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昨日のことだが、現在行われている第 20 期竜王戦のテレビ中継を見たら、アナウンサが
「(先手は)この 59 角を打つのに 1 時間以上考えていましたが…」
といっていた。

その局面までの進行を知らなかったわたしは、59 角と打ったのか、とおどろいた。盤面を見るかぎりとてもそうとは思えなかったからだ。少し後になって、アナウンサが単に「指す」と「打つ」を間違えたということがわかった。将棋では、ある手を「指す」ことと「打つ」ことでは意味が違う。

わたしは将棋が趣味なので「指す」といういいかたを当たり前のものとして使ってきた。なぜ将棋は「指す」というのか考えたことがなかった。いま考えてみると、囲碁では盤面に石を置いて(打ちつけて)いくのに対し、将棋はあらかじめ盤上に置いてある駒を滑らすように移動させるから「指す」なのだろう。

むかしの将棋は、いまのかたちのものも、中将棋、大将棋などといわれる古風な将棋でも、駒がいったん盤上からなくなればそれを再利用することのないルール(取り捨て)だったという。ちなみに、日本将棋以外の世界の将棋(チェス、中国象棋など)はすべて「取り捨て」ルールである。それであれば、駒は、いってみれば双六のように、盤面を移動して使用されるだけである。だから、「前に移動させる」という「指す」を使ったのだと思う。

いまの将棋には「持ち駒」というルールがあり、相手の駒を自分側の駒として、囲碁の石と同じように、盤外から持ってきて「打ちつける」ことがある。実は、この場合は将棋でも「打つ」という。つまり、「59 角と指す」は「盤上の他の位置から 59 の位置に角を移動する」という意味で、「59 角と打つ」は「盤外から持ち駒の角を 59 の位置に打ちつける」という意味になる。だから、将棋では「打つ」と区別するために「指す」ということばがどうしても必要になっている。

「そうか、将棋で『指す』ということばをいまでも使っている理由はこれだったのか」と気がついた。長年将棋を指していて、これまで気がつかなかったとはわれながら間抜けだ。


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碁将棋の日本語
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「松葉ガニ」は山陰から北近畿にかけてのいいかたで、北陸では越前ガニ、一般にはズワイガニという。

新潟の方言では「タラバガニ」というそうだ。ゴツゴツして足の少ない、あのタラバガニのことではない。いわゆるズワイガニのことをタラバガニというらしい。ややこしい。やや小型のメスガニはオヤガニ、セイコガニ、コッペガニなどといわれる。それもとてもおいしい。

英語では、ズワイガニを queen crab、タラバガニを king crab と覚えていた。

ところが辞書で調べてみると、ズワイガニは snow crab、tanner crab といういいかたのほうがふつうのようである。tanner は「革なめし工」ということだが、なぜそういうのかわからない。

タラバガニのほうは、Alaskan crab のほうがふつうらしい。日本語のタラバガニのタラバは鱈の漁場のことだから、日英ともに「場所」が名前の由来になっている。

ついでに他のカニの英名についても調べてみた。

ワタリガニ(ガザミ)
swimming crab。アメリカ東海岸のものは blue crab。

ケガニ
horse crab、horsehair crab、bristly crab。

カブトガニ
horseshoe crab(horseshoe は「馬蹄」)。

シオマネキ
fiddler crab(fiddler は「バイオリン弾き」)。または calling crab。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
ぐうたらぅさんがこのようなテーマでブログを書かれていたので、思ったことを書いてみる。

そう聞かれたら、どう答えるか。うーん、まあ、できると言い切ってみよう。

展示会の通訳ならなんとかできるだろう。海外で困ったときに英語で助けを求めたこともあるし日本で困っている外国人に英語で対応したあげたこともある。だいいち、海外で英語ばかり使って仕事をしていたこともある。それなら、できるといえないとおかしい。

しかし、日本で「英会話ができる」と堂々というには英語母語話者に近い水準でなければならないという空気がある。そういう水準に照らせば、わたしなど「英語のできないひと」に入る。

