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タレントの SMAP がゲストの注文に応えて料理を作るという番組で、霊能力があって他人の霊(オーラ?)が見えるという芸人さんがゲストで出ているのを見たことがある。如才ない話芸に感心しつつも、子どもは神秘的なことを信じがちなんだから、こういう芸は教育上よくないなあ、いいかげんにしてくれないかなあ、と思って見ていた。

その芸人さんは「自分のオーラは鏡を見たら見えますよ」「シンゴくんのオーラは、テレビで拝見していたときから思っていたんですが…」などと言っていた。そうか、霊というのは鏡に映るのか、しかも電波で配信することもできるのか。霊は意外と世俗的なものと親和性があるらしい。そうだとしたら、将来は、霊のすがたを配信したり自分の霊を鑑定してくれたりするサービスを提供するサイトができるかもしれない。

その芸人さんはオーラの色のもつ意味について解説していた。黄色、緑色、青色、赤色の 4 種類。おもしろいと思ったのは
「黄色は…、グリーンは…、ブルーは…、赤は…」
と説明していたこと。

どうやら、現在では、緑色とか青色はカタカナ語でいうほうがとおりがよいらしい。黄色と赤色はカタカナ語はまだ一般的ではないようだ。もっとも、「イエロー」とか「レッド」というのがいいにくいということかもしれない。

自分の子どものころの色鉛筆や絵の具のことを思い出すと「ももいろ」「だいだいいろ」などと書いてあったものだが、現在では、それぞれ「ピンク」「オレンジ」のほうがふつうになってきていると思う。「はだいろ」という色の名前もなくなって「ペールオレンジ(pale orange)」などと呼ばれているらしい。ちょっとさびしい。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
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なぜだか、eagle をタカ、hawk をワシと覚えている。しかし、逆に覚えていることも覚えているので、読んだり書いたりするときに間違えて困るというわけではない。ワシとタカは生物学的な区別がない(大型のタカを慣習的にワシと呼ぶ)そうなので、間違えて覚えていることをあまり気にしていない。

生物学的には同じ種なのに、日本語でも英語でもタカ(hawk)、ワシ(eagle)と区別して呼ばれているのはなぜだろう。区別して呼ぶほうが便利な理由が何かあったのだと思うが、想像がつかない。

生物学的な区別がないといえば、クジラ(whale)とイルカ(dolphin/porpoise)もそうで、小さいクジラをイルカと総称している。これは、区別して呼ぶ理由が理解できる。捕鯨船で捕鯨して食用にしたり脂を採ったりするのがクジラということだろう。つまり区別することが文化的に必要だった。

チョウ(butterfly)とガ(moth)も、生物学的には同じ種だったか。フランス語では区別せずにどちらもパピヨン(papillon)と呼ぶそうだが、本当だろうか。


追記:
もちろん、生物学上は同じ種であっても外見が異なることはある。セントバーナードとチワワは同じ種だし、白人と黒人も同じ種である。しかし、タカとワシは、わたしにはなじみの薄いいきもので、見た目もあまり違わないように見える。別々の名前で呼ばなくても、たとえばワシのことを「大タカ」と呼んでいたとしてもあまり問題がなさそうな気がするのだが、どうだろう。
先日、NHK の連続テレビ小説「どんど晴れ」を見ていたら、ある登場人物が
「たにんごととは思えない」
といったのに気がついた。

ふつうは「他人事」と書いて「ひとごと」と読む。「たにんごと」はいちおう間違いとされている。

「ひとにいえない苦しみ」「ひとのことなどどうでもよい」など「自分以外の者」という意味の「ひと」を「他人」と書くのは当て字だろう。当て字を本来の読みかたで読んだというわけだ。

しかし、かな漢字変換ソフトの ATOK では「たにんごと」とタイプして「他人事」と変換されるようだ。まあ、NHK のドラマでも使われるくらいだから、「たにんごと」という言いかたも許容されつつあるのかもしれない。
あるニュース記事で、犯人のことを「身長 180cm の中肉中背」と表現していた。びっくりした。

