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サクラ

せっかくサクラ満開の週末だったというのに、東京地方は曇りから雨になってしまった。
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解剖学者の養老先生が「言葉とモノの関係を、ムシの専門用語から考えてみる」という記事で、次のように書かれている。

正しい字があるのではない。「正しい読み方」しかないのである。(-略-)正しい発音があるのではない。正しい聞き方がある。

語弊のありそうな言い方だが、この「正しい」は「本来あるべき」というようなことではなく「多くのひとが共有する」という意味だと思う。

たとえば、「灯り」という字を手で書けば 100 人が 100 人、それぞれ異なる大きさとかたちで書く。重ね合わせてぴったりと合う文字が書かれることはまずない。それが「正しい字があるのではない」ということだろう。それでも、そういう字を読んでわたしたちは「あかり」と読んで意味を正しく理解する。正しい書き方はないのだから「正しい読み方」しかない、というのだろう。

同じように、「あかり」と発音するときに、アナウンサの発音、なまりの強い人の発音、日本語を覚えたての外国人の発音、3 歳児の発音はすべて違うはずだ。それが養老先生のいうところの「正しい発音があるのではない」ということだろう。そういう、個別具体的にはすべて異なる発音を同じ語として認識できることが「正しい聞き方がある」ということだと思う。

わたしたちの経験は、一見同じように見えても個別具体的には前の経験とまったく同じということはありえない。毎日会っている肉親の顔だって、今日見ている顔は昨日見た顔より 1 日分だけ老けているはずだ。そのような具体的には同じでないものを同じと見なすのが、脳、つまり心の機能だということを、養老先生はよく本に書かれている。

それはまあ当たり前のことで、それが「抽象化能力」ということじゃないの、と思う。

ただ、この「異なる」という点に注目したがる人と、「同じ」という点に注目したがる人がいると思う。芸術家は前者だろう。たいていの芸術作品は、世界に 1 つしかない、一回性のものだから。

わたしはたぶん後者で、個別具体的で他人と共有できないことは本人にとってしか意味がない、同じ意味が伝わるのならどういうかたちでもよいと考えているところがある。だから、残念なことに芸術はほとんど理解できないし、英語の発音がよいとか悪いとかいうことにも興味がない。
満開の桜

東京のソメイヨシノが満開になったということだったが、たしかにうちの近くの公園もほぼ満開になっていた。この週末は、花見客でいっぱいになるだろう。
さくら

公園に行ったらソメイヨシノがけっこう咲いていておどろいた。おおぜいの人が敷物を敷いて花見をしていたし、屋台も出ていた。

東京の開花宣言があってから、まだ 4 日ほどしか経っていない。開花宣言から花見ができるほど当地でソメイヨシノが咲くまでには例年はもう少し日数がかかっていたように思ったが。
「タモリ倶楽部」という深夜番組に「空耳アワー」という名物コーナーがある。外国語で歌われているが日本語のように聞こえる歌詞を視聴者から募集して、おもしろいものを日本語字幕付きのビデオ映像で紹介するというものだ。

妻は空耳アワーの映像に日本語の字幕がついていても原語で聞こえることがあるらしい。わたしは字幕がついた映像を見るとその字幕のとおりにしか、つまりこの場合は日本語にしか聞こえない。ところが、画面を見ないで音声だけ聞いていると原語にしか聞こえない。

そう妻にいうと「あなたは文字の人だからねえ」といわれた。

たしかに、文字を読んだり書いたりする仕事がらなのか、あるいは生まれつきそうなのか、わたしには何でも文字を媒介して理解しようとする癖があると思う。人の話を聞くときも無意識のうちに頭の中に文字を思い浮かべて聞いている。だから字幕が目に入ってくるとそれを頭に思い浮かべる文字の代わりにしてしまって、実際に聞こえている音よりも文字のほうを信じてしまうということはあるのかもしれない。

別の理由も考えた。

妻は耳のよい人で英語の聴き取り能力は明らかにわたしより高い。感覚器官に入ってきた情報をありのままに把握しているのだろう。ユングという心理学者は、そういう性格を「感覚型」といった。わたしは自分をユングの性格類型でいうと「内向的直観型」だと思っている。「直観型」は「感覚型」と対極にある性格で、感覚を感覚のまま受け止めることが苦手だ。わたしが絵画や音楽、文学などの芸術一般を苦手にしているのもそれを裏付ける。

