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製品を説明している文章で

XXX is a compelling choice for customers ...

というような文に出くわし、この compelling はどう訳せばよいのだろうと思った。

ランダムハウス英語辞典は compelling に次のように訳語を載せている。

com・pel・ling
【2】賞賛[尊敬,注目]せずにはいられない,説得力のある:

他の学習用英和辞典もだいたい同じような訳語になっている。

英辞郎は次のとおり。

compelling
2 説得力のある、人を動かさずにはおかない、人の心をつかんで離さない、人を引き付ける、感動的な

うーむ、この文で「説得力のある」というのは変だし、他の定義もあまりしっくりしない。

そこで、Collins COBUILD English Dictionary の定義を見て、さらに考えてみる。

2 compelling [ADJ-GRADED]
If you describe something such as a film or book, or someone's appearance, as compelling, you mean you want to keep looking at it or reading it because you find it so interesting.

これで「目が離せない」とか「無視できない」という表現が浮かんだ。使えるかもしれない。

さらに、Collins Thesaurus を見てみると次のようになっている。

compelling
1 = fascinating, enchanting, enthralling, gripping, hypnotic, irresistible, mesmeric, spellbinding

これを見て、ああ、単に「魅力的な」というのもよいなあと思った。けっきょくそれを採用した。

この訳がよかったかどうかはわからない。しかし、ある英語表現によく対応していると思われる日本語表現は―悩みながらお風呂に入っているときに天啓のようにひらめいたこともあるが―やはり辞書を眺めているときにひらめきやすいようだ。
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白梅3 白梅4
八重野梅(やえやばい)。

気候による印象もあるのかもしれないが、サクラよりもウメの花のほうがキリッとしてすがすがしい。
「雪の降る街を」という歌は知っていたが「雪が降る町」という歌もあるらしい。そちらは知らなかった。「雪降る(街)」とか「雪降る(町)」というのは、英文法的に説明すれば形容詞節で、「の」や「が」は主体を表す助詞ということになるのだろう。

「の」を使うか「が」を使うかで意味に違いがあるのかと日本語教師の知人に聞いてみたら、「違いがあると習ったけれど、どう違うかは忘れた」とのことだった。そういわれてみれば何か違うような気もするけれど、どう違うのかわたしには説明できない。この記事は、「の」を使うか「が」を使うかは表記の好みの問題であって意味上の重大な違いはない、という前提で書く。

こういう「の」の使いかたについて、「わかりやすいマニュアルを作る文章・用字用語ハンドブック改訂新装版 」では次のように指南している。

例文
(1)
当社の開発したこのソフトウェアは~

当社が開発したこのソフトウェアは~

解説
所有を表す「の」以外は、ほかの語句が使えないかどうか考えます。(1)のように「の」が主体を表すときは「が」に書き換えます。
(同書100ページ)

この本の著者が言いたいのは、可能なかぎり誤解を避けるために、「の」は所有を表すときのみ、「が」は主体を表すときのみに使用しようということだと思う。

しかし、わたしとしては、これまで自分のルールとして従属節の主体を表すときは「が」ではなく「の」を使うことにしていた。なぜかというと、従属節で「が」を使うと主節の「が」と交じって意味がとりにくくなると思っていたからだ。たとえば、次のような文では、前者は「が」が重なっていてわかりにくいのではないだろうか。

船頭漕ぐ舟真下を通る。
船頭漕ぐ舟真下を通る。


でも、よく考えると、次のように「の」が重なってしまうこともあるわけだ。

船頭漕ぐ舟速度
船頭漕ぐ舟速度

この場合は、「が」を使ったほうがわかりやすいと思う。

けっきょく、従属節の主体に対して「が」を使うほうがよいか「の」を使うほうがよいかは残念ながら一律に決めるわけにはいかず、文ごとに自分の感覚で選択するしかないようだ。
白梅1 白梅2
先週のよく晴れた日に、梅を見に行ってきた。左は「水心鏡」、右は「八重冬至」という梅だったと思う。
ある商業施設の駐車場に「お車はお並びできません」という立て看板があった。