わたしの年代なら、身長 180cm は確実に長身である。痩せていれば「長身痩躯」、太っていれば「大男(大女)」というだろう。

ちゅうにく‐ちゅうぜい【中肉中背】
程よい肉づきで程よい背丈の、平均的な体型。
(広辞苑 第四版)

あらら。広辞苑はさりげなく「程よい」なんていう形容詞を使っている。太っていたり、背が低かったりしてはいけないとでもいいたげな定義だ。

参考までに、和英辞典では次のとおり。

研究社新和英大辞典

ちゅうにくちゅうぜい 中肉中背
中肉中背の人 a person of medium [average] height and build; a middle-sized person.


斎藤和英大辞典

ちゅうにくちゅうぜい〔中肉中背〕
〈形〉Of medium flesh and stature
◆中肉中背で器量は十人並 She is of medium flesh and height―of medium build―and passably good-looking.

ハードディスクはパソコンの代表的な補助記憶装置だが現在では家電製品にもよく使われている。厳密にいえば、記憶媒体がハードディスク(hard disk)、つまり「かたい円盤」で、その駆動装置がハードディスク ドライブ(hard disk drive)である。したがって、よく見る「HDDドライブ」という表現は hard disk drive dirve ということになり、drive が重複している。

ところが、Google で検索してみると、「HDDドライブ」は約 106,000 件もある。「HDドライブ」は正しいはずの表現だが約 97,400 件で「HDDドライブ」よりも少ない。なぜだかわからない。ふしぎだ。

ちなみに、フロッピーディスク ドライブ(floppy disk drive)の「FDDドライブ」と「FDドライブ」でも同じように検索してみると、「FDDドライブ」が約 45,700 件、「FDドライブ」が約 1,050,000 件で、こちらは正しい「FD ドライブ」のほうが圧倒的に多かった。
水平線

先々週から先週にかけて水平線の見える土地にいた。水平線が彎曲して見えるというひともいる。そこで、実際に彎曲して見えるかどうか連日砂浜に出て眺めてみた。残念ながらやはり丸くは見えなかった。しかし、はっきり直線かというとそれも違うような気がする。微妙な感覚なのだ。考えてみれば自然界に直線が存在するわけがない。

まあ、そんなことはどうでもいい。海の水が澄んでいて本当にきれいだった。


関連記事:
水平線までの距離
水平線は湾曲しているか
水平線と太陽
安倍首相が入院中にもかかわらず臨時代理を立てない理由は、入院中の病院から官邸まで 5 分ぐらいしかかからないからだと聞いた。5 分しかかからないとはどれだけ近い病院なのか。同じ建物に住んでいたとしても連絡されてから 5 分で姿を見せることはけっこうむずかしいと思う。ましてや、寝間着を着て点滴を打ってもらっている状態なら少なくとも 20 分や 30 分はかかるのがふつうだと思うが。まあ、連絡があってから官邸に到着するまでの時間ではなくて車での移動時間という意味なのだろうから、正味の時間は、やはり 30 分や 1 時間くらいはかかってしまうのだろう。

それはともかく、与謝野官房長官は「5 分」という数字を、たかが 5 分しかかからない、という意味で言ったのだと思う。しかし、大災害なら、対応が 5 分遅れたために多くのひとが亡くなってしまう状況は考えられる。そういった場合の 5 分はたかが 5 分ではなくて貴重な 5 分だと思う。対応の遅れが 5 分では済まないとしたらなおさらである。

こういうような、数の解釈のしかたが変だと思うことが最近よくある。

1 つは安倍首相が赤城当時農水大臣をかばって 「光熱費(月) 800 円で大臣を辞めさせるのか」と言ったという件。800 円でも 80000 円でも金額の多少は関係ない。金額の問題ではなく、経費ではないものを経費として計上している、あるいは経費を捏造して計上しているかもしれないことが問題だったのではないのか。