だが、日本人の親に日本語で育てられた 3 歳の子どもに対して「この子はまだ日本語ができない」と思うひとはいるだろうか。たとえ間違いだらけでも、たどたどしくても、むずかしいことは理解できなくても、「この子は日本語を話している」と思うのがふつうだろう。

それなら英語だって同じで、日常生活で相手のいっていることがだいたいわかって、自分の言いたいことをなんとか表現できるのであれば、それで「英会話ができている」といってもよいと思う。

わたしは学術論文を書けない。学識もないが、学術論文を書くための専門的な日本語を知らない。同じ意味で、特許明細書も、契約書も、小説も書けない。だからといって、わたしは自分が「日本語ができない」とは思っていない。

つまり、母語でも外国語でも、仕事や趣味で言語を扱っているのでもないかぎり、その状況で必要なだけの水準で意思疎通できれば、その言語ができるといってもよいのだと思う。
日本語学習者の ゆ さんは、フィギュアスケートの試合で選手が思いがけない失敗をしたときに解説者が「もったいない」というのがふしぎだという。日本語ネイティブとしてはこういう「もったいない」の使いかたを変とは思わないが日本語ノンネイティブにはわかりにくい場合があるというのは、意外でおもしろい。

フィギュアスケートの演技でいえば、ある選手が不注意や緊張によって実力どおりの演技をできない場合に「実力が十分に発揮されていなくて残念」と感じるわけで、それが「もったいない」という気持ちになるのだと思う。

この感情は、日本語ネイティブとしては、大根の葉を捨てること、才能や時間を無駄にすることを「もったいない」と感じるのとあまり変わらない。しかし、日本語ノンネイティブの ゆ さんにとってそれらは別のことで、同じことばで表現できるとは信じられないということなのだろう。

「MOTTAINAI」運動のワンガリ・マータイさんは、他の言語で「もったいない」に該当するような言葉を探したが他に見つからなかったとおっしゃっているが、本当かなと少し疑問に思っていた。しかし、ゆ さんのように感じるひとがいらっしゃるのだから、「もったいない」と思う気持ちというのはやはり日本独特なのかなあと思った。
2 週間ぐらい前にパソコンを修理に出し、無事に修理されて返ってきた。

ところが、なぜかいまごろになって、その修理センターからファックスが送られてきた。その内容は「修理済みの製品を本日発送した」とのことだった。修理済みの製品はとっくのむかしに受け取っている。そのファックスが何かの間違いであることは確実だった。ほうっておいてもかまわないわけだが、わたしはけっこうやさしい性格なので連絡してあげることにした。

修理センターには一般電話番号しか書かれていなかったので通話料無料の顧客相談窓口にかけた。いきさつを説明すると、電話に出たかたは
そんなことがありましたか。確認しますのでお待ちください
という。そこで
待てないので切ります。もし何かわかったら電話してください
と言って電話を切った。

10 分ぐらいして電話がかかってきた。そして
こちらの窓口ではよくわかりません。修理センターにフリーダイアルがありますので、そちらにおかけください
という。

ここで、わたしは切れた。
なんでまた別のところに電話して同じことを繰り返して説明しなきゃならんの。
間違いファックスに連絡する義務なんてないのに、わざわざ電話してあげたのは親切心からなんですよ。御社が他の顧客に送るはずの連絡を間違えてわたしに送ったのかもしれない、そうだったら御社もお困りになるだろうから、間違ってうちに届いていますよ、とわざわざ連絡してあげたのじゃないですか。
修理センターの連絡先がわかっているのなら、ご自分で電話したらいいじゃないの


わたしの言っていることはむちゃくちゃだと思われるだろうか。自分としては筋が通っていると思っているのだが。

まあ、その会社はパソコンの売り上げで一、二を争う有名なメーカーである。企業も大きくなるとこういうふうに「官僚的」な対応になるのだなあと妙に納得している。
コンピュータの苦手なひとは「わたしはアナログ人間なので」と自虐なのか自慢なのかよくわからないことをいったりする。