「お並びできません」の「お…できない」という表現はちょっと舌足らずな感じがする。本来は「お並びすることができません」だろう。

それは措いておいても、「お…できない」というのは、たとえば「本日は届けできません」のように、ふつうは自分の行為を謙譲する表現ではないだろうか。

「お並びできません」といわれると、行列に並ぶアルバイトをしているひとが何かの事情で並ぶことができなくて「すみません、お並びできません」と雇い主に謝っているのかという気がする。

尊敬の意を示すなら「お並びになれません」、謙譲の意を示すなら「お並びいただけません」というのが、こういう場合の標準的な表現だと思う。


追記:
ここまで書いて、あ、「お並びになることができません」や「お並びいただくことができません」を略したつもりの表現なのかと気がついた。そうだとしたら略しすぎだと思う。


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子どものころは、園芸などに使う小さい道具を「シャベル」、立って土を掘る大きな道具を「スコップ」というのだと思っていた。うちの実家では今でもそういうふうに呼び分けていると思う。逆に、大きいほうを「シャベル」、小さいほうを「スコップ」と呼んでいるかたもいるだろう。

シャベルは英語の shovel(shove は「押す」)に対応し、スコップは英語の scoop (すくい上げる)に対応している。業界では、足を載せる部分があってぐいっと押すこともできる道具を「シャベル」、足を載せる部分がなくて主にすくい上げるために使う道具を「スコップ」と呼び分けているらしい。

雪をかくことは shovel away snow というらしい。これに使うのはやはり「シャベル」だろう。

scoop は「スクープ、特種」という意味でもあるが、その意味と「すくい上げる」という意味に関係があるかどうかは知らない。「特種をすくい上げる」ということかもしれないし、そうではないかもしれない。ちなみに、日本語の「スコップ」の語源となったのは英語の scoop ではなくてオランダ語の schop だそうである。
イージス艦が漁船と衝突した事故で、海上保安庁がイージス艦を「家宅捜索」したと報じられた。

艦船は「家宅」なのか、とふしぎに思った。広辞苑第六版で調べたら次のようになっていた。

か‐たく【家宅】
家。家屋敷。すまい。
かたく‐そうさく【家宅捜索】 ‥サウ‥
裁判官・検察官・司法警察職員などが、人の住居その他の場所に立ち入って刑事事件の犯人や証拠物をさがし求めること。⇔身体捜索。→捜索

「家宅捜索」が「人の住居その他の場所」に立ち入ることなら艦船も家宅捜索でよいわけか。しかし、バスや飛行機、列車などでも「家宅捜索」という表現になるのだろうか。なんだか違和感がある。
「“異常趣味”大学」じゃない!! 近畿大が英語表記の変更検討 (産経新聞ニュース)

近畿大学が英語名称の Kinki University を Kindai University に変更することを検討しているという。その理由は、Kinki の部分が英語の kinky (性的に倒錯した)と同じ発音で、「教員が海外で研究発表する際に笑いが漏れるなど大学の威厳が損なわれかねない」からだということだ。

Collins COBUILD English Dictionary によれば、kinky の語義は次のとおり。

If you describe something, usually a sexual practice or preference, as kinky, you mean that it is unusual and would be considered strange by most people. (INFORMAL) 


発音:Kinky University


ソフトウェアで音声を作成してみたが、たしかに「キンキ ユニバーシティ」とほぼ同じ発音である。

近畿地方はわたしの出身地方だから、「近畿」という語を避けようという動きはあまりうれしいものではないし、日本の大学なのに英語での印象を気にし過ぎるのもどうかとは思うが、まあ、近畿大学が英語名称を変えるのは自由だ。

それはよいとして、Kinki University という固有名詞が学会などのお堅い研究発表の場で失笑を買うことがあるというのはどうも釈然としない。英語圏のひとは失笑耐性が低いのか。

日本では、たとえば、「ジョウチダイガク」と聞いて「情痴大学」を連想するひとはいないだろう。日本語は同音異義語が非常に多いから、発音が同じでも文脈に応じてあてはまる意味のみを理解することに長けているのかもしれない。