もう 1 つは、1 円以上領収書添付の件。「1 円の領収書なんて存在するのか」というひとがいたが、そういう意味ではないと思う。1 円未満の通貨はないのだから、「1 円以上の領収書」というのはつまり「すべての領収書」という意味ではないのか。
「アンプラグド」というカタカナ語を聞いた。「飾りけがなくて質朴な」という意味で使用されているようだった。何のことだかわからなかったので調べてみると、どうやら unpluged のことらしい。一般には「電子楽器を使用しない音楽」の意味でよく使用されているようで、よくご存じのかたも多いだろう。

わたしは音楽にうといのでわからないのだが、電子楽器を使用しない音楽というのはやはり質朴な印象のあるものなのだろうか。ともかく、音楽以外では「アンプラグド」はそのような意味で使用されているらしい。

unplug は plug の反対語で、実務翻訳では「(電気製品の)電源プラグをコンセントから抜く」という意味で使われるのがふつうだと思う。この動詞を使うと、次のように、長い日本語文を短い英文に訳すことができるので便利だ。

コンピュータの電源プラグをコンセントから抜いてください。
Unplug the computer.

unpack というのもある。何かの梱包と解く、何かを開ける、という意味で unpack the box とか unpack the bag のようにも使えるが、次のように、容器を開けて何かを取り出す、という意味でも使える。

Carefully unpack all components from the packing cartons.
「ふたつよいことさてないものよ」は先日亡くなった河合隼雄先生の創作した金言だ。何かよいことがあれば同時に悪いことも考えられるという意味である。何かをよいことと思うか悪いことと思うかは本人次第であると解釈してもよいと思う。

視聴者の依頼に応える「探偵!ナイトスクープ」というバラエティ番組を見ていたら、かけっこでどうしても友だちに勝ちたいから指導してくれという小学一年生の男の子からの依頼があった。かけっこで他人に勝つことがうれしいというのは自然な感情だ。しかし、速く走れることは必ずしもよいことではない。かけっこの決勝線に猛獣がいたとしたら速く走るひとほど先にいのちを落とす。

分子生物学者の故渡辺格先生は、適者生存というか優勝劣敗ということをあまり信じていないとおっしゃっていた。その理由は、先生の友人である優秀な若者は多く戦場に行きいのちを落とした、先生はからだが弱かったので徴兵されず生き残ったからということだった。

先の「探偵!ナイトスクープ」の少年の話に戻って自分のことを顧みると、わたしは特定のだれかに何かで勝ちたいと思ったことがない。特定の試験に合格したいとか、特定の将棋の対局で勝ちたいとか思ったことはもちろんある。しかし、それは自分の技量を高めたいということであって、だれかを負かしたいというような動機ではない。田舎育ちなのでおっとりしているのだ。それがわたしのよいところであり悪いところでもあると思う(ふたつよいことさてないものよ)。

これに似た意味の既存のことわざを考えてみた。すぐに思いつくのは「人間万事塞翁が馬」だ。

人間万事塞翁が馬
Inscrutable are the ways of Heaven.
(斎藤和英大辞典)

同じように使われることわざに「禍福はあざなえる縄のごとし」もある。

禍福は糾{あざな}える縄の如し
Good and evil are strangely interwoven―“Life is a bundle of good and evil.”
(斎藤和英大辞典)


ものごとの価値はひとによって異なるという意味では、次のようなものもある。

甲の薬は乙の毒。/人によって好みは違う;《諺》
One man's meat is another man's poison.
(和英辞郎)

蓼食う虫も好き好き Tastes will differ―“There is no accounting for tastes.”
(斎藤和英大辞典)



関連記事:
ふたつよいことさてないものよ
この春に松岡農林水産大臣が自殺したとき、それを受けて安倍首相が「慚愧に堪えません」と発言した。「慚愧に堪えない」は「自分の行為を反省して、心から恥ずかしく思うこと(明鏡国語辞典)」という意味だから、安倍さんは何を反省したのだろう、ということで話題になった。

思うに、安倍さんは「残念でしかたがない」というようなことをいいたかったのだと思う。その「残念」の「ザン」と、うろ覚えで知っていた「慚愧(ザンキ)に堪えない」が頭の中で交ざってしまったのだろう。

