ライティングの講座では、「それに応じて」という意味の accordingly はできるだけ使わないようにと習ったような記憶がある。テクニカル ライティングでは意味をできるだけ厳密に伝える必要があるから、あいまいになる可能性のある accordingly のような表現を避けるのは当たり前といえば当たり前か。

accordingly には、「したがって」という接続詞のような意味もあるが、「英語正誤用例事典」には、この使いかたも避けたほうがよいとある。

accordingly
so, then, therefore, thus を使うほうがよい。
Weak: Accordingly, costs have not been restated.
Better: Thus costs have not been restated.
(英語正誤用例事典、p.3)


マーク・ピーターセンさんの「日本人の英語」だったか「続・日本人の英語」だったかでも、accordingly、consequently、therefore などを比較して説明していた。たしか、accordingly を単純に「したがって」の置き換えとして使ってはいけない、という主旨だったように思う。いまそれらの本が手元にないので正確な内容を確認することができないのだが、accordingly が「したがって」と同じように使えるのは本来の「それに応じて」という意味が敷衍されて使われる場合だけということではなかったか。

いずれにせよ、英語ネイティブでないわたしとしては、よほど自信をもって使えるようになるまでは accordingly は絶対に使わないというつもりでいればよいのだろう。
翻訳語成立事情 ISBN:4004201896 柳父 章 岩波書店 1982/01 ¥735

この本は「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」という 10 種類の翻訳語の成立事情を取り上げ、開国以後日本人がどのように西洋の思想を日本語にしてきたかについて説明している。福沢諭吉、森鴎外、西周といった人物が翻訳語の成立に大きく係わっているらしい。

わたしの仕事では「ミッションクリティカル」「サーバ マネジメント」「マンマシン インタフェース」などのような安直なカタカナ語を多用しているが、むかしのひとは新しい外国語に対応する新しい漢語を考え出してそれを世間に流布させていた。海外から入っている情報が格段に少ない時代とはいえ、よくそんなことができたなあと感心する。

著者独自の「カセット効果」という理論がおもしろい。たとえば先人たちが individual に対して「個人」という訳語を案出して使用し始めたころはその意味を読者が訳者と共有していたわけではない。しかし、このような四角張った漢語には「むずかしそうな漢字には、よくわからないが、何か重要な意味があるのだ」と読者が受け取ってくれるという効果がある、と著者はいう。著者はそれを「カセット(宝石箱)」効果と名付けている。

著者のいうカセット効果は漢字の持つ効果のことだが、これと同じ効果はカタカナ語にもある。幕末や明治初期とは異なり、現在では外国由来の概念を漢語ではなく「ワーキングプア」「ルサンチマン」などのようにカタカナ語(つまり発音のまま)で表すようになってきている。これらのカタカナ語も「むずかしそうな外国語には、なんだかよくわからんが、きっと重要な意味があるのだろう」というふうに受け止められている。そのようにして使われているうちに世間にそのことばの意味がしだいに浸透していくというところも漢語や和製漢語と同じしくみである。

同じことを表現するのに、カタカナ語を使うか、漢語を使うか、大和詞を使うかといったことは、情報の受け取り手の立場を理解しようとする意思があるかどうかということが大きいと思う。

養老孟司さんの講演集か何かで、医師相手の講演で養老先生が「クランケ」という語を使っていらっしゃるのを読んだことがある。一般のひとを対象とした講演なら養老先生は「患者さん」という語を使う。聴衆によって使うことばを変えるのだからさすがである。

お年寄りとか小さな子どもまで広く一般国民に訴えるときに「子育てフレンドリー」とか「カントリー・アイデンティティー」とかいった奇妙な日本語を使うのは、他人がどう感じるかということを理解する、つまり他人を思いやる能力に乏しいのかもしれない。

追記:
考えてみれば、「カセット効果」という言葉自体にカセット効果がある。


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子育てフレンドリー
こんなブログを受験生が読むことがあるかどうかわからないが、受験生におすすめしたい学習法がある。それは辞書を引きながら本を読むことである。

といっても、わからない語が出てきたら辞書を引いてその意味を調べるということではない。そんなことはだれでもやっている。わからない語だけではなくて、使いかたに少しでも疑問のある語や用法が出てきたら片っ端から辞書を引くのである。そして、自分では書けない語は本の余白に何回も書いて、自分で書けるようになるまでその場で練習する。

