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野球のダルビッシュ選手が沢村賞を受賞したとのニュースで、アナウンサが
「ダルビッシュ選手は結婚も決まっていますし、いいことづくしですね」
といった。うーん、自分なら「いいことずくめ」というなあと思った。

そういえば、「づくし」と「ずくめ」はどう違うのだろう。広辞苑で調べてみた。

づくし【尽し】
(接尾)名詞の下に添えて、その類を全部ならべ挙げる意を表す語。「国―」「宝―」

ずくめ【尽】ヅクメ
(接尾)名詞に添えてその物ごとだけである意を表す語。「黄金―」「結構―な話」

うーん、やはり、よく似た意味ではある。でも、わたしもおおむね同じように認識している。

これを踏まえて、自分の感覚を自分なりの表現で説明してみる。

「づくし」は、「牡蠣料理尽くし」「山菜尽くし」のようにいろいろな要素があってそれらのひとつひとつを列挙できる場合のいいかただと思う。「ゲームもない、テレビもない、本もない、ないないづくしの田舎暮らし」といえば、やはり、要素をひとつひとつ意識している。

「ずくめ」のほうは、「黒ずくめ」「辛いものずくめ」のように、個々の要素のことよりも、ともかく、そればっかりだ、といいたいときに使うような気がする。「田舎暮らしはよいことずくめ」というときは、要素を列挙したいのではなく、ともかくよいことばかりあるよ、といいたいのだと思う。
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可能を表現するとき「受け取れる」と「受け取ることができる」のどちらがよいだろう。あるいは漢語やカタカナ語では「転送できる」と「転送することができる」、「インストールできる」と「インストールすることができる」ではどうだろう。

どちらかが一律によいということはありえないが、わたしは、自分なりの基準を決めて使っている。それは主節では「ことができる」のかたちを使うというものだ。従属節では助動詞の「れる」「られる」や「○○できる」というかたちを使う。

この基準に従うと、たとえば、「大量の文書を転送できるソフトウェアを設計することができます」というような文になる。逆にすると「大量の文書を転送することができるソフトウェアを設計できます」となる。わたしは前者のほうがよいと思っているが、どうだろうか。
いま、東京地方では平日夕方に TBS でむかしの「水戸黄門」を放送している。地上デジタル放送ではほぼすべての番組で放送用字幕を表示できるので、難聴の父に見せてやるつもりでこの番組を字幕付きで録画している。

ところが、このドラマは画面の下のあたりに放送用字幕とは別に広告用の字幕も出ることに気がついた。「今晩8時から○○」とかいった自局の番組宣伝で、新幹線の字幕ニュースのように右から左に流れるようになっている。これが聴覚障害者のための放送用字幕と重なって非常に読みにくい。

なんだって放送中のドラマに字幕広告を流さねばならんのか。番組の合間に 3 回ぐらいコマーシャルの時間があるのだから、そこで宣伝すればよいと思うのだが。考えてみれば、放送中のドラマの画面に広告を表示するなんて、まるで、ブログの本文にアフィリエイトのバナー広告を貼り付けているみたいなものだ。

映画やコンサート中継ならそんなことはしないと思う。そんなことをしたら、その映画やコンサートの価値を大きく下げることになる。どうせ自局の再放送ドラマだからと思って広告をつけて放送しているのだろう。しかし、TBS にとって「水戸黄門」は 貴重なドル箱コンテンツだろう。そのコンテンツを自ら価値の低いものにして放送しているのだから、大したドラマじゃないんですよ、と自分で認めているようなものだ。ばからしい。

それでも、広告字幕を表示するのは放送局の勝手といえば勝手だが、聴覚障害者のための字幕のじゃまになってはいけないと思う。きっと、担当者はそんなことを想像もしなかったに違いない。
more than twenty devices のような表現を「21 台以上の装置」と訳す流儀がある。