このことで思い出すのは、評論家の呉智英さんが何かの本で、「すべからく」を「すべて」の意味で使っている文化人は俗流教養主義に冒されている、という主旨のことを書いていたことだ。

「すべからく(須く)」は「すべからく、何々すべし」と「べし」と組み合わせて使うのが伝統的である。意味も「すべて」ではなく「なすべきこととして」である。これは、「いわんや(況や)」などと同じように、漢文で読み下すときに文頭に出てくる文字に読みを当てざるをえなかったためにできたことばだ(と思う)。

しかし、本を読んでいると「日本人はすべからくお箸で食事をします」というような「すべて」の意味で使う破格の文を見ないでもない。呉智英さんは、そのような誤用をするひとは教養コンプレックスをもっていて、教養があるように見せたい、つまり虚勢を張りたいという卑しい気持ちがあるのだというのである。

それと同じように、「残念でなりません」よりもかっこうのよい知的な表現だと思って、ちょっと見栄を張るようなつもりで「慚愧に堪えない」と安倍さんはいってしまったのだろうか。そう考えると、必要もないのに「子育てフレンドリー」のようにカタカナ語を多用していたのも同じ理由なのかという気がしてくる。

なぜいまごろこんなことを書いているかというと、最近、同じような「ざんきに堪えない」の使いかたをたまたま見たからだ。

日本将棋連盟の武者野勝巳六段が連盟から引退勧告されたということについての日刊スポーツのニュース記事に、「同連盟は今回の事態を『ざんきに堪えないところ』としている」と書かれている。これも反省しているという意味にはとりにくい。「慚愧に堪えない」ということばは新しい意味を獲得しつつあるのかもしれない。


追記:
安倍首相の「慚愧に堪えない」発言については、子守男さんが「農水相の自殺は「慙愧に堪えない」?」という記事を書かれている。


関連記事:
職責にしがみつくことはない
I shall reflect on the things we should reflect on
安倍首相と「親切」ということば
子育てフレンドリー

「ふたつよいことさてないものよ」というのは、ひとつよいことがあれば、ひとつ悪いことがあるとも考えられる、ということだ。抜擢されたときは同僚の妬みを買うだろう、宝くじに当たるとたかりにくるのが居るはずだ。世の中なかなかうまくできていて、よくことずくめにならないように仕組まれている。
(河合隼雄「こころの処方箋」より)


たとえば、難関学校の入学試験に合格するというような傍目にはよいことのように見えることでも、何十年もしたら「あのときあの学校に合格しさえしなければ」と思うこともあるにちがいない。そのように思うのは本人だけとはかぎらない。他人から見ても「あのひとも東大に行ったりさえしなければ、いまごろ家業を継いで平和に暮らしていただろうにねえ」と残念に思われることもあるだろう。

試験に合格することがよいこととはかぎらないというのは、自分の子が合格すればうれしくても、となりの子が合格して自分の子が不合格になれば腹立たしいということを考えてもわかる。つまり、自分や自分の家族にとってはよいことであっても他のひとにとってはよいことではない場合もあるというわけだ。

何年も前に会社を辞めて自由業になった。通勤がないのはよいことだ。反面、経済的に安定せず、社会的信用が得られないという悪いところもある。もっとも、それは恣意的に悪く書いてみたのであって、経済的に安定しないというのは、経済的価値のみにとらわれずに生きているともいえるし、社会的信用が得られないというのは社会的な立場や身分から自由な立場にあるともいえる。

武士は食わねど高楊枝、というわけにはいかないけれど、ほとんどのことは、悪く考えようと思えば悪く考えることができるし前向きに考えようとすれば前向きに考えられるものだろう。これからのことならともかく、もう済んでしまったことを悪く評価しないようにしようと思っている。


追記:
何かの試験に落ちて悲嘆に暮れているひとを見ると、その試験に合格しなくてかえってよかったのかもしれないよといってやりたくなる。無責任で冷たい言いかただとはわかっているがこちらは本気でそう思っている。実際にそう言ってしまって、悲しんでいる相手に怒りの感情まで加えさせてしまったことがある(笑)。やはり、心理療法家でない人間はめったなことをいわないほうがよい。
日刊スポーツによれば