ほかの大学はどうだろうと考えてみた。明治大学からは Mazy University を連想しないのだろうか。

mazy
迷路 (maze) のような, 曲がりくねった; 混乱した, 当惑した.
(研究社リーダーズ英和辞典)


発音:Mazy University


これも、「メイジ ユニバーシティ」と聞こえる。英語圏のひとには、「迷路のような大学」「困惑した大学」という印象で受け止められるかもしれない。


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先週の「カンブリア宮殿」という番組でリサイクル店社長の堀之内さんというひとの話を聞いた。

以前この番組で見た楽天の社長や Google 日本法人の社長は、わたしのような半ば隠遁生活をしている低所得者とは感覚が違いすぎて「別世界の話」をしているという印象が強かった。堀之内さんの話には株式のことも世界市場のことも出てこず、ずっとわかりやすくて身近でおもしろかった。

堀之内さんは、高校を卒業していろいろな事業をやってみたがうまくいかず、夜逃げをして路上生活者になったという。その後、拾ったゴミを古物商に売ることが商売になることに気づいてリサイクル店を始めた。現在では全国にフランチャイズ店をもつ大きな会社の社長にまでなったとのことだ。

堀之内さんのやっているのは、要らないものを集めてそれを必要とするひとに安価で買ってもらうというような安易な商売ではなく、だれかにとって不要なものを引き取って新しい価値を付加して販売するという、流通業とコピーライターを併せたような、ものの価値とひとの価値観を操作する商売のようだ。

テレビでは、足の折れた椅子の足を全部取ってしまって座椅子として売るという例を実演していた。足の折れた椅子を、使いものにならないと考えるのではなくちょっと工夫することで別の価値を付加できるという見かたは、ちょっとした逆転の発想だと感心した。

番組で、堀之内さんは次のようなことをいった。
たくさんの人がいいというものより、ひとりがすごいというもののほうが価値がある

うーん、この考えかたはまさにロングテール理論そのものではないかと思った。特定の少人数を当て込んで他品種少量の商品を扱うというのは、ネット販売の世界だけでなく、堀之内さんの会社のような実店舗のある商店でも成功しうるということか。

商品の価値だけではなくひとの価値観も利用して売るという堀之内さんのような柔軟な発想は、「シャッター通り」を再活性化したいと願っている全国のひとたちにとって、よいヒントになるのかもしれないなあと思った。
あるソフトウェアの説明書を翻訳していたら In previous versions, ... という文が出てきたので、深く考えずに「これ以前のバージョンでは…」と訳そうとした。

そしてすぐに「あれ、おかしいかな」と思った。もしかして「以前」というのは基準の時点も含むのではないだろうか。つまり、「これ以前のバージョン」が「このバージョン」も含むということになると誤訳になってしまう。previous という英単語は現在のものを含まないからだ。

訳としては「過去のバージョン」「古いバージョン」「これより前のバージョン」などいくらでも言い換えようがあるので問題ない。しかし、実際のところ、「以前」は基準の時点を含むのか含まないのか。辞書では次のようになっている。

い‐ぜん【以前】〘名〙
(1)基準となる時点や期間を含んで、それより前。また、ある出来事などを境界として、それより前。「五日─に仕上げる予定だ」「明治─からある風習」「役者になる─は教師だった」⇔以後
基準の数値を伴う場合は、それを含むと規定される。数値を伴わないでいうときはあいまい化しやすいが、「ルネサンス期─の作曲家」というと、それより前の〈古代・中世の作曲家〉を指すことが多く、「ルネサンス期以後の作曲家」というと、それを含んで後の作曲家を指すのが一般的。
(明鏡国語辞典)

い‐ぜん【以前】
(1)それより前。その前。「室町時代―の作」「常識―の事柄」⇔以後。
(広辞苑 第六版)

明鏡国語辞典は「基準の時点を含む」、広辞苑は「基準の時点を含まない」という意見のようだ。

「以上」と「以下」では基準の値も含まれることがよく知られている。それから類推する人がおそらく多いだろうから、「以前」「以後」「以降」は基準の時点を含むと考えたほうが安全かもしれない。