わたしは「20 台より多くの装置」のように逐語的に訳すことが多い。原著者は 20 という数字を頭に浮かべていたはずだから、その 20 という数字を活かしたほうがよいと思う。

one or more devices を「1 台以上の装置」と訳す流儀もある。これも逐語的に「1 台または複数台の装置」と訳すことがわたしは多い。

「1 台以上」というのはむりやり作ったような表現でなんだか気に入らない。そもそも「1 台以上」という言いかたは日本語として正しいのか。

英語では単複を厳密に区別するので one or more とやや冗長な表現をしているが、つまり、1 台でも複数台でも、ともかく装置が存在するといいたいだけのことも多いのではないだろうか。だから、文脈によっては単に「装置」と訳してもよいと思う。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
「隣(となり)」は常用漢字ではあるが、難しい字だし、訓読みでもあるし、個人的にはひらがなで書きたい文字である。個人的な文章を書くのであれば迷わずひらがなで「となり」と書く。

また、送りがなを「」とするか「隣り」とするかという問題もある。明鏡国語辞典によれば、

◆ 「送り仮名の付け方」では、動詞の意識をとどめるか、とどめないかで「隣り/隣」を使い分ける(「座席が隣り合わせになる/隣の町」)が、後者の場合も、「隣り近所」「右隣り」などのように、慣用的に「り」を送ることも多い。

とのことである。

また、『朝日新聞の用語の手引き』の「送り仮名表」には、「隣」「隣り合う」「隣り合わせ」「隣近所」「隣組」「隣村」「隣る」といった例が書かれている。

とはいえ、しょせん辞書や本は目安にすぎず、これらとは違う独自の基準あるいは事実上の標準をもつ組織もあるだろうと思う。

このような議論を避けたいので、たとえば英日翻訳の仕事で原文に the adjacent button という句があったら「となり」を避けて「横のボタン」「隣接するボタン」などとわたしは訳している。

マニュアルを手分けして訳している場合に、自分が「隣りの」と訳していて他の翻訳者が「隣の」と訳していたら不統一になってしまうかもしれないということもある。
ポパイの主題歌の中に Popeye the sailor man という句がある。ふつうに考えると船乗りはたくさんいるはずでポパイだけが特別ではないから、Popeye, a sailor man のほうが理屈にあうような気がする。しかし、こういう例はたくさんある。人類が初めて人工的に作った哺乳類体細胞クローン羊は Dolly the sheep だし、切り裂きジャックは Jack the ripper である。

アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant)やアブドーラ・ザ・ブッチャー(Abdullah The Butcher)など、プロレスラーのリング名にはこういった表現が多い。ジャイアント馬場も、米国でのリング名は Baba the Giant だったと思う。

こういうことは慣用として知っていたが、文法書などでこのことを説明した内容を見た記憶がない。見たけれども忘れてしまっているのかもしれないと思ってあらためて確認してみたのだが、意外にも「英文法解説」や「表現のための実践ロイヤル英文法」には説明されていなかった。

しかし、「研究社リーダーズ英和辞典」には実にわかりやすく解説されていた。

5 [名詞または形容詞と固有名詞とを同格関係に並べるとき] 《名詞または形容詞+固有名詞の前》.
the poet Byron 詩人バイロン.
★このような場合, 特に 固定化したものには固有名詞が the+名詞[形容詞]に先んずることが多い.
Alfred the Great アルフレッド大王.
・Jack the Ripper 切り裂きジャック.


ランダムハウス英語辞典」にも次のような用例があるが、リーダーズほど明快な説明はない。

William the Conqueror ウイリアム征服王
Alexander,(the) son of Philip フィリップの息子アレクサンダー.

CS 放送でむかしの「松本清張の黒革の手帳」というドラマをやっていて、おもしろく見ている。これは、米倉涼子さんの主演したドラマとは違って、1982 年に放送された山本陽子、田村正和、三國連太郎といったひとたちが演じた作品だ。

当然ながらまだ携帯電話のない時代で、黒電話やピンク電話が使われていたり、銀行で使われているオンライン端末が古くさかったりしてなんともなつかしい感じがする。米ドラマ「スタートレック」に出てくるコンピュータがいまの目で見るとちゃちだというのとはまた違う。だって、「スタートレック」のコンピュータは当時想像された未来のコンピュータにすぎないが、「黒革の手帳」に出てくる端末は本当に使われていたものなのだから。