安倍晋三首相(52)は9日午後、シドニー市内のホテルで内外記者会見を行い、11月1日で期限の切れるテロ対策特別措置法に基づくインド洋での給油活動継続を「国際公約」と位置付け、継続できない場合は「私の職責にしがみつくことはない」と言明し、退陣する意向を表明した。

のだそうである。ネット上の他の新聞にも同じように書かれているから、安倍さんがそのように言ったことというのはおそらく間違いないのだろう。

「職責にしがみつくことはない」というのは、どういう意味か。「職責」を念のために辞書で引けば、official responsibilities(和英辞郎)であり、「職務上の責任」(新辞林、広辞苑)と書かれている。まあ、こんなことばは辞書を引くまでもない。職務責任のことだとだれでも思う。

つまり、「職責にしがみつくことはない」というのは、「職務責任にしがみつくことはない」ということだろう。「職務責任にはこだわらず、場合によってはそれを放棄する」というような意味だと思われる。

総理大臣にそんなことを言われても困る。職責はちゃんとまっとうしてよ。


追記(2007/9/11):
辞めないでがんばれといっているわけではない。必要に応じて総辞職するのも首相としての立派な職責の 1 つであるとわたしは思っている。首相の職にあるひとがその職務中に「責任を放棄する」とうけとれられるような発言をしてはまずいだろう。首相の職にあるかぎりはその職分を果たしてもらわないと困る、職責を放棄されては困るというのが、この記事の趣意である。

関連記事:
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安倍首相と「親切」ということば
子育てフレンドリー
夕食を食べながら NHK のニュースを見ていたら、スポーツのコーナーで六大学野球のことを報道していた。というか、早稲田の斎藤という投手が登板したことを報道していた。
六大学野球のことなんて、これまで報道していたっけ
と連れ合いに話しかけたら
佑ちゃんが出ているからじゃないの。一億総ミーハーなのよ
と毒気たっぷりに答えてくれた。もちろん、佑ちゃんというのは早稲田の斎藤選手のことで、端正な顔立ちから「ハンカチ王子」というニックネームで女性に人気があることはわたしも知っている。

そういえば、イチローや松井などの花形選手が米大リーグチームに移籍してからスポーツニュースはまず大リーグの試合結果から始まるようになった。それも、どのチームが優勝しそうになっているとか、どういう試合展開だとかいうことより日本人選手がどのように活躍したかということが中心だ。それが終わったら申しわけ程度に日本のプロ野球結果が流れるという感じになっているように思う。野球に興味がないので熱心に見てはいないのだが、そのような構成になっているような気がする。

これもまあ、テレビ局がミーハーということなのだろうなあ。連れ合いのいうとおり「一億総ミーハー」なのだろうか。

「ミーハー」でパソコンの電子辞書を串刺し検索してみたら、研究社新和英中辞典の項目だけしか引っかからなかった。

ミーハー
lowbrows; 《英俗》 the plebs
ミーハー向け映画 a film for lowbrows
(研究社新和英中辞典)

おかしいなあ。そうか、あれは日本語だから「みいはあ」が正しいのかと気がついて、「みいはあ」で引きなおしてみると、はたして新辞林と広辞苑に項目が見つかった。

みいはあ
⇒みいちゃんはあちゃん

みいちゃんはあちゃん
趣味・教養の低い若い人たち。また,その人たちを卑しめていう語。みいはあ。
(新辞林)

みい‐はあ
(多く「ミーハー」と書く) ⇒みいちゃんはあちゃん

みいちゃん‐はあちゃん
(一説に、女子の名が「み」「は」で始まるものが多いからという) 流行やまわりの人の趣味などにすぐ同調する人をいやしめていう語。みいはあ。
(広辞苑)