その点、英語ははっきりしている。on or before という表現があるくらいだから before は基準の時点を含まないはずだ(と思う)。

E-DIC 英和|和英 (イーディック) CD-ROM版 新装版
ISBN:4255002916
朝日出版社
2005/06/10
¥3,990

実務翻訳は資格も要らないし開業費用もほとんど要らない入りやすい仕事である。それだけにせめて辞書やソフトウェアはケチらないでおこうという気持ちで、貧乏だけどできるだけかんばって購入している。高くて買えないものも多いのだけれど。

翻訳の勉強を始めたころ、「辞書はお金で買える実力」ということばを何かで読んで、なるほどなあと思った。当時はインターネットがなかったからなおさらそうだったが、今ならインターネットという無料で使える最大の corpus があるので辞書の価値は相対的に下がっているかもしれない。それでも、帰国子女でもなく海外留学経験もないわたしにとって辞書はやはり強い味方だ。

この E-DIC という辞書では、『JST 科学技術用語日英対訳辞書』『アメリカ口語辞典』『英和イディオム完全対訳辞典』『米英俗語辞典』など、およそ 20 種類の辞書をシームレスに検索できる。

リーダーズなどの通常の辞書とはちょっと違う訳語が見つかることもあるし、例文も豊富に収録されている。とくに、口語辞典やイディオム辞典には他の辞書では見つけにくい語句が収録されているように思うし、語源やちょっとした関連情報も載っていておもしろい。

ただ、『ビジネスeメール例文集』や『海外生活英会話2』のような、わたしは一生使わないだろうと思われる辞書も含まれている。もっとも、どのような辞書でもその内容のすべてを使いこなすということはない。何か 1 回でも、わからない語句の意味を知ることができれば買ってよかったと考えてよいのだと思う。買わなければわからなかっただろうし、そのわからない 1 回が致命的な失敗を招くこともあり得るわけだから。

不満をいえば、『科学技術用語辞書』で検索される訳語にその用語の使用される分野が書かれていないことだ。たとえば、「redundancy」で検索すると次のような訳語が羅列される。
じゅうじょう[重剰]
じゅうじょうせい[重剰性]
じょうちょうこうせい[冗長構成]
じょうちょうせい[冗長性]
じょうよせい[冗余性]
りだんだんし[リダンダンシ]
このようにただ羅列されてもどの訳語が適切なのか判断のしようがないので、けっきょく別の方法でも調べなおさなければならない。

たとえば、日外アソシエーツ社の『180万語対訳大辞典』なら、その訳語の使用される分野も表示される。redundancy なら 16 個の訳語が表示されるが、その最初の 4 つだけ抜き出すと次のようになっている。
過剰[ビジネス][95IP・ビジネス]
重剰性[95学術・動物][BIO・遺伝]
重複(安全のための)[99学術・分光]
重複性[医学生物][93学術・遺伝]
目的の分野にあてはまるからといって本当にそのまま使ってよいかどうかは別にして、見当はつけやすい。

とはいえ、『180万語対訳大辞典』は 10 万円近い辞書だが、E-DIC は 4000 円未満で手に入る。費用対効果の高い商品だと思う。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)

冤罪
えん‐ざい【冤罪】 ヱン‥
無実の罪。ぬれぎぬ。「―を晴らす」
(広辞苑 第六版)


冤罪の「冤」という字は常用漢字ではないらしく、日経新聞の記事でも本文中で一部「冤罪(えんざい)」と表記している。自分の仕事では基本的に常用漢字以外の漢字を使ってはいけないことが多いが、もしこのことばを書かなければならなくなったら「えん罪」という表記はさすがに気持ち悪いのでたぶん「ぬれぎぬ」と言い換えて書くと思う。

今では冤罪以外の熟語で「冤」という文字を見ることはほとんどない。しかし、むかしは「無実の」という意味で「冤なり」という形容動詞があったようだ。「枕中記」に「帝冤なるを知る」という一節があるらしいが、このように漢文の読み下し文や漢文調の文章で使われたのだろう。