そういう性格も、わたしが空耳映像を字幕のとおりに聞いてしまう理由の 1 つかもしれない。
むかしのコンピュータ ゲームには Hit the Enter key とか Strike the Enter key というメッセージがよくあったような気がする。Enter キーとか space bar は他のキーより大きいのでポンと叩くことができるからだろう。しかし、こういう hit とか strike というのを今の仕事の原稿では見たことがない。よく使われているのは、Press the Enter key (Press Enter)という表現だ。

Enter キーや space bar 以外のキー、たとえば Esc キーとか文字のキーを使うときは、どうしたって「叩く」というよりは「押す」という動作になる。だとしたら、Enter キーや space bar だけ「叩く」と表現するのは統一が取れないという事情があるのだと思う。

多くはないけれど、Depress the Enter key という表現もあるようだ。英語ネイティブではないので単なる推測だが、press が「押す」だとすると、depress は「しっかりと押し下げる」という感じかなと個人的には思っている。まあ、depress には depression(鬱病、不景気)の印象があって感じのいい単語ではない。あまり使われないのはそのせいもあるのだろうか。

ちなみに、それぞれを Google で検索してみたら次のような結果だった。

"hit the enter key" の検索結果 約 288,000 件
"strike the enter key" の検索結果 約 1,890 件
"press the enter key" の検索結果 約 1,090,000 件
"depress the enter key" の検索結果 約 601 件

ところで、Press and hold the Alt key and click on the icon というような表現もたまにある。これを「Alt キーを押しながらアイコンをクリックしてください」と訳すと、ちょっとまずい場合があるようだ。つまり、「Alt キーを押す」という動作と「アイコンをクリックする」という動作を同時に並行して実行しなければならないと解釈する人がいるらしい。そういう解釈を避けるためには「Alt キーを押したままアイコンをクリックしてください」と訳すのがよいようだ。
サンシュユ

ウメの花はほとんど散ってしまった。ソメイヨシノはきのう東京でも開花宣言が出たらしいが、あれは靖國神社の話。このあたりではまだ咲かない。いま咲いているのはカンヒ(寒緋)ザクラかこのサンシュユぐらいだ。

稗つき節の「庭のさんしゅうの木」はこのサンシュユのことだと思っていたが、あれは「山椒の木」だという説もあるらしい。
老人性難聴の父に DVD プレーヤを買ってあげた。わたしはなぜか DVD の映像ソフトには字幕があるものだと信じ込んでいて「DVD にはたいてい字幕があるから、字幕で見られるよ」と伝えたら、とてもよろこんでいた。ところが、DVD で字幕を出したり隠したりできるのは洋画だけらしいということを後で知った。古い作品の DVD には日本語字幕の入っていないものが多いらしい。

現状を知らなかったのは自分のせいだが、なぜ洋画だけに字幕を用意して日本映画には字幕を用意しないのか。びっくりするのは DVD 化されたテレビドラマだ。テレビでは字幕付き(字幕チューナでみる場合)で放映しておきながら、DVD 化するときはわざと字幕を外すのだものもあるという。

おやじは時代劇が好きなので水戸黄門の DVD でも買ってあげようと思っていたのだが字幕がないのではなんともならない。制作者の意識の低さに絶望した。というか腹が立ってしようがない。


追記:
字幕翻訳者のすーさんに最近の作品なら日本語字幕があると教わった。またまたわたしの早合点だったようで、良心的な制作者のかたには失礼なことを書いてしまった。お詫び申し上げる。

さらに追記:
少し調べてみたら、すべての作品に字幕をつけることを義務づけようという運動もあるらしい。
「バベル」字幕の願いをつなぐ市民の会
わたしも義務づければよいのにと思う。
国会は DNA(D=道路、N=年金・日銀、A=あたご)でたいへんだそうだ。政治家は DNA という語が好きなのだろうか。大宏池会構想の件で政治家の谷垣禎一さんが、古賀さんは同じ DNA だが麻生さんは違う、というようなことをいったという囲み記事を数日前の新聞で読んだ。中曽根元首相も、首相になったばかりの小泉さんに「同じ DNA を感じる」とかなんとかいっていたと思う。