うーん、野球はりっぱな文化だけれど、野球そのものよりも花形選手の活躍ばかりを追いかけようとするのは、やはり「みいはあ」だろうなあ。
「コンピュータおたく」というような言いかたがある。もし「おたく」ということばがなかったとしたら、どういうふうに表現しただろうか。「コンピュータ気違い」「コンピュータ マニア」「コンピュータ ファン」などだろうか。どの言いかたも「コンピュータおたく」ということばのもつ印象にぴったりと当てはまるとは思えない。「おたく」ということばが一時的な流行語にとどまらず定着したのは必然だったのだろう。

「コンピュータおたく」はコンピュータの知識や技術が豊富なひとに敬意を表した表現である……とはとても思えない。むしろ、一般職(ゼネラリスト)が専門職(スペシャリスト)をやや軽蔑して呼ぶときの言いかたのような気がする。これは、ひとによって感じかたが違うかもしれないが、たんご屋はもともと専門職として社会に出たからだろうか、そういうふうに感じる。

英語では computer geek。あるオンライン辞書によるこの語句の定義がおもしろい。

computer geek <jargon>
(Or "turbo nerd", "turbo geek") One who eats (computer) bugs for a living. One who fulfils all the dreariest negative stereotypes about hackers: an asocial, malodourous, pasty-faced monomaniac with all the personality of a cheese grater. The term cannot be used by outsiders without implied insult to all hackers; compare black-on-black usage of "nigger". A computer geek may be either a fundamentally clueless individual or a proto-hacker in larval stage.
See also Alpha Geek, propeller head, clustergeeking, geek out, wannabee, terminal junkie, spod, weenie.
Retrieved September 07, 2007, from Dictionary.com website: http://dictionary.reference.com/browse/computer geek

ただ、わたしにはこの中の a cheese grater の意味がわからない。おわかりになるかたがいらっしゃったら、ぜひご教示いただきたい。

なお、「おたく」に関する英語表現については、子守男さんのブログに詳しい。
あるドリンク剤の注意書きを読んでいたら、次のような表現があった。

他の容器に入れ替えないでください(誤用の原因になったり品質が変わります)。

括弧内の文が引っかかる。

試しに文章校正ソフトの Just Right! 2 で上記の文を校正させてみると、「なったり」の部分が反転表示されて次のように指摘された。

文中で並列を表す「たり」が単独で使われています。
並列を表す「たり」は、「~たり、~たりする」のように反復して用いるようにします。
確認・訂正してください。

つまり、「誤用の原因になったり品質が変わったりします」と直したほうがよいというわけだ。

このような短い文だと気がつきやすいのだが、長い文を書いていると後ろのほうの「たり」をうっかり抜かしてしまうことが意外にある。それどころか、後ろの「たり」を抜かしたほうがむしろ自然に感じることもある。ドリンク剤の例のような使いかたが増えてきているのはそういう理由からだと思う。

追記:
この「たり」って何だろうと思って広辞苑を見てみると、「元来は文語完了の助動詞タリの連用形」と書いてあった。つまり、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の「たり」の親戚ということらしい。
しかも、命令・勧誘の意味もあって、「さあ、どいたり、どいたり」というときの「たり」と同じだという。

この広辞苑の命令の意味の例では「どいたり、どいたり」(どいた、どいた)と「どいたり」(どいた)を 2 回繰り返しているが、「さあ、どいたり」(さあ、どいた)と 1 回ですませることもあるし、「ちょっと待ったり」(ちょっと待った)なら、1 回ですませるのがむしろふつうである。上で書いた並列の「たり」もあまり繰り返すと冗長になるが、命令の「たり」にも同じ傾向があるのかもしれない。

英語は僕にとって、あくまでも手段であって、目的ではない。行くべきすてきなパーティーがなければ、靴ばかり磨いたって仕方ない。
「養老孟司×英文校正エナゴ スペシャルロングインタビュー」より)

