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福岡伸一 講談社現代新書 2007年 05月発売

科学啓蒙書ではあるが、かなりの部分は研究の歴史や研究者世界の政治的な話になっている。科学啓蒙書は好きだが、歴史も政治もあまり興味がないので、おもしろくて一気に読むということにはならなかった。

著者によれば、生物のからだでは常に古い分子が廃棄されて新しい分子が取り込まれているという。もちろん、ふつうの体細胞は古い細胞が死んで新しい細胞ができていく、つまり新陳代謝というのはあるわけだが、脳細胞のような新陳代謝しない細胞でも、またその細胞核も、分子レベルではたえず新しいものに入れ替わっているということだそうだ。それはあまり必要ではないたとえば贅肉のような部分でも例外ではなく、絶えず分子が入れ替わっているらしい。

とはいうものの、「ゆく川の流れ」のように、単に、新しい分子が入ってきてそれに押し出されて古い分子が出ていく、ということではない。ある意味でブロックのようにぴっちりとした構造によって、必要なところに必要なものがきちんと組み入れられていくしくみになっているということらしい。むしろ、ある構造や機能を維持できるようにするために、分子が速やかに入れ替わるようなしくみになっているということのようだ。

著者はそれを「動的平衡」と呼ぶ。それは、生命のしくみの説明というだけのことではなく、絶えず流れることによって一定の構造や機能を維持する存在こそが「生命」である、と定義しているように思われた。また「流れ」だから、物質や位置だけではなく時間という要素も不可欠に取り込んだ存在になる。

わたしが著者の考えを正しく理解できているかどうかわからないし、仮に正しく理解しているとしてもそれが正しいかどうかはわからない。しかし、この考えに従ってちょっと飛躍したことをいえば、高等動物の脳(神経系)を取り出してガラス瓶に入れてもそれは「生命」とはいえないし、鉄腕アトムのような存在はどんなに精巧に作っても「生命」になることはないということになると思う。むかしの SF は現在知られている生命以外の生命をわりあい安易に想定していたが、それは科学的には無理があるかもしれない。

神というものは信じていないけれど、やはり生命というのは非常に複雑かつ精妙にできているもので、この宇宙で唯一の存在かもしれないと思う。
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ある施設に行ったときに
一万百円で会員カードをお作りになれますが、どうなさいますか」
と聞かれた。
「へえ、一万百円ですか」
というと
「はい。一万百円です」
と答える。

会員になると割引があるらしい。その施設は今後もよく使うだろう施設だったのだが、「うーん、一万百円は高いなあ」と思ってやめておくことにした。

後日、またそこに行ったとき
「会員カードは百円ですが、どうなさいますか」
と聞かれた。あれ、一万百円というのは自分の勘違いだったのかな、百円ならいいやと思ってカードを作ってもらった。

あとで考えると、最初の店員さんは「一枚百円」といったのだろうと気がついた。会員カードを何枚も作るひとはいないだろうから「一枚百円」などとややこしいことをわざわざいわなくてもよいのに、と思って可笑しかった。
先日、政府の UFO 談義の話題から宇宙人は存在するかどうかという話を妻としていたときに、たまたま「生物学的数字」ということばを造語して使った。そのあと「生物と無生物のあいだ」という本を読んでいたら、まさにその「生物学的数字」ということばが出てきたのでおどろいた。

先週のいつの日だったかの日経新聞の「春秋」欄に、宇宙には一千億かける二千億の星があるから地球以外の星に生物が存在してもふしぎではない、というような主旨のことが書いてあった。こういう「天文学的数字」を出されると、なるほど、それだけ星があるのなら生命のある星があってもふしぎではないなあという気がしないでもない。

しかし、宇宙にある原子がうまく組み合わさって生命が生じる確率はおそらく「生物学的数字」といってよいほど低いのではないかというのが、そのときわたしが妻に話したことだった。

当たり前だが、いくら多くの環境があっても、生じる確率自体が非常に低ければそれが生じる確率はやはり低い。地球上に 100 余の国がある、64 億余の人類がいるといっても、男が妊娠して出産したという話はこれまで聞いたことがない。

ひとりの人間を構成する細胞の数は約 60 兆といわれる。それだけで銀河系の恒星数といわれる二千億よりも多い。ましてや、人間を構成する分子、原子の数を考えると全宇宙の星の数より多いのではないだろうか。このように、生物学的数字が天文学的数字よりも大きいことは十分に考えられる。