鳩山邦夫法相は、志布志事件を「冤罪と呼ぶべきではない」と発言したという。冤罪とは判決が確定してから真犯人が現れて無実が晴れたような場合に使うことばであって裁判で争って(有罪判決が出る前に)無罪となった場合は冤罪ではないという信念をもっていたようだ。つまり、無実の人に有罪判決が下って罰金なり服役なりの刑罰を受けてからでないと冤罪とはいえない、無実の人が告発されたり告訴されたりしただけでは冤罪とはいえないという考えだと理解した。志布志事件の被告の方々は確かに後者になる。

しかし、和英辞典で「冤罪」を引くと、どの辞書にも a false charge とか a false accusation という訳語が書いてある。charge とか accusation というのは告発、告訴、あるいは非難のことだから、少なくとも和英辞典の著者は、間違った(嘘の)告発も、間違った(嘘の)告訴も、間違った(嘘の)非難も、「冤罪」だと考えているようだ。志布志事件の被告たちは「間違った」告訴というよりも「嘘の」告訴をされたわけで、まさに false accusations=冤罪だった。わたしの認識はそうだし、多くのひとの認識もそうだと思う。

法務大臣とはいえ、いや、法務大臣だからこそ、一般のひとが理解していない独自の解釈で用語を使ってはいけないと思う。「冤罪」というのは法律用語でさえない一般的な用語のはずだ。法律の中に「冤罪」という語が出てくるとは思えない。

鳩山法相は、後にこの発言について謝罪して「今後公式の場では一切冤罪という言葉は使うまい」という主旨のことを言ったそうだ。この発言も意味不明だ。「志布志事件は冤罪とは呼べない」といったことを問題視されたのであって「冤罪」ということばを「ことば狩り」されたわけではない。法務大臣として「冤罪」ということばを使うべき状況は当然あると思うがどうするつもりなのだろう。あ、そうか、「ぬれぎぬ」というつもりなのか。


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交ぜ書き
いたずら描きや、いたずら描きを描くことを、英語で doodle というらしい。

辞書によれば、この単語には幼児語として「おちんちん」「うんち」、そのほか「ちゃらんぽらんに過ごす」「がらくた」「あほう」「ペテンにかける」「ヌードル」「干し草の山」などなどの意味もあるという。

へえと思ったのは、昆虫のアリジゴクの意味(正式には doodlebug)。doodle のどの意味がこの単語の由来になったのだろうか。また、doodlebug には、ミサイル爆弾、シャトル列車、小型自動車、戦車などの意味もあるらしい。これは、アリジゴクの形からの連想なのだろう。

(以前別のブログに書いた記事を改変して再掲しました)
節分には、わたしが鬼の面をかぶり妻が豆をぶつけるということを毎年やっている。子どものいない中年夫婦がこういうことをやっているのは他人から見ると不気味な光景かもしれない(笑)。でも楽しい。

恵方巻きは食べない。巻き寿司があまり好きでない。最近の恵方巻きの流行は海苔組合やコンビニエンスストアの販売促進キャンペーンだということなので、それに乗せられるのもばからしいという気持ちも多少ある。

バレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣も、菓子業界の仕掛けた販売促進活動から始まっている。年間のチョコレート売上高のほとんどはバレンタインデーの時期のものだそうだ。まさに需要のないところに需要を創出したわけで、経済の専門家なら土用のウナギや節分の恵方巻きと並ぶ販売促進キャンペーンの成功例だというかもしれない。

しかし、バレンタインデーにチョコレートを贈るという習慣が日本でこれほどまでに定着したのは、日本女性が異性に告白できる習慣を欲していたのと同時に、男性も告白される機会ができることを歓迎したという深層心理的要因もあるのだろう。

うちではバレンタインデーに妻がわたしにチョコレートをくれるということはない。わたしが花束を買ってきて妻に贈るのが恒例になっている。西洋にかぶれているわけではないが、なんとなくそういう習慣になってしまった。豆まきと同様に、結婚しているかぎり我が家の恒例行事として続くと思う。