本当にそのとおりだと思う。いくら英語ができても本人に内容がなければなんの意味もない。

英語を話すこと自体はえらいことでもなんでもない。どんな卑劣漢でも英語が母語なら流暢な英語を話す。そんなことは当たり前のことだが、意外に当たり前になっていないような気がする。英語ができるようになれば何かが達成されるという幻想をもち、英語自体が目的になってしまっているひとも見受けられるように思う。

英語ができるというだけで仕事になるのは通訳者や翻訳者ぐらいのものだろう。通訳者や翻訳者に内容がないと言いたいわけではない。通訳者の米原万里さんはたいへん内容のあるひとだった。そうはいっても「英語屋」ということばには軽蔑の含意がある。それは、英語屋は他人の考えた内容を右から左に移動しているだけで当人には内容がないと多くのひとが認識しているからだと思う。

英語(などの外国語)ができなくても、自分の分野でそれなりの知識や技術が身についていれば、その価値は言語を越えて理解されるものだろう。イチローの技術は、英語を介して評価されているわけではない。文化芸能に秀でたひとが外国人と対談するのをときどきテレビで見ることがあるが、そういうひとは、たとえ通訳を介してであっても片言の外国語であっても、自信をもって堂々と渡り合っている。うらやましいなあと思う。


関連記事:
養老先生と英語


先日、録画したのに見ないままになっていた成瀬巳喜男監督の「流れる」という映画を連れ合いといっしょに見た。おもしろかった。見てよかったと思える映画を見たのはひさしぶりだ。

主人公の女中を演じるのは田中絹代。置屋の女将は山田五十鈴、その娘役に高峰秀子、芸者役に杉村春子、岡田茉莉子、そして重要な役回りになる姐さん役に栗島すみ子。こんなにおおぜいの花形女優が出演しているというだけでびっくりだ。男優陣はちょっと寂しいが「七人の侍」の宮口精二、加東大介が出演している。

あまり筋をばらしたくないので周辺的なことについての感想を書くと、日本のむかしの生活のようすにとても懐かしい印象を受けた。といっても、この映画に描かれているのは戦後間もないころの話で直接知らないはずの情景だ。

それでも、わたしの子どものころでもエアコンのある部屋でコーヒーを飲んでテレビで映画を楽しむ現在と生活のようすは大きく違った。夏は蚊帳を釣っていたし、うちわが重要な冷房装置だったし、飲むものといえば水道の水が当たり前だった。そういうちょっと不便だけれど夏を全身で感じていた生活に懐かしさをわたしは感じたのだろう。

追記:
田中絹代のことばづかいがとても美しい。でも、いまああいうふうにしゃべるひとがいたら慇懃無礼といわれてしまうだろう。
「バカの壁」の養老孟司さんが英文校正エナゴのインタビューで、英語の論文を書いた経験を次のように語っている。

昔はインターネットもありませんから、英文を書くには、ほかの文献を読むしかない。自分の言いたいことに近いことを言っている箇所にぶつかるまで探して、そこから表現を拾ってくるんです。「これを言うのに英語ではこういう表現をするのか」と、英語の書物を読んでいてハッとすることがあるでしょ。それにぶつかるまで探す。

そのようにして、いったん作り上げた論文でも後でよい表現が見つかるとタイプライタで打ち直すということを繰り返したという。気の遠くなるような作業である。まあ学者は論文を書くのが仕事だし、そのためにはいくら時間をかけてもよいのだろうからそういうことができたのだろう。

養老先生とはまったくレベルが違うが、不肖わたしも英文を書くときあるいは日英翻訳のときに同じようなことをする。関連文献を読みまくるほどのひまはないから Google のフレーズ検索を使う。

たとえば、むかしやった日英翻訳の中に、豪州でのクリスマスの朝のようすを描写した次のような文があった。

若い家族の住む住宅地では、朝早くから子供達がプレゼントにもらった新しいオモチャで遊ぶ姿が見られます。

この「住宅地」を単純に辞書で引いても residential districtresidential arearesidential quarter などさまざまな表現がある。英語ノンネイティブのわたしに、それらの細かい含意の違いがわかるわけがない。また、豪州は英米と慣用が違う可能性もある。そこで、次のように Google で検索して件数を比較してみる。