世の中いろいろなひとがいるのに「アナログ人間」「デジタル人間」などと人間を二分するのがまさに「デジタル」的発想ではないのかと思う。

あるサイトに「デジタル人間とはデジタル機器を使用するひと」と書いてあった。わたしは元システム エンジニアなので「デジタル人間」かと思っていたが、その定義なら明らかに「アナログ人間」である。デジタルカメラも iPod も持っていない。ゲーム機はずっと前にスーパーファミコンで将棋ゲームをしていたのが最後で、それ以降は持ってもいないしやったこともない。携帯用電子辞書でさえ持っていない。

デジタル機器を持っていないのは別にデジタル機器がきらいということではなく単純に経済的理由である。そういった製品を購入するだけの財力がない。すると、「デジタル人間」か「アナログ人間」かはお金があるかないかで決まることになる。これこそ「デジタルディバイド」なのか。

別のサイトでは、「デジタル人間とは何事も白黒ハッキリ決めたがるひと」とある。うーん、囲碁棋士とか裁判官がそうなのだろうか。まあ、上に書いたとおり、こういうふうに他人を簡単に類型化できると思っているひとがデジタル人間のような気もする。
THE GOLD という雑誌に食事に関することを将棋の羽生善治さんにインタビューした記事が載っていた。「将棋に強くなる食べものはあるのでしょうか」という質問に次のように答えていた。

「好き嫌いせず、何でも残さず食べることですね」
「食べものに限らず、苦手なものは極力つくらないほうがいいと思うんですよ。将棋はイヤな人ともずっと対戦して行かなきゃいけないわけですから。私、この人と対戦したくないというのはほとんどない。そう感じてしまったら、すごくつらいと思いますよ」


これとほとんど同じことを、大山十五世名人が次代を担う谷川九段に教えた、と何かで読んだことがある。大山名人、羽生二冠という将棋界の新旧の第一人者が同じことをいっているのは興味深い。将棋界の帝王学なのかもしれない。

この考えは自分の仕事にも当てはまるだろうか。

最近、TRADOS という翻訳支援ソフトウェアを「使いにくい、使いにくい」とぼやきながら仕事をしていた。だから、強引に結びつければ、ツールや文書の種類に好き嫌いをいうようではいけないということになるかもしれない。ちょっと牽強付会に過ぎるか。
むかし、米国で sorry というと自分の責任を認めたことになるので米国人はめったに sorry とはいわない、という話がいろいろな本に書いてあった。それは本当なのだろうか。

米国のあるソフトウェアのアップグレード版をネットで注文した。そうしたら
お前が前のバージョンを購入した記録はない
というような返事が返ってきた。もちろん、原文は英語であって、わたしがかってにこのようなぞんざいな日本語に訳したのだが、はっきりいってそういうぞんざいな感じを受ける文面だった。

そこで、前のバージョンを購入したときの記録をつけて再度メールを送った。そうしたら
お前が前のバージョンを持っていることはわかった。新しいバージョンを売ってもよい
という主旨のメールが返ってきた。

米国の顧客対応は、これがふつうなのだろうか。顔も知らないひとと必要以上にもめたくはなかったのでそのままですませたが、せめて、「こちらの勘違いだった、すまなかった」ぐらいの返信はできないものか。

旅行で米国に行ったときも、ホテルや店舗の対応は非常に悪かった。「はいはい、有色人種で悪かったね」と言いたくなるような対応をされた。

もちろん、ごく一部の地域にほんの短期間滞在しただけだから、米国社会を語る資格などないことはわかっている。しかし、日本なら、たとえ短期間であっても、どこの店舗やホテルであっても、そのような不愉快な思いを客にさせることはめったにないだろうと思う。やはり、冒頭で書いたような、自分の非を認めたがらないという文化があるのかと思いたくなってしまう。
何年か前に「saw」という映画が話題になっていたようでいつか見てみたいと思っていたが、やっと先週見ることができた。しっかり見ずに途中トイレに行ったりしながら見たのが悪かったのか、やや期待はずれだった。もちろん、あるていどは楽しむことはできたのだが。