関連記事:
外国人に理解できないこと
バレンタイデー
テレビでアナウンサが「(その大会は現在も)募集を募っておられるのですか」とゲストに質問していた。参加を募っているか、という主旨の質問だったのだが、この言いかたでは意地悪く解釈すれば「(募集すること)を募っているか」という意味になる。

Google で検索してみると、次のような例もあった。

安値で広告の募集を募れば…
里親募集を募れば…
どうか再度募集を募 り
同じ名目で募集を募られた…

それぞれ、「広告を募れば」「里親を募れば」「どうか再度募り」「同じ名目で募られた」のほうが簡潔でよいと思う。

募集応募は混乱しやすいことばのようで、以前、ある再放送のテレビ番組のプレゼントコーナーで、「現在は応募しておりません」という字幕が毎回表示されていた。テレビ局が応募しているかどうかに視聴者は興味がない。もちろん、「現在は募集しておりません」の間違いだろう。

また、Google では、次のようなおもしろい例も見つかった。

英語・中国語(男女共に)および米語女性の募集をお待ちしております。
編集経験のある方の募集をお待ちしております。
電子系回路設計の設計者を募集しています。 皆様の募集をお待ちしております。

これらは逆に「応募をお待ち」の間違いだ。


追記:
しかし、「募金を募る」は(わたしには)あまり不自然に感じられない。なぜだろう。


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故桂枝雀さんの DVD の付録で、お弟子さんの桂九雀さんが枝雀師匠の「英語落語」の想い出話をなさっている。

枝雀師匠はもともと英語が好きで英会話学校に通っていた。スキットで勉強するのが嫌いだったので、落語を英語に直して話すというユニークな勉強方法で英会話を習っていたそうだ。

その後、英会話学校の先生や生徒さんたちといっしょに米国に旅行に行ったときに、その英会話学校で教えていた先生でそのときは帰国していた Anne Grab さんというかたをペンシルバニア州のご自宅に訪ねたらしい。

すると、Anne さんは枝雀師匠に「村民の前で落語をやってほしい」と急に頼んできたそうだ。枝雀師匠は「わかりました、やってみましょう」と、マットレスを重ねた上にシーツを敷いたものを急拵えの高座にして、トラクターのヘッドライトの中で英語落語、SUMMER DOCTOR(夏の医者)の一席を務めたらしい。

枝雀師匠のことをまるで知らない、最初はやや引き気味だった村民が、数分のうちに話に引き込まれていって、どかん、どかんと受け始めたという。桂九雀さんは、謙遜もあるかもしれないが、「自分が日本で日本語で話してもあんなに受けないだろう、師匠は本当にすごい」という主旨のことをおっしゃっている。

一席終わると、観客の子どもたちが行列をつくってサインを求めてきたそうだ。落語というものを初めて聞く相手、しかも育った文化の違うひとたちに自分の芸を伝えて評価してもらったというのは芸人冥利につきることで、枝雀師匠、うれしかっただろう。師匠にとって人生最良の日のひとつだったのではないかと思う。それが初めての英語落語の高座で、それ以降、日本や世界各地で英語落語の高座を打つようになったそうだ。

枝雀師匠が英語落語というものをやっていらっしゃったことは知っていたが、そんなにおもしろいものなのかとびっくりして、ぜひ聞いてみたいと思い、「枝雀英語落語」という CD を手に入れて聞いてみた。

実際に聞いてみてどうだったかというと、もちろん語っているのは枝雀師匠なわけだから当然ながら聞いているだけでおもしろい。しかし、師匠の英語は格別流暢でもないし、むずかしい内容のことは話していない。街の英会話教室なら上級クラスではなくて中級クラスの生徒さんという感じではないだろうか。そうか、こういう英語でも、枝雀師匠のように筋の通ったことを感情をこめて話せば十分に相手に話を伝えて感動させることができるのだなあと感心した。
塩分は腎臓によくないと聞いていたが、あるとき、腎臓専門医が「塩分は腎臓に悪いわけではない」と新聞に書いているのを読んで、なあんだ、と思った。