もっとも、DNA ということばは政治の世界にかぎらず最近いろいろなところでよく見たり聞いたりする気がする。Google で検索してみたら次のような例があった。

名古屋出身のDNAをくすぐる味
日本の名機「XXXX」のDNAを継承した自転車
幸之助のDNAを最も濃く受け継いでいるのが彼だ
ソニーのDNAを受けついだ11人

うーむ。名古屋から、自転車、幸之助、ソニーに至るまで DNA とは… なんだか、すごい。

英語でもこういうふうに比喩で DNA を使うことがあるのかなと思って、Google で "the same DNA" を検索してみた。すると、いちばん最初に The New York Times の 「Building Autos With the Same DNA」という記事が出てきたのでおどろいた。「DNAを継承した自転車」と似た使いかたではないか。ただ、ざっと見たところ、それ以外で DNA を比喩に使っているページはないようだった。

こういうのは、むかしは「血」といっていたのではなかったか。「○○出身の血がさわぐ」とか「同じ血を受け継ぐ」とか。しかし、「血」「血すじ」「血統」というとなんだか優生学を連想させてドロドロした印象があるので、DNA という科学的、客観的な印象のある語がよく使われるようになったのだと思う。

まあ、比喩として文化的伝統のことをいいたいのなら「DNA」でも「血」でも大して変わらないと思う。かつては「血」といっていたものを「DNA」というようになったのは、それ自体が新しい「文化的伝統」なのだろう。

関連記事:
「生物と無生物のあいだ」を読んで
進化しすぎた脳
大賀ハス
ソメイヨシノのサクランボ
生物学的数字
記憶のアポトーシス
「リョウカイ」に「諒解」と「了解」がある。「諒」は常用漢字表外の漢字なので、「了解」は書き換えのための語なのかなと思っていた。その予想どおり、明鏡国語辞典、新辞林では同じ意味の語として説明されていた。ところが、広辞苑第四版では、少し違う意味の語になっていた。

りょう‐かい【了解】レウ‥
さとること。わかること。会得(えとく)すること。領解。「―を求める」「暗黙の―」
りょう‐かい【諒解】リヤウ‥
諒として認めること。事情を汲んで承知すること。諒承。
(広辞苑)


うーん。わかったようなわからないような。「了解する」は understand とか realize、「諒解する」は acknowledge、admit というような感じだろうか。そういわれてみれば、「了解できない」は「不可解」という意味だが、「諒解できない」だと「承諾できない」という意味のような気もする。

そうだとすると、これまでは電子メールなどで仕事を請けるときに「了解しました」と書いていたが、「諒解しました」のほうがよいのかもしれない。


追記:
朝日新聞の用語の手引」では「諒解→了解◎」となっている。これは、一九五六年七月の国語審議会総会で決定した「同音の漢字による書きかえ」に従ったものだという。
先日、電話で DVD を「デー・ブイ・デー」と発音したら通じなかった。

デー・ブイ・デーです。シー・デーのような丸い円盤です」
と説明したら
「ああ、ディー・ブイ・ディーですか。わかりました」
といわれた。

この「ディー・ブイ・ディー」というのが標準的な日本語の発音だろう。D は「ディー」だが V は「ヴィー」ではなく「ブイ」。でも、わたしは電話では D を「デー」と発音する。B 、G、T などと聞き間違われないようにというつもりなのだ。しかし、最近は「ディー」と発音したほうがよく通じるのかもしれないと思った。

そういえば、Z は日本語では「ゼット」と発音される。永井豪のマンガも「マジンガーZ(ゼット)」だったと思う。広辞苑第六版も「ゼット」という見出し語はあるが「ゼッド」「ズィー」という見出しはない。

ゼット【Z・z】
(1)アルファベットの最終文字。
(2)糸の撚(よ)り方を表す語。Z撚りは左撚りのことで、撚りの形がZ字形であるからいう。
(広辞苑第六版)


英語としては「ゼッド」(英国)か「ズィー」(米国)のほうが近い。学校ではどう教えているのだろう。

z
The letter 'z' is called zed in British English and zee in American English.
(Collins COBUILD English Usage)