まあ、具体的にはわからないのでネットで検索してみると、生命が偶然に生じる確率は 10 の 4 万乗分の 1 だと計算した学者がいると書いてあるページがあった。星の数といわれる一千億かける二千億は 10 の 22 乗くらいにすぎないからまるで桁が違う。その説が正しいなら、地球以外に生命がいる可能性はかぎりなく低いといえる。

これはわたしの想像だが、天文学者には他の星に生命のいる可能性は高いと考えるひとが多く、生物学者は他の星に生命のいる可能性は低いと考えるひとが多いのではないかと思う。

むかし、月のクレーターはどうしてできたのかという説明に火山説と隕石説があった。おもしろいことに、火山説を唱えるのは天文学者、隕石説を支持するのは地質学者だったそうだ。つまり、自分の専門分野に関することはよく知っているので安易に考えないが、自分のよく知らないことは気楽に考えてしまうということが人間にはあるのではないだろうか。


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どんなことばでも「のくせに」をつけると偏見を表現することができる。
「女のくせに」「男のくせに」「医者のくせに」「学生のくせに」

「○○はこうであるべき」という予断があって現実がそれとは違うといっているわけだ。

現実が予断どおりである場合は「さすが○○だけあって」ということになると思う。

「さすが女だけあって」「さすが男だけあって」「さすが医者だけあって」「さすが学生だけあって」

予断をもつ能力は生きていくうえで重要だ。「フグに毒があるというのは偏見だ。すべてのフグに毒があるとはかぎらない。実際には食べてみなければわからない」という考えは正しいかもしれないが、「すべてのフグには毒がある」という偏見をもっているひとよりも死ぬ可能性が高いだろう。

しかし、こと人間に対してはできるだけ偏見や先入観をもたないようにしようとわたしは思っている。
医者だから、学者だから、政治家だからというだけで偉いわけではない。前科前歴があるからといって新しく犯罪を起こす確率が他の人よりも高いわけではない。なかなかうまく感情を制御できないことも多いけれど、自分のもっている偏見に気がついたら正すように努めている。それは生きていくうえで損なことかもしれない。損だとしてもしかたない。
「享年」を和英辞典で引いてみると、すべて「死亡時の年齢」という意味になっていた。
研究社和英大辞典
きょうねん 享年
n. 《L》 the age 《of a person》 at death. 
¶享年 50 歳. He died at (the age of) fifty.

研究社和英中辞典
きょうねん 享年
one's age at death

和英辞郎
享年
age at death

斎藤和英大辞典
きょうねん〔享年〕
〈名〉One's age at the time of one's death
◆享年七十 He died aged seventy.

享年は「死亡時の年齢」という意味ではなく「天から享(う)けた年数」という意味だそうだ。つまり、「享年七十歳」といった表記をよく見かけるが、年数なので本当は「歳」をつけずに「享年七十」が正しい。この意味を英語でいえば、the number of years one spent in life ぐらいになると思う。

ほぼ同じ意味で「行年」といういいかたもあるらしい。仏教用語なので呉音で「ギョウネン」と読む。享年や行年は一般的には数え年と同じになる。満年齢では生まれた日から次の誕生日になるまでの期間は零歳で、その間は生を享けていない計算になってしまうからだろう。
UFO についての質問趣意書に対して政府は「確認していない」と答えたという。未確認飛行物体なのだから確認していないのは当たり前だ。確認したら「確認済み飛行物体」だ。あほらしい。

つまらんことばあそびをしていると思われるかもしれないが、未確認飛行物体というのは他国のスパイ機、ミサイルである可能性もあるわけだから、政府が答弁するならそういうことを想定して答弁すべきだろう。

日経新聞には、町村信孝官房長官は「(UFO は)個人的には絶対にいると思う」といったと書いてあった。これもよくわからない発言で、未確認飛行物体(なんだかわからないけれど空を飛んでいるもの)ならわたしだって何回も見たことがある。あるにきまっているじゃないか。

この町村さんの発言、ネットで見た時事通信社のニュースでは「個人的には絶対あると思っている」となっていた。「いる」といったのか「ある」といったのかわからないが、わたしは「いる」より「ある」のほうがなじむと思う。未確認の物体なのだから「いる」というのは違和感を覚える。