以前はホラー映画の残酷なシーンがそれほど苦痛ではなかったのだが最近はどうも抵抗がある。この映画でも一部のシーンは正視することができなかった。中年になってようやく人間らしい感覚ができてきたのだろうか。

それと、個人的な好みをいえば、こういう密室でのサスペンス劇は密室内だけで完結させてほしい。これも当時話題になった「CUBE」という映画は話のすべてを密室の中だけで進行させているところがよかった。わたしは密室劇のようなものが好きなようで、ヒッチコックの「救命艇」「ロープ」も同じ意味で好みの映画である。「裏窓」にも似たような要素があるが、必ずしも室内で完結していないところがやや気に入らない。

密室での心理劇といえば「十二人の怒れる男」をペーパーバックで読んでとてもよくできたおもしろい話だと思っているのだが、映画はジャック・レモンの出ているリメイク版しか見たことがなかった。ヘンリ-・フォンダの出ているオリジナル版の「十二人の怒れる男」を最近放送していたので録画した。そのうち見るつもりでいる。楽しみだ。
the following … とか as follows のような表現を、「次の(とおり)」と訳すか「以下の(とおり)」と訳すかは悩ましい。

技術文書では意味を1つに限定することが重要なので、英文ライティングでは fix とか set のような多義語はできるだけ使わないようにと習った。同様に、as、since、because のどれでもよければ because を使うべきだろうし、分詞構文も意味があいまいになるので避けたほうがよいと思われる。実際、英日翻訳をやっていると as 節や分詞構文の意味の判断がむずかしいことがある。

「以下」は「同じか少ない(小さい)」という意味もある。その「以下」も技術文書では頻出するだろう。だとすれば「以下」はその意味に限定して使用すべきだという考えかたはありうると思う。

わたしは基本的にはそう考えているので、「以下の」よりも「次の」を使うほうが好きだ。しかし、資料として渡された過去訳が「以下の」になっている場合は「以下の」に統一する。上のような理屈よりも文書全体での統一のほうが重要である。

どうでもよいじゃないかと思われそうだが、実務翻訳はこういうことを気にする仕事である。
NHK スペシャルで「ビューティー☆ウォーズ」というのを見た。日本人が年間で化粧品に遣う金額は CD、DVD に遣う金額の 2.5 倍だという。そういう「世界一化粧品にお金を遣う日本女性の美肌熱」についてのドキュメンタリだ。

登場するおおぜいの女性は、老も若いもみな、美肌と若返りに異常な執着を示していた。化粧品会社などの企業のひとたちは、いくらでもお金の沸いてくる優良な市場として冷静にコメントしていた。しかし、何ら利害関係のないわたしは、なんとも、不気味、奇怪、グロテスクな執着を見させられたと思った。いっしょに見ていた妻も同じ感想をもったようだ。

もちろん、老いて機能の衰えたからだよりも若くてよく機能するからだのほうがよいというのは人情だ。老化したざらざら肌よりも若者のすべすべ肌のほうがよいと思うのもわからなくもない。しかし、人間はだれでも生まれて老いて病んで死んでいくのであって、老化ということをやみくもに忌み嫌うのは自分自身を忌み嫌うのと同じことだと思う。

だいいち、肌の状態だって、そのひとの人生を反映しているものだと思う。何かを記憶するのは脳だけではない。わたしの腕には、若いころクラゲに刺されたときの跡がいまだに残っている。これは、わたしがわたしである証拠、アイデンティティである。お百姓さんや漁師の日焼けした顔や固くてごつい手は、よくも悪くもそのひとの人生を反映している。そういったものを変えようというのは自分の人生、アイデンティティを否定することにはつながらないだろうか。

わたしは頭が禿げているが、かつらをつけたり養毛剤を使ったりしようと思ったこともない。頭が禿げるのは葉っぱが紅葉して落ちるのと同じ自然現象の 1 つであり、禿げているわたしは、そのままでわたしである。