それと似たようなことはよくある。コーヒーが胃に悪いとか、肝硬変の主要な原因は飲酒だとか、大豆や動物性タンパク質の焼けこげに発ガン性があるとかむかしはいわれたことがあるけれど、それらのことは、いまでは、必ずしも正しいとはされていないようである。そういう未だ研究段階の話がすでに解明された事実であるかのように流布してしまうのは、原因と結果をわかったように説明することで安心したいという強い気持ちが人間にはあるからなのだろうと思う。

たとえば、何だか変な胸騒ぎを感じたらそのときだれかが亡くなっていたということが後でわかったというような話もよく聞く。それは、単なる偶然と考えることもできる。というか、そう考えるのがふつうである。しかし、「胸騒ぎ」と「だれかが亡くなったこと」に何か関係があるのだろうと自分に対して「説明」することで納得するという方法もある。よく考えてみれば、その関連づけには、自分がそう思う、という以上の根拠はないわけだが、人間にはともかく説明することで安心したいという気持ちが強いのだろう。ある種の宗教や商業オカルトはそういう心理をうまく利用している。

香港で「ロト6」のようなギャンブルを、すすめられて遊びというか記念にやったみたことがある。面倒だったので「1234…」という番号にした。それを見た現地の子が「そんなのだめだよ」とわたしにいった。わたしは「へ、なんで? 165472 でも 123456 でも確率は同じじゃない」と答えた。すると、現地の子は「うーん、そういわれてみればそうか」と納得したようだった。

000000 から 999999 まで 100 万の数字から 1 つの数字を無作為に選ぶとしたら、165472 でも 123456 でも 000000 でも、どれも 100 万分の 1 の出現確率であって、まったく同じである。 123456 や 000000 のほうが出現しにくいような気がするのは、そちらのほうが「人間にとって」意味がありそうに見えるからだ。これは、予知夢、霊感、心霊写真といったものが、「人間にとって」意味がありそうな部分だけを抽出していることとよく似ているとわたしは思っている。

こういうことを書くと、科学万能主義と批判されるのかもしれない。でも、研究者ではないわたしたちにとって科学もまた説明をつけて安心するための道具にすぎないということは最初の例で書いたとおりである。科学だけではない。宗教も陰陽五行説も精神分析も、何かを説明するためのものさしであり道具であると思う。そういった説明を全面的に信じるのは個人の勝手だが、ときには、別のものさしで見るとこういうことになるなあ、と斜めから見てみることも悪くないと思う。
NHK の朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の主人公の出身地、福井県小浜市の一部のひとたちが米大統領選候補のオバマ氏を応援しているそうだ。市民有志だけで盛り上がっているのではなく、小浜市役所のひとたちもオバマ氏を応援しているらしい。

オバマ氏の主張に共感し、氏が大統領になることが米国民のためにも、日本のためにも、世界のためにもなると考えて応援するのならまだ理解できる。

しかし、名前が同じだから応援するって…、意味不明だ。もしオバマ氏が大統領になって、とんでもない指導者だということが後で判明したとしたら、今回応援した小浜市のひとたちはどのように弁明するつもりなのだろうか。

日本の行政の長である総理大臣は「どうせだれがなっても同じ」といわれることがある。名前が同じというだけで特定のひとを応援するというのは、どうせだれが当選しても大差ないと考えているのだろう。つまり、言ってみれば「好きな芸能人アンケート」と同じ程度のものという認識だろうと思う。脳天気というか、政治をなめているというか。

タレント候補が票を集めるのはなぜなのだろうと以前からふしぎに思っていたが、そうか、多くのひとが選挙をそういうふうにとらえているからなのか、と納得した。


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すべらない敬語
梶原しげる 新潮社 発行年月: 2008年01月

フリー アナウンサで、「しみじみドリンキング しみじみりぃ~」の「イングリッシュ演歌」歌手でもある、シーゲル梶原さんが敬語について語った本である。

帯やカバーには「超実戦的敬語入門」とか「喋りの力がアップする」とか、会話術の本であるかのような宣伝文句が書いてあるけれど、実際には、日本特有の意思伝達手段としての敬語を観察、考察しているまじめな本だ。といっても、取り上げている例の多くは芸能界などのなじみやすいところから取材しているし、まったく堅苦しくなくてとてもおもしろい。