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「わたしは風邪が治った」

という文を英語でいうとどうなるか考えてみる。

それにしても、この文の主語はいったい何だろう。「象は鼻が長い」の場合は「象は長い」といえないが、この文では「わたしは治った」でも「風邪が治った」でもべつにおかしくはない。まあ、日本語で主語は何かなどと考えること自体にあまり意味がない気がする。

とはいえ、もし英語に訳すとしたら何か主語を決めなければならない。実際の会話だったら、わたしなら My cold is gone. とでもいう。しかし、まあ、せっかくだから、自分を主語にするとどういう文になるのか考えてみる。

I recovered from a cold. という言いかたはたぶんあるのだろう。なんだか、2、3 日寝込んでいて仕事も休んでいたという感じがしないでもない。ほかに「治る」というと、cure という単語が思い浮かぶ。「ヒーリング」の heal なんていうのもあるけれど、この単語は傷が「癒える」とか傷を「癒す」とかいうような場合に使うのがふつうのようである。でも、I cured my cold. だと、本人が医者で自分で自分の風邪を治したとか、ドリンク剤を飲んだり卵酒を飲んだりして自分で治したという意味になるだろう。

このようなときは、文法的には I was (got) cured of my cold. というようである。この of はなかなかくせ者で、英語ノンネイティブには知らないと使いにくいのではなかろうか。最初は「風邪から治る」ということで from という意味なのかなあと思ったが、たぶんそうではなくて be(get) robbed of my wallet の of と同じ、 つまり off = 分離の意味だと思う。風邪から離れて治るのだろう。
ブロンクス・キッズ 夢はチェス盤の向こうに(原題:Knights of the South Bronx)」というテレビ映画を見た。

事情で会社を辞めたビジネスマンが一時的な小遣い稼ぎのつもりで小学校の代用教員になり、夢をあきらめざるをえない劣悪な家庭環境にある悪ガキたちにチェスを教え始める。その子たちのチームは全米大会で優勝するまでになり、奨学金を得て大学に行けるようになってめでたしめでたしというお話。同じようなストーリーで野球などを題材にした映画もよくあるような気がする。映画好きにとっては陳腐なストーリーなのかもしれないが、わたしには楽しめた。

子どもたちがチェスに夢中になるにつれて全科目の成績が上がったということで最初はこの教員のやり方を快く思っていなかった学校側も公認するようになる。実話に基づいているそうだから本当にそういうことがあったのだろう。夢中になれる対象を見つけたことで他のことにもやる気がでてきたからだと思う。学校教育に将棋を取り入れたいと言う日本将棋連盟もこういう映画を企画すればよいのに。
ネットで調べていて、「鬼嫁」を英語でいうのに a devilish wife といういいかたがあるということを知った。a devilish daughter-in-law というふうに書いてあるページもあった。たしかに姑さんから見るとそういうことになるが、鬼嫁というときの「嫁」って妻という意味ではないのだろうか。

英語の得意なかたは「そりゃ a devilish wife だろう」と思うのかもしれない。しかし、もしわたしが英米人に「鬼嫁」の意味を突然聞かれたとしたら、「a bad wife じゃないかなあ」と答えるだろう。devilish なんて形容詞はすぐに出てこない。

いくつかの辞書を見ると、devilish という単語には「極悪非道の」という意味以外に、「いたずら好きな」「魔性の」という訳語も書いてある。a devilish wife を仮に「いたずら好きな妻」「魔性の妻」と訳してみると、「鬼嫁」ということばに対するわたしの印象とはまた違ってくる。わたしは「鬼嫁」という日本語を a violent wife とか a cruel wife というような印象でとらえている。英語ネイティブが一般的にどう受け取るかはもちろん知らない。まあ、日本語と英語が一対一に対応しないなんてことは当たり前のことだが。
少し前にチンパンジーの子どもがチンパンジーのおとなや人間のおとなよりも数字をよく覚えるという論文が発表されたというニュースがあった。

その件についての NHK のニュース解説を見ていたら、解説委員が「これをチョッカン像記憶といいます」といって、字幕に「直感像記憶」と表示された。

この字幕は間違いで「直観像記憶」が正しいのではないかと思った。Google で検索してみると、「直感像記憶」が約 945 件、「直観像記憶」が約 30,400 件だった。

「直感」とはいわゆるカン(勘、 a hunch)のことだが、「直観」は見たり聴いたり触ったりすることで全体のことを直に悟ることだとわたしは思っている。ユングの性格類型でそういうことの得意な性格を「チョッカン型」と分類していたと思うが、それも「直観型」という表記だったはずだ(ところが Google で確認してみたらユングの性格類型も「直感型」となっているページが意外に多かった)。