"residential district | districts" site:au (約 937 件)
"residential area | areas" site:au (約 611,000 件)
"residential quarter | quarters" site:au (約 732 件)

これによって、少なくとも豪州では residential area、residential areas という言いかたがよく使われているようだなと見当をつけられるというわけだ。この結論は間違っているかもしれないが、納期のある仕事で調査にそれ以上時間をかけるのはむずかしい。けっきょくわたしは次のように訳した。

In the residential areas where young families live, you will see children playing from early morning with brand-new toys given to them as Christmas presents.

see children playing よりも see children play のほうがよかったのかなとか、いまだによくわからず不安なところがたくさんある。こういうことをずっとやっているのだから、こんな簡単な文を作るだけでもどれだけの時間がかかっていることか。

日英翻訳は英日翻訳のおよそ 2、3 倍の報酬を得ることができる。しかし、英語ネイティブならともかく、わたしのような英語ノンネイティブの人間には手間がかかりすぎて割に合わない。

それでも今は無数の英文例が Web 空間にあり、しかもそれをさまざまな条件を指定して検索することができる。養老先生が論文を書かれたころよりは調査作業が格段に楽になっていることはたしかだろう。
water cooler というのは事務所によくある給水器のことだが、そこに集まってうわさ話をすることを water cooler gossip というらしい。日本語の井戸端会議と似ていておもしろい。

研究社新和英大辞典で「井戸端会議」を引いても water cooler gossip は載っていない。

井戸端会議
housewives' (well-side) gossip; backstairs gossip; a sewing circle of gossip.

英辞郎には water cooler gossip は収録されているので、けっこう新しい表現なのかもしれない。

井戸端会議のような他人のうわさ話は女性が好むものかと思っていたがそうでもないようだ。会社を辞めてから地域に住むいろいろな男性退職者と知り合いになったが、中には非常にうわさ好きの男性もけっこういることがわかった。

何某さんの息子は東大に行ったけれど鬱病になって、それから米国留学したけどすぐに帰ってきて…などといったことを嬉々として話す。何がおもしろいのか。わたしは他人のことなど興味がなくて適当に受け流すのでそういう話の内容を後まで覚えていたことがない。

考えてみれば、だれかさんとだれかさんがつきあっているとか、だれかさんが左遷されるとかいったうわさ話が好きなひとは会社にもおおぜいいた。わたしはそういう話の輪に入れられなかったので、だれかが辞めるとかだれとだれが結婚するという話をとつぜん知っておどろくばかりだった。

最近、週刊誌などで国会議員の不倫疑惑がうわさされているが、「だからどうした」と思う。国会議員だって人間なんだから恋ぐらいするだろう。そんなのは当人と不倫相手と家族の問題だ。むしろ、恋もしないような人間、間違いや失敗をしたこともないような人間にわたしたち凡人のための法律を作ってもらいたくない。不倫疑惑を取り上げている週刊誌は、人品骨柄の卑しい国会議員を憂っているというよりも、ただただおもしろがっているだけのような気がする。
春から秋にかけてほぼ毎日甚平を着ている。これも「クールビズ」だろうか。外に出るときも甚平のまま出かけることが多い。池袋や台場のような都会にも甚平で出かけたことがある。

シンガポールに遊びに行ったときも甚平を何着かもっていった。暑い土地だから涼しい服装をするのが当然だという感覚があるのか多民族多文化国家だからなのかわからないが、甚平を着て屋台でビールを飲んでいても奇異な目で見られることはなかった。甚平なんて風呂敷みたいなもので、たためば本当に小さくなるから着替えの荷物がかさばらないところもよい。

他人が甚平で外出することを快く思わないひとがいることは知っている。米国で『ズボンの腰ばき』を取り締まろうというひとたちと同じように、室内着である甚平で外出するのをある種「だらしない」と感じるのだろう。まあ、そんなことをいったら浴衣だって湯上がり着なのだから浴衣で外出するのもだらしないということになる。服装ではなく中身で人間を判断したいものだと思う。


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tolerance
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