台詞で使われている語彙もいかにも古くさい。「舞踏会の貴婦人のよう」とかいう台詞があったが、そういう比喩を使うひとはいまではほとんどいないだろう。

番組冒頭のナレーションには「ハイミス」ということばも使われている。これもなつかしいことばだ。「ハイミス」とは結婚しないままある程度以上の年齢になった女性のことである。「オールドミス」ともいった。むかしからの日本語なら「いかずごけ」「いかずおば」。もちろん差別語で、いまなら放送局の自主規制にひっかかって放送できないだろうと思う。英語では spinster とか old maid だが、これらも軽蔑的に使われることばらしい。

いまならなんというのだろうなと考えたが思い浮かばない。「お局さま」ということばはあるが、これは職場の仕切り屋というような意味で結婚しているかどうかとは関係ないだろう。

いまは、既婚独身にかかわらず女性が社会で働くのは当たり前になっているので、そういうひとをことさら区別して表現する必要がなくなったということだと思う。元 NHK アナウンサの山根基世さんは、災害報道時に「女性は炊き出しをしろ」と研修でいわれたという。そういうものかと、その当時はあまり疑問をもたなかったそうだ。今とは隔世の感があるという由のことをおっしゃっていた。

関連記事:
「OL」ということば


電気ケトルというものを買った。これまではヤカンをガスにかけてお湯を沸かしていたが、そのヤカンが古くなって汚くなってきたし、他のことをやっていて沸かしたままでしばらく放っておいたりすることもあるので、ガス代の節約と安全のために買ってみることにした。

さっそく使ってみると、カップ 1 杯の水が 1 分未満で沸騰する。沸騰したら勝手に電気が切れるし、万一空だきしてしまったときも電気が切れるようになっている。これは便利かもしれない。なお、うちは妻とのふたり暮らしなので保温機能付きの電気ポットは不要だと思って選ばなかった。

製品に同梱されていた取扱説明書をぼんやりと読んでいると、最後のページが「愛用者カード」になっていてハガキの裏面にアンケートが書かれていた。

Q1 お手元にある電気ケトルの色は次のうちどれですか。
A1 1. スカイブルー 2. カフェオレ 3. メタリック ノアール 4. シュガーピンク

ほえー、選択肢がぜんぶカタカナ語だ。しかも、あまり聞いたことのない色名ばかりだ。

スカイブルー」はなんとなくわかる。sky blue で空のような青色のことだろう。日本語の空色と同じ色なのかどうかは知らない。

カフェオレ」というのは、あの飲みもののカフェオレと似た白の混ざったコーヒー色のことだろうか。なるほど、「薄茶色」では「薄いお茶」を連想してしまうかもしれないので、ケトルの色をいうのなら「カフェオレ」のほうが適切なのかもしれない。

メタリック ノアール」はわからなかった。前半の「メタリック」は metallic で「金属的な」ということだろうが、後半の「ノアール」が何かわからなかったのでググって調べてみたら、フランス語の noir で黒色ということだとわかった。それはわかったが、どういう色のことかはやはりわからない。日本語で「いぶし銀」というような色なのだろうか。

シュガーピンク」は、sugar pink だろう。ピンク、つまり桃色の仲間だろうとは想像ができる。砂糖菓子によくあるような薄い桃色のことだろうか。sugar pink でググってみると日本語のサイトしか見つからなかった。たぶん和製英語なのだろう。

アンケートハガキのようなものでもわからないことって多いし、いろいろと勉強になるものだなあ。

関連記事:
色とカタカナ語
若者が歴史に興味をもたないのは自分に歴史がないからだ、と何かの本で読んだことがある。

なるほどと思う。子どものころのことを想い出してみると、歴史の授業で教わることなんて自分とは関係のない大昔のことだと思っていてまったく現実感がなかった。丸暗記はもともと苦手なのだが、年号を覚えるのは化学用語や英単語の暗記よりもさらに無意味に思えて苦痛だった。化学用語や英単語なら将来何かの役に立つかもしれないが、年号を覚えることが役に立つわけがないと思っていたからだ。それはいまでもある程度そう思っている。