敬語はむずかしいとよくいわれるけれど、子どものころから自然に使っているものだし、だれでも使っているものだから、わたしはむずかしいとは思わない。わたしの祖母や両親は初等教育、中等教育しか受けていない、いわゆる学のないひとたちだが、ごくふつうに敬語を使っていた(日常会話のほとんどに敬語を使う、関西の一地域でのこと)。

敬語は単に尊敬や謙譲の心を表すためだけに使われているのではない。日本語には英語でいう主語に対応するものがない。だから、述語だけで行動の主体をわからせなければならない。そういう表現上の必要があって敬語が使われているのだとわたしは思っている。

それは、たとえば英語母語話者が無意識に冠詞を使い分けているのと同じで、日本語母語話者ならだれでも自然に使っているものであり、勉強しないと使えないほどむずかしいものであるはずがないと思う。

それなのによく敬語はむずかしいといわれる理由の 1 つには、学校で、尊敬語、謙譲語、丁寧語といった、こむずかしい用語を教えて正しく分類できるかどうかを競わせたりすることがあると思う。学校でそんな教育をするから、特定の状況にはいつも 1 つだけの正しい敬語表現があって、自分はその正しい敬語を使えていないのではないかと疑心暗鬼になるのではないだろうか。

方言のことを考えても、特定の状況での正しい敬語表現は 1 つだけではなく複数あるはずだ。極端にいえば人の数だけ敬語表現があるとわたしは思う。そもそも、ふだん自然に使っている会話表現を意識させて分類させるような学校の授業に何か意味があるのか。


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どうぞいただいてください
友人と久しぶりに会って「いま何に関心があるか」という話になった。その友人は「米大統領選だ」といった。「えー、そうなの」と驚いた。わたしは米大統領選に関心がない。

「どうしてそんなことに関心があるの」と聞いたら、「(米民主党有力候補の)クリントン氏とオバマ氏のどちらが大統領になっても米国初の女性または有色人種の大統領となるから」とのことだった。

それはそうだが、民主党候補が大統領になるとはかぎらないし、女性大統領も有色人種大統領も米国以外の国では別にはじめてのことではない。だいいち、まだ 1 年近くも先の話である。

米国人や米国在住の人が米大統領選に関心をもつのはわかる。しかし、日本人なのにその最大の関心事が福田首相のことでも小沢代表のことでも薬害肝炎のことでも年金問題のことでもなく米大統領選というのはどうも解せない。

日本人は精神的にも米国の属国的立場になってしまっていると憂えばよいのか、それとも自国以外のことに関心をもてるのは自国が平和ということだからよいことだと考えればよいのか。
例年クリスマスにはベトナムのふたりの里子にカードを送っている。しかし、昨年のクリスマスには送り損なったので、ベトナムの旧正月に合わせて、昨日、new year's cards(年賀状)を送った。

2 枚のカードを 1 通の封筒に入れて郵便局の窓口で
「グリーティングカード(greeting card)として送ってください」
とお願いしたら
重量オーバーなのでグリーティングカードでは送れません
と言われた。グリーティングカードなら 90 円でベトナムに送れるのだが、25g までという制限があるらしい。

「では、それ以外のよい方法で送ってください」
カードの他に手紙は入っていませんか
「いいえ、カードだけです」
カードには何か書いてありませんか
「ちょっとしたメッセージを書きましたが」
それでは印刷物(printed matter)としても送れませんね。定形外のエアメールで 220 円です

ということだった。

手書きとはいっても a happy new year ぐらいのことしか書いていないのだから、それくらいは大目に見てくれてもいいじゃない、と虫のよいことをつい思ってしまった。

カードを 1 枚ずつ別の封筒に分けて送っていたら、封筒 1 通につき 90 円、つまり 180 円で送れていたわけで、つまらない散財をしてしまった。
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