別のドキュメンタリ番組で、日本を脱出してタイのチェンマイで後半生を過ごしている日本人の話も最近見た。ある男性は、日本にいたときは意思疎通に不自由はないのに疎外感を感じていたが、タイではことばは通じないのに心が通じていること感じるという。別の老夫婦は、日本にいたときは若いひとから汚いものをみるかのように扱われていたが、タイのひとたちは自分たちと自然に接してくれる、といっていた。ドキッとした。

日本人は、老いというものを忌み嫌い、自分の中から老いの要素を徹底排除しようとしすぎているのではないか。老いとはだれか赤の他人の属性であって自分には属さないものだと思いたいがために、現在老いているひとを忌み嫌って邪険に接するようになってしまっているのではないだろうかと思った。


追記:
この番組は NHK BS でやっていた再放送で最近見たのだが、本放送は 9 月ごろだったようだ。なんとも古い話題で申しわけない。
カスタマイズ(customize)は、カスタム カー(custom car)やカスタム シューズ(custom shoes)などの「注文の」という形容詞を動詞にしたものらしい。

コンピュータの世界では「カストマイズ」ということもある。customize の発音はカスタマイズのほうが近いと思うが、エンビロンメント(environment)とかプロセデュア(procedure)など、コンピュータ関連のカタカナ語はローマ字読みに近い読みかたにすることがけっこうあるようだ。むかし、わたしの同僚には add を「アドド」と読んでいたひともいた。スペルを間違えないようにという意図もあったのだろう。

いまでは画面の色とかちょっとした操作性などをユーザがパラメータで指定することをカスタマイズというけれど、ふた昔ぐらい前には、コンピュータ システムをまるごと受注生産することを意味していたような気がする。当時はカスタマイズというカタカナ語はあまり世間で使われていなかったので、テーラーメイド(tailor made)と言い換えてわたしは他業種のひとに説明していた記憶がある。その逆に、出来合いのソフトウェアはパッケージ(package)と呼んでいた。

テーラーメイドの tailor は仕立屋という意味でもあり、日本語の「あつらえる(誂える)」ということばと似ている。日本語の「あつらえる(誂える)」も服や靴などに使うことが多いと思う。テーラーメイドの逆はレディメイド(ready-made)。薬なら出来合いの市販薬は OTC(over-the-counter)だ。

そういえば、オーダーメイドというカタカナ語もあるが、これは和製英語で、正しい英語は、やはり、「custom-made ; made-to-order ; tailor-made」(英辞郎)だそうだ。
「○○さんのことが好き」と「○○さんが好き」はどう違うか、ということを ゆ さんがブログに書いていらっしゃった。

ちょっと考えてみたが、「のことが好き」は、ひととなり、言動、性格、生きかた、考えかたといった、そのひとの属性全体を好きということではないかと思った。

「息子のことが心配である」という場合も、進学、就職、健康、経済状況、異性関係など、息子さんにまつわるざまざまなことを心配しているように感じる。

それに対して、「が好き」は「オリエンタルラジオが好き」「お酒が好き」のように暫定的であったり、強い感情があまりともなわなかったりする場合で、より客観的な表現のように思われる。


これとちょっと似ているかもしれないと思うのは、英語の believe in someone と believe someone の関係である。

believe は「何某のいうことを信じる」という意味で、believe in は「何某を信頼する」という意味だ、とものの本によく書いてあるのだ。したがって

Hatoyama did not believe Owaza, but believed in him.
鳩山は小沢の言うことを真に受けていなかったが、彼のことを信じていた。

という文も成立すると思う。
わたしは少し活字中毒のところがあって、電車で移動したり喫茶店で時間をつぶしたりするときに、何か読むものがないと落ち着かない。以前、何かのときに読むものがなくて、コンビニエンスストアで売られていた文庫本で日本語についての雑学本を買った。

ところが、その本は内容に間違いが多く、あまりひどいので捨ててしまった。いま思えば、取っておけばブログの種になったのにとちょっと残念に思う。

たとえば、「間違って使われているカタカナ英語」というような項があって、「サラブレッド」は間違いで、「スルーブレッド」が正しいと書いてあった。これは、原稿を書いたひとがサラブレッドの綴りを through(スルー) + bred(ブレッド)、つまり throughbred と勘違いしていたに違いない。