それでも、中年になって自分に歴史ができてきたからだろうか、歴史の意義というものが前よりは少しわかってきたような気がする。歴史も地理も、いろいろなところで働いたり旅行をしたり本を読んだりしていると自然に覚えていくというところがある。わたしは京都府出身で関東の地理などはまったくわからなかったが、東京近郊で働くようになって少しずつわかってきた。

一般に、社会科は現実的で、数学や理科は抽象的と認識されていると思うが、少なくとも子どもにとってはそれは逆だと思う。

近畿の田舎で育ち、となり町に行くことさえめったになかった子どものころのわたしにとって、九州とか関東、東北といった地域は抽象的な概念だった。ましてや、米国とかアフリカとかいわれても現実に存在するものだとはとても思えなかった。

また、自分の過去がほとんどなく将来のことのほうに関心の高いのだから、鎌倉幕府がどうしたとかローマがどうしたとか漢王朝がどうしたという話も、まさにお話にすぎなかった。経済のしくみも、社会のしくみも、政治のしくみも、そもそも経済活動、社会活動、政治活動に参加していないのだから現実感があるわけがない。

逆に、数学(算数)なら、リンゴ 2 つとリンゴ 3 つで 5 つになるというのは、非常に現実感のある話である。理科の実験にしても、学校でやっても家でやっても、どこでやっても同じ結果になるはずの現象なのだから、とても具体的で現実的なことである。だからわたしは理科が好きだった。

これは、都会で生まれ育ったひと、あるいは親が転勤族だったひとではまた違うことになるだろうと思う。そういうひとは早くから社会や地理といったものの意味を理解するに違いない。この雑文は、やはりわたし個人の歴史に由来する考えを書いているだけに過ぎないのだろう。

日本語の「大疑問」
池上彰 講談社 2000年03月 ISBN/JAN:9784062720076 740円

池上彰さんは元記者で NHK「週刊こどもニュース」のニュース解説役を長く務められた。その解説はとてもわかりやすくて、「芸」といってもよいくらいだった。この本では、おとな向けと子ども向けの両方のニュース解説をやってこられた立場から、日本語の不思議さやおもしろさを紹介している。

わたしは最近読んだのだが実は 2000 年に出版されていた本だそうだ。「日本語練習帳」が評判になった翌年で、まだ「日本語ブーム」といわれるような状況ではなかったころだと思う。

しかし、ら抜きことば、「チョー」、「1000 円からお預りします」、鼻濁音、「気がおけない」など、最近巷間でよく話題にされているようなことはほとんど取り上げられている。また、志賀直哉や森有礼らが日本語を捨てよう主張した話、日本語は非論理的な言語か、カタカナ語のこと、敬語のことなど、日本語にまつわるさまざまな話題が幅広く取り上げられている。

話題が広いとはいえ、さすがに子どもニュースの元「お父さん」役だけあって、とても読みやすくてわかりやすい。どちらかというと少し保守的な意見が書かれているけれど、高圧的で押しつけがましいという感じはしない。高校生が読むのにとてもよい本だと思う。中学生でも読めるだろう。

関連記事:
「週刊こどもニュース」のすすめ
土曜日夕方の NHK 「週刊こどもニュース」を夫婦ともども楽しみに見ている。題名からわかるとおり子ども向けのニュース番組だが内容は「子どもだまし」とはほど遠く、政治、経済、国際問題、科学などの話題をわかりやすく解説してくれるよい番組だ。わたしたちのような不勉強でお気楽な夫婦にはちょうどよい。むしろ、オカルトを扱った最近のバラエティ番組や、どこまで演出か知らないが、もの知らずの度合いをタレントに競わせるかのようなクイズ番組のほうが「子どもだまし」だと思う。

とくにおもしろいのは「世の中まとめて一週間」というコーナーだ。ナレーターが 1 週間のニュースを伝えるのだが、そこで使われる語彙が独特なのである。「遺憾の意を表明する」「更迭する」のようないわゆる「オトナ語」は使わず、「とても残念ですと言いました」のような子どもにもわかる話しかたでニュースを伝えてくれるのだ。