まあ、「チョッカン像記憶」は学術用語だろうから国語的な正しさとは別に慣用として「直感像記憶」が実は正しいということもありえる。わたしは心理学を専攻したのでこれは自分の専門分野の用語であるはずなのだが不勉強だったので専門用語としてどちらの表記が正しいのか知らない。

チンパンジーの子どもの記憶能力がヒトのおとなよりも優れているということについては、そりゃあまあ、そういうことはたくさんあるだろうなあと思う。

警察犬はヒトには嗅ぐこともできない臭いをかぎ分けてしかもそれを記憶するわけだし、にゃんこ先生は屋根から落ちてもちゃんと足から降りる。サケは生まれた川に戻ってくるし、ハチだって花のありかを覚えてダンスで表現するわけだ。記憶はヒトの専売特許ではない。


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記憶のアポトーシス
「鬼嫁」とは「鬼のような嫁」、夫に対して冷酷非情な態度をとる妻のことかなあと思って辞書で見ていたら、斎藤和英大辞典で「鬼のような親」に当たる英語表現が unnatural parents となっているのを見つけた。

字面でいえば unnatural は natural の反対で「不自然な」という意味だと思ってしまうし、それで間違ってもいないと思う。しかし、次のような意味を載せている辞書もある。

2 自然の人情に反する, 人道にもとる; 残酷な, 邪悪な
(研究社リーダーズ英和辞典)

3 残酷[冷酷]な,邪悪な,極悪非道な(monstrous), 非人間的な(inhuman)
(ランダムハウス英語辞典)

「残酷な」という意味が載っているからといって「恐竜は残酷である」というようなときに Dinosaurs were unnatural. というふうに表現してもよいのだろうか。本当のところは英語ネイティブに聞かないとわからないが、できないような気がわたしはする。恐竜は残酷で非人間的(笑)なのが自然だ。

unnatural parents が「鬼のような親」という意味になるのは、親が血のつながった子を愛するのは自然なことであり、子を虐待するのは不自然だという考えかたが根底にあるからだと思う。英辞郎には、まさに次のような定義と例文が載っている。

1 不自然な、自然に反する、不思議な、異常な
【用例】 It is unnatural for mothers to hate their children. : 母親が子どもを憎むのは不自然だ。


では、「残酷な妻」という意味で「鬼嫁」を an unnatural wife としてよいかというと、微妙だと思う。親が子を愛するのは自然なことだと広く考えられているだろうけれど、もともと他人である妻が夫を愛するのは自然なことではなく人為的なことだろう。

でも、案外、英語ではそういう意味になるのかもしれない。わからない。ご存じのかたがいらっしゃったらご教示を乞う。
「鬼嫁」ってどういうひとのことかなと思ってネットで検索してみた。しかし、鬼嫁とはこれこれこういうひとと説明してあるサイトは見つからなかった。

「実録鬼嫁日記」という本やドラマが流行ったらしいが読んでいないし見ていない。そこで、それらの元になったというブログをちょっと読んでみた。鬼というからには冷酷非情なのかと思っていたが、そのブログのネタになっている嫁さんはわがままというだけで冷酷というわけではないようだ。ブログの著者と嫁さんはむしろ仲がよさそうに感じた。

漢字源には「鬼妻」という語があった。鬼嫁のことかと思ったが、まったく違った。

【鬼妻】キサイ 夫に死なれた妻。また、幽霊となった妻。「鬼妻不可以同居処=鬼妻ハモッテトモニ居処スベカラズ」〔→列子〕


けっきょく、どういうひとを「鬼嫁」というのか未だによくわからない。「悪妻」とは違うのだろうか。
日本郵便に「配達記録郵便」というサービスがあって、通常の郵便に 210 円を追加で払えばインターネットや電話でほぼリアルタイムの郵便追跡ができるようになる。さらに、電子メールアドレスを登録すれば相手先に届いたときに配達完了メールを受け取ることができる。

というのは、日本郵便の宣伝どおりの説明である。しかし、現実には必ずしもそのとおりのサービスが提供されていないこともあるようだ。

本日、ある冊子小包を配達記録つきで発送した。しょせん 1 日か 2 日でつくはずの荷物なのでリアルタイムに輸送状況を知る必要などなかったが、明日着いたのか明後日に着いたのかぐらいは知りたかったので配達完了メールを受け取れるように設定しようとした。ところが、発送依頼から 3 時間ほど経っているのにインターネットで調べても発送が登録されていなかった。発送記録がないと配達完了メールの送付先も登録できない。そこで、発送を依頼した郵便局に電話して聞いてみた。