わたしは高校のときこの方法で本を読んだ。このようにして何冊か本を読むと、活字の見えかたが変わってくる。なんというか、それまでぼんやりと見ていただけだった活字がシャープに見えてくるのである。文字というものを受動的ではなく能動的に、意識的に見るようになるからだろう。

ただし、詩や小説のたぐいはこのような読みかたをしてはいけない。この読みかたは論説文を読むのに適している。新聞の社説や、天声人語、編集手帳などのコラムもちょうどよいと思う。

追記:
これは外国語を学ぶ場合には当たり前のことなのだが、日本語の本を読むときにこういうことをする日本人は多くないのではないかと思ったので書いてみた。「殆ど(ほとんど)」とか「恰も(あたかも)」などというちょっと難しめの語もこのときに書けるようになったが、皮肉にも今の仕事ではこういった語はひらがなで書くことになっているので書く機会がない。
お茶(を)する」というとナンパでよく使うことばなのではないだろうか。まあ、ナンパではなくて友だち同士でも、映画を見た帰りなどに
ちょっとお茶をしていかない
などということもある。

この場合の「お茶」は tea という意味ではなく、「喫茶店などでコーヒーや紅茶などを飲んでくつろぎながらおしゃべりをする」という意味だと思う。喫茶店でひとりでコーヒーやお茶を飲むことや、自宅でともだちとコーヒーやお茶を飲むことは、「お茶をする」とは言わないとわたしは思うが、ひとによっては言うかもしれない。

ところが、「お茶にする」というと意味が違ってくるようだ。上に書いた意味で使うことははあまりないと思う。自分の家の改装をしてくれている大工さんに
おつかれさまです、どうぞ、お茶にしてください
ということがあると思うが、これは「仕事の合間に休憩する」という意味だ。「一服する」というのと似ている。この「一服」は、お茶の一服ではなくタバコの一服のことだと思う。休憩することを「タバコする」と言うこともある。

遠足などで炎天下をずっと歩いているときに喫茶店を見つけて
あそこでお茶にしようよ
という場合はどちらの意味かちょっと迷うが、後者の意味のような気がする。
ちょっと古い話題だが選挙期間中にははばかられたことで書きたいことがあったのでいま書く。

今回の参院選でいちばんびっくりしたのは東京選挙区で丸川珠代さんが当選したことである。

わたしは何の組織にも属さず何のしがらみもないいわゆる無党派層なので、選挙公報で候補者の主張を読んで誰に投票するかを決める。特定の党のひとだからといって最初から排除はしないし、タレント候補だから排除するということはもちろんしない。

選挙公報は泡沫候補といわれるかたもご自分の主張を熱心に書いている。まあ当たり前である。ところが、丸川さんは、なぜ国政を志すのか、どのような考えをもっているのかといったことをほとんど書いておらず、キャッチフレーズの「日本人でよかった」以外には、非常に個人的な身の上話と、3 つか 4 つくらいのソフトで抽象的なお題目しか書いていなかった。

いちばんぶっとんだのは「好きな色:赤」「苦手なもの:ピーマン、ししとう、テニス、幽霊」という子どものような自己紹介だった。何が悲しゅうて、こんな自己紹介を読んで参議院議員を選ばなければならないのか。

選挙公報を読んで自分と考えの違う候補者がいるのは当たり前である。だからこそ選挙という制度があるわけだ。しかし、まるでアイドル歌手のプロフィールのような参考にならないことをこれほど堂々と書かれると腹が立つ。これでも当選するだろうとおざなりなことを書いているのなら東京都民は思いっきりなめられていると思った。

米国から帰国後に住民票を日本に移さず、3 年間にわたって選挙権を行使していなかったという報道も流れた。自分は選挙権を行使しないけどあなたは選挙権を行使してわたしに投票してね、というのも選挙民をなめまくった話である。

「ああ、このひとは当選しないだろうな」と思った。当選したらこれから 6 年間も突っ込まれ続けて困るだろう、今回は落選したほうが本人にとってもよいのではないか。

ところが、彼女はみごと当選してしまった。最初に書いたようにびっくりする結果である。当選したということは彼女に期待したひとが多かったということだし、いまさら文句をいうつもりはない。自分に投票してくれたひとの負託に応えられるようにかんばって仕事をしてほしいと思う。


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