そういうざっくばらんな口語でニュースを聴くと「あ、そういうことだったのか」と思うことがある。本質が理解できたような気になるのだ。その感覚がおもしろい。

おとな用の語彙を使ったおとな向けのニュースは、なんとなくわかったような気にはなるけれども、実は難解な語彙で本質をごまかされているのかもという気がする。
フリーランスで翻訳の仕事を始めたころ、up to six devices というような表現を「6 台までの装置」というように訳していた。これはもちろん間違いではないが技術文書としてはあまりなじまない表現で、「最大 6 台の装置」と訳したほうが技術文書らしくなるようである。

逆は、たとえば、at least three devices。うっかりすると「少なくとも 3 台の装置」となんとなく訳してしまうのだが、「3 台以上の装置」のほうが技術文書らしいのではないかと思う。

こういった訳は辞書にはあまり載っていないが、ちょっと考えれば、だれにでもわかることではある。しかし、意識して考えていないとうっかり定訳をあてはめるだけになってしまうことがある。
前回、 『表現のための実践ロイヤル英文法』という本に付録でついている『英作文のための暗記用例文300』という小冊子の When did you see him last? という英文のことを書いた。

この本のことは前に別のブログでも紹介したことがあって、そのブログは閉じてしまったので改めてこちらに書いたわけだが、前のブログに書いたときに
「推理ドラマでは When did you last see him alive? という。名のあるひとたちの本だからといって鵜呑みにしてはいけない」
という主旨のコメントをいただいた。つまり、last の位置が正しくないのではないかというご指摘である。なるほどそうなのかなと思ったが、When did you see him last? というような表現もこれまで目にしたり耳にしたりしたことがあるし、妙な英文という感じはしない。

もっとも、自然な英文かどうかを肌でわかるような感覚はわたしにはない。ただ、思うのは、この last は副詞なのでよほど奇抜な位置に置かないかぎり通じないということはないだろうということだ。極端にいえば、When last did you see him? でも通じるのではないだろうか。

ご指摘の When did you last see him alive? という文は、see him alive という部分が意味の上でひとまとまりになっていて、1 語の last という副詞をその後につけてしまうと see を修飾する副詞というよりも see him alive last という別の成句のように聞こえてしまって妙な感じがするのではないか、だから last を前に置いているのではないかと想像する。

「名のあるひとたちの本だからといって鵜呑みにしてはいけない」というご指摘は本当にそのとおりだと思う。この本に関しては、綿貫陽、マーク・ピーターセンの両氏のことを深く存じ上げているわけではなく、この著者の書いていることだから間違いないだろうと思ったわけではない。しかし、一般論として、著者の権威に盲従しないほうがよいというのは大賛成だ。

関連記事:
表現のための実践ロイヤル英文法


表現のための実践ロイヤル英文法
ISBN:4010312971 綿貫陽 マーク・ピーターセン 旺文社 2006/05 ¥1,890

子守男さんの紹介記事
で知って購入した。ぱらぱらとめくって読んでみるとおもしろい。ところどころに入っているマーク・ピーターセンさんの囲み記事は『日本人の英語』のようで、いくらでも先を読みたくなってしまう。

この本には『英作文のための暗記用例文300』という小冊子が付属している。これがまた楽しい。たとえば、次のような例文がある。

最後に君が彼にあったのはいつですか。


わたしはこれを頭の中で次のように訳した。

When was the last time you saw him?

この訳は英語として必ずしも間違いではないと思うが、模範訳は次のとおりだった。

When did you see him last?

なるほど、そうか。簡明だ。

この付録には、このような、日本語特有の表現や考えかたに引きずられがちな日本文とその模範訳が 300 も掲載されていて勉強になる。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
一昨日の夜は 5 時間ほどしか眠れなかった。ここ数日なんだか眠りが浅くて、日中、イライラするような、どうにもさえない気分だった。

明日納品しなければならない仕事がある。こりゃよく眠らないと仕事に差し支えるぞと思い、昨夜は睡眠導入剤(ロヒプノール)を飲むことにした。まず、半錠(0.5mg)を飲んでみたがまるで眠れない。そこで 30 分後にさらに半錠を追加で飲んだ。それでも眠れないので 30 分後にまた半錠飲んだ。合計 1.5 mg を飲んだことになる。

そうこうしているうちに眠っていて気がついたら朝になっていた。睡眠不足で頭がすっきりしない、という感じはしなくなったのだが、今度は、なんとなく、ゆったり、ぼんやりした気分になってしまった。それはそれで仕事に差し支えるかもしれない。