発送がまだ登録されていないかもしれませんが、お客様が受領書をおもちなのでしたら荷物は確実にあずかっております。どうして経過を追跡なさりたいのかよくわかりませんが
「追跡サービスというのは荷物の状況を追跡するためのサービスなのじゃないの」
配達記録で経過を追跡することはできませんよ。発送と到着の情報しか登録されませんから
「発送したというのも途中経過でしょ。現時点の経過を知りたいのじゃなくて配達完了メールの登録をしたいからいっているんですよ」

というやりとりになって、結局、その場で調べて登録してくれたが、こちらから連絡しなかったらいったいいつ登録してくれたことやら。たとえば、5 時間、10 時間後に登録するのだったら、そんなものは追跡サービスでもなんでもない。事実上追跡サービスになっていない仕事を職員がやらされているのだとしたら無駄な話だと思う。
ネットでは「芋弦式」「芋鶴式」「芋吊る式」「芋釣る式」といった表記があるらしいが、正しくは、いも(芋)のつる(蔓)、「芋蔓式」である。

サツマイモやジャガイモは江戸時代以降に日本に入ってきたものなので、それより前の日本では「いも」というとサトイモとかヤマイモのことだったのだと思う。「芋づる式」という慣用句に使われている「芋づる」は古い日本語からきているのだろう、つまり山芋か里芋の「つる」のことなのだろうとなんとなく思っていた。

ところが、「あははっ語楽 芋づる式の語源」というページによれば、「芋づる式」のいもはサツマイモのことだという。

 「芋」とはサツマイモのこと。明治になって政治の中心となったのは薩長の藩士たちでした。特に薩摩(鹿児島)は、西郷隆盛・大久保利通をはじめとしてたくさんの人物が出世しました。人々はこれを皮肉って、特産のサツマイモとかけて「芋づる式に・・」と表現するようになりました。用例としては「芋づる式に捕まる」などあまりいい意味では使われていません。やはり、語源となった事情が影響しているのでしょうか。

西郷さんにかかわっているのだとしたらおもしろい。これが本当かどうかはわからないが、考えてみれば「何とか式」というのは明治以降のいいかただろうし、明治時代ならサツマイモもジャガイモも日本全国に知れわたったなじみ深い野菜になっていただろう。

それと、蔓をたぐることで、いわゆる芋づる式に、いもに行き当たるのはサツマイモだけなのかもしれない。サトイモは一箇所にまとまってできるような印象があるし、ヤマイモは縦に深く生えているような印象がある。ただ、わたしは海辺の育ちなので芋掘りをした経験があまりなく、間違っているかもしれない。




三国 連太郎 沖浦 和光 筑摩書房 2005/05 ¥840

人権週間なので、この本をご紹介する。民俗学者の沖浦和光さんと俳優の三國連太郎さんが芸能と差別の関係について対談した本である。

三國さんは、ご養父が被差別部落出身ということと、河原者として賤民扱いされてきた芸能人というご職業のせいか、差別問題についての知識が非常に豊富で、またそのことについてよく考えてこられたようだ。博覧強記の沖浦さんと知識においても見識においても堂々と渡り合っている。

アイヌ、琉球、蝦夷、隼人、縄文人、帰化人など日本民族の源流の話、猿楽、歌舞伎、浪花節、萬歳といった芸能の歴史や折口信夫のこと、四谷怪談、竹取物語(竹取の翁は賤民だったという)、フーテンの寅さんと的屋(香具師)や大道芸、啖呵売(ガマの油売りなど)の話、インドネシアから琉球、日本に至る芸能や文化の共通性の話など興味深い話が論じられている。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
鍋物の白菜がくたくたに煮えたものはおいしいけれど、まだくたくたになっていないものはそれほどおいしいとは思わない。白菜のもともとの水分が残っていて鍋のうまみがなかなか染みないのだろう。

白菜は日本や朝鮮半島では漬け物にするのが代表的な食べかただ。つまり、本来の水分を抜いてうま味を足すとおいしくなるということではなかろうか。

ということで、白菜を鍋に入れる前に焼いて水分を抜いておくととてもおいしくなる。この方法は上沼恵美子さんの料理番組で知った。その番組では、適当な大きさに切った白菜を中華鍋に敷いて焼いていたと思う。