サラブレッドの正しい綴りは thoroughbred だ。thorough(サラ/サーロウ)は「完全な」「徹底した」という意味だし、bred(ブレッド)は「育てる」「育種する」という意味の breed の過去分詞形で、そのまま thoroughly bred と考えても意味が通じる。through bred では意味が通じない。

著者は有名な人だったが本当に本人が書いた本なのかどうかはわからない。ああいう本だから、著者の先生は名前だけ貸して匿名のライターが書いたという可能性は高いのだろう。まあ、だれにでも勘違いはある。原稿を書いたひとが勘違いしていたのはしかたない。しかし、編集者は辞書ぐらい確認しておけよと思った。
スポーツにはほとんど興味がないが、フィギュアスケートの中継番組は妻が好きでよく見るので付き合って見ているうちにおもしろいと思うようになった。ロシアのスルツカヤ選手や先日カナダ大会で準優勝した中野友加里選手がお気に入りである。

最初のころ、実況アナウンサが「スロージャンプ」と繰り返しいうのを聞いて、はあ、slow jump か。ゆっくり飛ぶなんてことができるなんてすごいなあと思っていた。

それからしばらくして、「スロージャンプ」は throw jump のことだとわかった。ペアの競技で男性が女性を放り投げるジャンプのことである。

s と th、l と r というのは日本人にとって聞き分けがむずかしいとされている発音で、slow も throw もカタカナにすると「スロー」になる。それにしても、これほど紛らわしい使われかたもめずらしいのではないか。まあ、戦時中じゃないのだから「投擲跳躍」というわけにもいかないけれど。


追記:
英語では throwing jump ともいうようなので、「スローイング ジャンプ」のほうが誤解が少なくなるかもしれない。
古い VHS ビデオテープを整理していたら「3か月英会話」などの NHK 語学講座を録画したものが出てきた。懐かしいので捨てる前にもう一度見てみることにした。これだから本やビデオの整理なんて作業はいつまでたっても終わらない。

全体にまじめに進行しているのに講師とアシスタントが指圧のマネをしながら突然「ニュースのツボ」と叫ぶのが可笑しい『ニュースで学ぶ』。あの講師の先生がお茶目なひとでそういう演出をしたいとスタッフにお願いしたのだろうなと当時は想像していた。いまでもそう思っている。

米国を舞台にして父と娘が小芝居をする『旅のトラブル'97』。英語ネイティブ役のひとが、そんなにゆっくりと話してくれないよと驚くくらい間をとって話してくれる。英語ネイティブとの会話の合間に、親と娘が日本語でゆっくりと「あれはどういう意味だっけ」などと会話しているのだから。

勉強をしようとかまえて見ていたわけではない。テキストを買ったこともないしメモを取ったり単語帳を作ったりしたこともない。ただおもしろいから見ていた。それでも、10 年くらい経ったいま見てみると当時よりも簡単だと感じる。漫然と見ていただけだが、それなりに効果はあったのかもしれない。
アルバトロス(albatross)とは「アホウドリ」のことだがゴルフ用語でもあるらしい。わたしはゴルフをやったことがないしゴルフの試合を見る趣味もないので、まったく知らなかった。

そういえば、バーディーとかイーグルというゴルフ用語は聞いたことがある。なぜ鳥に関する名前を使っているのだろう。

アルバトロスといえば、プロレスの「キラー・カーン」選手こと、小沢正志選手をわたしは想い出す。コーナーポスト最上段から色白の巨体で舞い降りるニードロップは「アルバトロス殺法」といわれた(正確には実況アナウンサの古舘伊知郎さんがそう呼んでいた)。

たぶん岩田一男さんの本だったと思うが、albatross の alb は、白を意味するラテン語から来ているというのをむかし読んだことがある。その本は同じ語根の白を含む単語として album(アルバム)も紹介されていた。このことを知っていれば、albino(アルビノ、白子)とか albumen(卵白)なども簡単に語源がわかって覚えやすい。