世界観なんてカゼを引いても変わるというが、人間の気分もこんな小さな錠剤だけで変わる。


進化しすぎた脳 中高生と語る「大脳生理学」の最前線
池谷裕二 講談社 2007年01月 ISBN/JAN:9784062575386 1,000円

講義の形式、いや、高校生に対して実際に行った講義をまとめた本。とても読みやすくてわかりやすく書かれている。でも、内容は幼稚ではない。考えようによってはかなりむずかしいし、衝撃的な内容でもある。心とはなにか、意思とは何か、感情とは何か、世界とは何か、といったことについて考えさせられる。

養老先生の「唯脳論」もそうなのだが、この本も、一見「脳」に関する本であるかのように見えて実は「身体」に関する本だと思う。「中枢は末梢の奴隷(改題「ネコのヒゲは脳である」)」という本があったが、身体はあらゆる意味で脳を規定している。

たとえば、次のようなことが書かれている。

まず世界がそこにあって、それを見るために目を発達させた、というふうに世の中の多くのひとは思っているけど。ほんとはまったく逆で、生物に目という臓器ができて、(中略)はじめて世界が生まれたんじゃないか。
(p.129より)


これはたぶん「唯脳論」に書かれていたことだと思うが、ニュートン以来、わたしたちは慣性の法則をことばで理解しているけれど、身体はそのずっと前から慣性の法則を理解していた。そうでなければ、きちんと歩いたり立ち止まったりできるわけがない。身体がとっくに知っていたことを大脳がことばに置き換えたのが慣性の法則というわけだ。

また、数学でいう点とか直線とかいう概念は脳が光情報を処理するしかけからできたものだ。面積のない「点」とか太さのない「直線」なんてものは自然界に存在するわけがない。つまり、幾何学とは目と脳の機能を記述したものだともいえる。

この本の著者も書いているが、もしわたしたちが魚の目やカエルの目(ほとんど動くものしか見えない)をもっていたら、まったく違う幾何学や物理学が、つまり世界が、できていたと考えられる。

また、ラマチャンドラン医師の「脳のなかの幽霊」によれば、失った腕に痛みを感じるという「幻視」の患者さんはその腕に対応する脳内地図が残っていて視覚からのフィードバックがないからいろいろとわるさをする。だからあたかも腕があるかのような情報を視覚で補ってやることで多くの場合は治癒するそうだ。このことも、脳がいかに強く身体から制御されているか、末梢から逃れられないかを表しているといえると思う。

このほかにも、「人間は脳の解釈から逃れられない」「人間は言葉の奴隷」「記憶の『あいまいさ』はどこから生まれる」など哲学にも通じそうなおもしろい考えかたがたくさん紹介されている。もともとそう思っているひとでもおもしろいと思うし、そういう考えかたをしたことのないひとには目からウロコの内容かもしれない。
テレビを見ていたら、東京のデパートかどこかで石焼きイモが量り売りされていて 1 本が 1000 円ほどもするということが紹介されていた。お店のかたは
「みなさんスイーツ感覚で買って行かれるようです」
といっていた。

「スイーツ」という語は最近よく聞くが、左党のわたしには縁のないことばで、甘くておやつになれば何でもスイーツでよいのかと思っていた。だから、そのお店のかたの話を聞いて、へえ、石焼きイモはスイーツじゃないのかとちょっとふしぎに思った。

連れ合いに聞いてみると「スイーツ」とは基本的に洋菓子のことで、広義には和菓子を入れることもあるという。水菓子はどうかと聞いたら、水菓子はスイーツとはいわない、とのことだった。

英語で sweets というのは砂糖菓子のことではなかったかなと記憶もあいまいだったので、辞書で確認してみた。ランダムハウス英語辞典には sweet の項に次のように書かれている。

【1】甘味,甘さ(sweetness);《古》甘い香り,芳香;美音,快い音.
【2】甘いもの; sweets《古》甘い香りのするもの;快い音[美音]の出るもの.
【3】sweets《話》サツマイモの甘露煮.
【4】sweets《主に米》砂糖がたくさん入っているパイ,ケーキ,キャンデー,砂糖菓子など.
【5】《主に英》
(1)《通例 sweets》キャンデー,砂糖菓子(sweetmeat), ボンボン(bonbon).
(2)俗(プディングやタルト(tart)などの)デザート.