なるほどと思って、わたしもいったん焼いてから使うようにしている(面倒なときはそのまま使うこともある)。くたくたに煮えた白菜のようで、かつ甘味が強くなる。わたしは中華鍋じゃなくてオーブンレンジを使って焼いている。水分が多いからだろうか、かなり長時間焼いたとしても焦げて食べられなくなるということはない。少し焦げ目がつくぐらいのほうがむしろ香ばしてよいかもしれない。

鍋物の季節である。まだやってみたことのないというひとは、ぜひお試しあれ。
もめ事に対して 4 人の弁護士が有罪か無罪かを判定する番組をひさしぶりに見た。この番組では、弁護士の回答が発表される直前に Give me a truth というかけ声がかかる。

英語学習本には、嘘の種類はいくらでもあるから tell a lie と不定冠詞を使用するが、真実は 1 つしかないから tell the truth と定冠詞を使用するとよく書いてある。とはいうものの、その番組では、それぞれの弁護士の個人的な見解を聞いているわけで、1 つしかない真実のことをいっているわけではないから a truth で別におかしくはないのだろう。

哲学的なことはわからないけれど、常識的に考えても真実は 1 つしかないということはないだろう。宗教を信じているひとにとって世界は神が作ったというのはそのひとにとっての「真実」だろうし、科学を信じているひとにとって世界はビッグバンによって始まったというのはそのひとにとっての「真実」だろうから。どっちにしても、それを自分の目で見たわけではない。

では事実、fact は 1 つかというと、それもよくわからない。仮にそうだったとしても、そんな 1 つだけの事実などだれも知り得ないのではないのか。だれも知り得ないことなのだったら、それはけっきょくだれかの見解に過ぎないという気もする。
もう何年も前、大学のときの友人が子どもを連れて遊びに来た。別にそれが目的でたずねて来たわけではないが、何かの拍子で、どういうふうに仕事をしているのか子どもに見せてやってくれということになった。そこで、翻訳支援ツールの機能を簡単に説明したあとで、DDwin というソフトウェアで何十もの辞書を一度に串刺し検索して見せた。その串刺し検索には、その子よりも親である友人のほうが感動していた。

その気持ちはとてもよくわかる。だって、わたしと同世代のひとで語学をやったことのあるひとにとって、ある単語を、いろいろな辞書で一度に引くというのは夢だったのだ。

ある単語なり表現なりを調べようとする。1 つの辞書で引いてもどうもピンとこない。だから、別の辞書でも引いてみる。それでもまだ納得いかないので専門辞書を引いてみる。うーん、なんだか日本語にごまかされている気がする、と思って今度は英英辞書を引いてみる。ああ、そうかそうか、えーっと、最初に引いた辞書にはなんて書いてあったっけ、と思って最初に引いた辞書に戻る。

外国語の学習をある程度やったことのあるひとは、こういう経験をしていると思う。あー、面倒くさい。同じ単語に対して一度に複数の辞書を横断して引けないものか、と思ったものだ。

いまでは、それはけっこう簡単にできる。パソコンに複数の辞書ファイルを入れてさえおけば、「串刺し検索」は無料のソフトウェアでも可能である。

それから何年かして、60 代の男性がうちにたずねてきたことがある。ちょっとした座興のつもりで、そのひとにも串刺し検索を実演して見せてあげた。「へえ、すごいねえ」という反応があるかと思っていた。

ところが、「それがどうしたの」と冷たくいわれてしまった。「すごくありませんか」といっても「いや、べつに」といわれてしまう。あらら、とずっこけた。

そのひとはそれまでの人生で単語や表現を辞書で調べたりしたことがないのだと思う。ましてや、同じ単語を複数の辞書で引くなんてことに何の意味があるのと思っているにちがいない。

バカにするつもりで書いているわけではない。そのひとはそういう必要のない人生を歩んでこられたわけだ。むしろ、だれもが串刺し検索のおもしろさを理解できるだろうと思っていた自分がおめでたかった。

つまり、自分のよく知らない世界のことを想像して評価することはむずかしいという話。わたしはフィギュアスケートを見て、きれいだとか、あ、失敗した、とか無責任にいっているが、少しでもスケートを経験したひとは、そういった技術をもっともっと深く理解して評価ながら見ているのだろうと思う。
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