ところがところが、Applecheese さんのブログによれば、albatross は「語源的には、ポルトガル語やスペイン語でペリカンを意味する alcatraz と関連している」とのことだ。あれれ、と思っていくつかの辞書を調べてみると、たしかにそのように書かれている。

小学館の「ランダムハウス英語辞典」では、次のように解説されていた。

[1681.algatross「グンカンドリ」の異形<ポルトガル語 alcatraz「ペリカン」,おそらく<アラビア語 al-ghaffs オジロワシの一種,字義は「飛び込むもの」;-g- に相当する-b- はおそらくラテン語 albus「(鳥の色が)白い」からの連想による;本来ペリカンを指すこの語はアラビア語 al-qdZs「水を運ぶ鳥」に由来するという説もある;これはペリカンが大きなくちばしでひなに水を運んでくると考えられたもの.


岩田先生の話は正しくなかったわけだが、覚えるのに役立ったのだから、まあ、よかった。


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ここ半年ほど自分で将棋を指していないが、日曜朝の NHK 杯将棋トーナメントを見るのは楽しみにしている。将棋のようなたいして視聴率を稼げるとは思えない競技を長年にわたって放送してくれているのは、さすが「皆さまの NHK」 と思う。

しかし、この番組は 100 分もあり、通して見るとちょっとした映画を見るぐらい時間をとられてしまう。将棋の対局では、局面によって短い時間に何手も指されることもあるし、一手進むのに何分もかかることもある。そこで、録画してから見るようにすれば手が進まない時間を飛ばして見ることができるのではないかと考えた。

実際にやってみると、たしかに効率的に手の進行を追うことはできるのだが、ダイジェストを見ているようでどうも臨場感がない。

そこで、倍速再生で見るということをやってみた。わたしの使っている録画機は音声付きで倍速再生することができる。やってみると、これがなかなかよいことがわかった。全体を 50 分で見終わることができるし臨場感もある。

専門棋士が実際に将棋を指している間合いよりも速く手が進んでいくわけで、見ているわたしも余計なことを考えるひまがなく、次の手を直観で予想する。この方法は、自分が早指しで指すときに手を速く見つける訓練にもなるかもしれないと思った。英語リスニング能力の訓練法として英語を倍速で聴くという方法があったと思うが、それと似ているかもしれない。
北近畿というのは、文字どおり近畿地方の北部である。具体的には、兵庫県北部、京都府北部、福井県に該当する日本海に面する地域だが、東京では山陰や北陸ほどは知られていない。

たんご屋の郷里は、このうちの京都府北部で、旧国名を「丹後(たんご)」という地域である。東京に出てきて以来、「京都に海があるの?」と何回いわれたことか。「知らなかった」ならばまだよいが、こいつうそついてんじゃないのというような態度でいつまでもいぶかしがるひともいる。最後まで信じてくれなかったひともいた。京都に海があるというのはそれほど衝撃的な情報らしい。

現在放送中の NHK の連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台は福井県の小浜でわたしの郷里にわりに近い。親近感のあるところだが、行ったことはなかった。今回、このドラマを見て、方言がわたしの郷里の方言ととてもよく似ているのに驚いた。広い意味の関西弁になると思うが、やはり田舎だからだろう、非常に間延びしている。たとえば、共通語では文節の間に「ね」「さ」「よ」を入れて拍子をとることがあるが、小浜弁と丹後弁では、それぞれの文節の最後の音をゆったりと伸ばして代用する。

もう1つ、共通語の「大阪に行く」が、小浜弁や丹後弁では「大阪に行きなる」となる。この「なる」は尊敬の助動詞で、共通語の「なさる」、京都弁の「はる」に対応すると思われる。この助動詞は自分の身内の行動にも使うし、場合によっては無生物の動作に対して使うこともある。こういうふうに何に対しても敬語を使うというのは、いわゆる京都弁もそうだと思う。やはり、丹後も若狭も、むかしから京の都の影響が大きかったということだろう。
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