研究社リーダーズ英和辞典では、次のとおり。

1 甘味, 甘さ; 甘いもの; 砂糖菓子《キャンディー・ボンボンの類》; _甘味, 甘いもの, デザート《食後のプディング・アイスクリーム・ゼリーなど》; _→HARD CANDY; 《口》 (砂糖をかぶせた)サツマイモ; [Upl] 《俗》 薬(やく), アンフェタミン錠.


なんと、「サツマイモの甘露煮」や「(砂糖をかぶせた)サツマイモ」といった意味もあるではないか。それなら、日本では、甘い石焼きイモのことをスイーツと呼んでもよいような気がする。

追記:
ついでに、Collins COBUILD English Dictionary では次のとおり。

2 sweet sweets [N-COUNT]
Sweets are small sweet things such as toffees, chocolates, and mints. (BRIT; in AM use candy)
3 sweet sweets [N-VAR]
A sweet is something sweet, such as fruit or a pudding, that you eat at the end of a meal, especially in a restaurant. (BRIT; in AM use dessert) 
・ The sweet was a mousse flavoured with whisky.
= dessert

やはり英米で使われかたが違うらしい。この 3 の意味なら、水菓子のことをスイーツ(sweet)と言ってもよさそうだ。
細胞を媒介にして増える物質である virus は日本語で「ウイルス」と書かれるが、わたしが子どものころの本では「ビールス」と書かれているのがふつうだった。「ウイルス」はラテン語式の発音で、「ビールス」はドイツ語式の発音だそうだ。「ウィルス」と「ィ」を小さく表記することもあるが、それだとどのように発音するのだろう。ブルース=ウィリスのような発音になるのだろうか。

英語の virus は、「バイアラス」に近い発音である。むかし、会社員として海外に駐在していたとき、日本から来る出張者の多くがこの単語を聴き取れないことに気がついた。「ワイヤレス(wireless)」と聴き間違えるひとが多かった。たしかに、日本語の「ウイルス」と「バイアラス」ではあまりに発音が違うので知らないと聴き取りにくいだろうと思う。

これと似たような発音のしかたをする単語はたくさんあるだろうが、すぐに思いつくのは、cafeteria(カフェテアリア)とか serious(シアリアス)などだ。mysterious(ミステアリアス)もそうだ。このような発音をする単語はスペルに何か共通性がありそうに見えるが、はっきりとはわからない。ご存じのかたがいらっしゃったらご教示いただきたい。

追記:
mamarimama さんに、「ア」の入る発音は英国式であると教わった。mamarimama さん、どうもありがとうございます。
英国式、米国式の発音を音声ファイルでご紹介しようと思うが、初めての試みなのでうまくいくかどうかわからない。テストとして続きの領域に貼り付けてみる。
テレビを見ていて Myanmar を「ミヤンマ(ー)」と発音するひとがいるのに気がついた。

新聞などでは「ミャンマー」と表記されている。「朝日新聞の用語の手引き」を調べても「ミャンマー」と表記することになっているようだ。

ビルマ語の発音はわからないので、英語の Myanmar の発音記号を辞書で見てみたが、やはり、「ミャンマー」に近い発音のように思われる。しかし、TextAloud という英語読み上げ用ソフトウェアに読み上げさせると、なぜか「マヤンマ(ー)」とわたしには聞こえる。ニュースに出てくるライス米国務長官などは Burma と言っているので参考にならない。

「ミャン」と発音する日本語はたぶん「ミャンマー」だけだろう。だからその「ミャン」という発音に慣れていなくて「ミヤンマー」と発音するひともいるということではないだろうか。

「ミャ」という発音自体も日本語には少ないかなと思ったが「脈」という語があった。それに中京には「どえりゃあうみゃあでかんわ」という方言もある。やはり、「ミャ」のあとに「ン」が付く場合だけ発音しにくいのだろう。

追記:
発音だけでなく「ミヤンマー」という表記もネット上にはたくさんあるようだ。
同じページ内でミヤンマーとミャンマーが混在しているサイトさえある。
きっと、多くの日本語ネイティブはミヤンマーとミャンマーはほぼ同じで、区別する必要がないと考えているのだと思う。
おやじ、おじさん。いつのころからか、自分で自分のことをそういっている。

以前、おもしろいと思ったのは、ある若いひとと話していて、こちらが自分を「おやじ」といったときのことだ。

まだ若いですよ
おやじじゃないですよ

といったことをしきりにいうのだ。はあ、あんたは「おやじ」がそんなに悪いことだと思っているのかとあきれた。

わたしが「おやじ」と自称することが自虐的なことであると決めつけている。「おやじ」とは彼にとってそれほどまでに忌むべき、絶対になりたくない状態なのだろう。

「おやじ」であることが「若者」であることよりもよいとはいわないが、「若者」であることよりも悪いことだとも思わない。若者には若者のよいところと悪いところがあるし、おやじにはおやじのよいところと悪いところがある。

わたしにとって「おやじ」であることは恥ずかしいことでもなんでもない。現実におやじなのだ。よいとか悪いとかいうことではなく、男であればだれでもそのうち「おやじ」になる。

しかし、そういう若者にそんなことを諄々と説明しても、たぶんわかってもらえないのだろう。

水戸黄門のドラマを見ていると「この年寄りに話してくれませんかな」という台詞をよく聞く。わたしはこの台詞が好きだ。

今後、死なずに年寄りになることができたら、ぜひ「この年寄りに…」と言ってみたいと思っている。
偏見の構造―日本人の人種観
ISBN:414001055X 我妻 洋 米山 俊直 日本放送出版協会 1967/01 ¥788

この本の奥付けに「昭和 42 年第一刷発行」とある。西暦でいうと 1967 年で、キング牧師が暗殺された年の前年にあたる。

日本人の伝統的な美貌観と江戸時代や明治時代から現代にいたるまでの異人観の歴史、日本在住や海外在住のさまざまな日本人に対する聞き取り調査に基づく日本人の白人観や黒人観、さらに、人種とは何か、人種的偏見の心理、偏見の構造といったことが詳細に論じられている。

著者の我妻洋さんの略歴を見ると心理学の先生だそうで、そのせいか、偏見をもつ心理についての考察は精神分析的な理論に基づいているようだ。

我妻さんによれば、

偏見という心理は、敵意や怒りの抑圧 → 転位 → 投射 → 合理化という過程を経て形成される。
偏見の強い人は、親とか、政治的指導者とか、宗教的指導者とか、何らかの権威的存在を崇拝し、精神的に依存する傾向が強く、自分の周囲や世界には、正体のしれぬ、悪意に満ちた危険なことだという不安を持っている。

のだそうだ。

さらに、我妻さんは、こういう偏見を避けるためには

自分の中に攻撃衝動を認めることを恐れず、その緊張に堪え、昇華しうるだけの健全で強靱な自我をもたなければならない

という。

学問的にはそういうことなのかもしれないが、これこそ、言うは易く行うは難し、の典型ではあるまいか。「偏見の強い人は、親とか、政治的指導者とか、宗教的指導者とか、何らかの権威的存在を崇拝し、精神的に依存する傾向が強い」といわれても、イスラム教なりキリスト教なりを信じている人は世界中にたくさんいるわけで、宗教を否定するわけにはいかないだろう。

また、わたしを含めて、たいていの人の心はそんなに強いものではないと思う。否定的なことを他人のせいにしたくなったり、自分を楽にするためにだれかを軽蔑したりすることは、よいことではないが凡人には避けがたいことだし、いかにも人間らしいことだ。

社会はそういった多数の心の弱い人によって構成されているということを前提にして、それでも偏見や差別をなくしていくことはできるか、具体的には何ができるのかを考えなければ、机上の空論になってしまうように思う。

それでも、日本人の美貌観や異人観の歴史的変遷については、なかなかおもしろいことが書いてある。興味と機会があれば読んでみても損はないと思う。

なお、絶版なので書店では購入できない。たんご屋は古本屋で入手した。

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