ただ、この「ゼット」という発音は日本語の電話ではとても有効だと思う。「ズィー」と発音したら G と聞き間違えるひとがとても多くなるだろう。
ブックマーク」は、かつて大きなシェアを誇った Web ブラウザである Netscape の「Bookmark」機能をカタカナにしたものだ。英語の bookmark は「枝折り(栞)」という意味だが、多くの英和辞書がこの Web ブラウザの機能の意味も載せている。

bookmark(er)
〘コンピュータ〙《よく利用するウェブサイトの URL を記録したもの》
(ジーニアス英和辞典)

bookmark
【1】(本のページの間に挾む)しおり.
【2】蔵書票(bookplate, ex libris).
【3】インターネット「ブックマーク:ブラウザにURLを登録すること.
(ランダムハウス英語辞典)

bookmark
しおり (=book・mark・er); 蔵書票 (=→BOOKPLATE); 【インターネット】 ブックマーク, しおり《頻繁に参照するページの →URL を登録していつでもすぐに呼び出せるようにしたもの》.
(研究社リーダーズ英和辞典)


これと同じ機能は後発の Web ブラウザ、Microsoft Internet Explorer にもある。そちらは「Favorites」という。想像だが、当時、Netscape に追いつけ追い越せと考えていた Microsoft 社としては、Netscape 社と同じ用語を使いたくなかったのではないかと思う。

こちらの日本語版では、カタカナで「フェイバリット」「フェイバリッツ」ではなく「お気に入り」と和語で訳された。まあ当たり前といえば当たり前だけれど、安直にカタカナにしなかったのはえらいと思う。「ブックマーク」も最初の段階で「しおり」と和語で訳すことは可能だっただろうし、それなら意味のよく通じるよい訳語だったのに。

しかし、favorite のほうは、英和辞典で引いても「お気に入り」「人気者」「好物」というふつうの意味の訳語しか見つからず、「ウェブサイトの URL を記録したもの」という意味は載っていなかった。そして、これからも載ることはないだろうと思う。なぜなら、いまではもう、Web ブラウザの「ブックマーク」や「お気に入り」は流行らず、「オンラインブックマーク」「ソーシャルブックマーク」といわれるものがよく使われるようになっているからだ。

オンラインブックマークとは、いわゆるブックマークをネットワークでアクセス可能なサーバ上に登録したもので、ソーシャルブックマークとは、そのうち複数のユーザで共有して多くの場合コメントをつけることができるもののことである。こういう複合語になると、「直結しおり」とか「社会的しおり」とかのように和語で訳すとかえって意味不明になるようだ。
オンライン書店の Amazon.co.jp にある「ウィッシュリスト」というサービスが「ほしい物リスト」という名前に変わったそうだ。「ウィッシュリスト」とは、自分の希望のものを登録しておくことで他のひとがその人へのプレゼントの参考にするというサービスだ。

このサービスは初期設定が「公開」で、だれでも名前やメールアドレスから検索できるので、メールアドレスから本名がわかったり、ブログ上の名前から本名やメールアドレスがわかったりしてしまうことがあるということがちょっとした騒ぎになっている。無自覚なまま「公開」の設定で利用している人は注意したほうがよいかもしれない。

ご参考: Amazonの「ほしい物リスト」で本名や趣味がばれる? ネットで騒動に

今回は名前が変わっただけでサービス内容は変わっていないということだから、「ウィッシュリスト」では意味がわかりにくいという声があったのだろう。たしかに、まだ英語を習っていない子どもや、英語アレルギーのある人の中には、カタカナ語で「ウィッシュリスト」となっているだけで「なにいってんじゃ」と思う人もいるにちがいない。

最初に Wish List を「ウィッシュリスト」と訳した人はなぜそのような意味のわかりにくい訳語を選んだのだろう。個人的には「リスト」も漢語にして「ほしい物目録」でよいと思う。
理科系のための英文作法』という本では、英文を書くときに「視点をむやみに移動するな」と教えている。これもおもしろくて役に立つ教えなので、考えかたをご紹介する。

たとえば、次のような文があるとする。

(1) A program was written using the editor.

この文の主語(主題)は a program だが、後半の use の主語(主題)は人である。読者の視点が無意味に移動するのでよろしくない。次のように書くのがよいという。

(2) I wrote a program using the editor.

これで、 「I wrote a program」、「I use the editor」と視点が 1 つになった。

視点を移動させないという意味ではこれでよい。しかし、a program という新しい情報が the editor という古い情報の前に書かれているので、同じ本の「古い情報を前に」という心得には背いている。それも修正すると次のようになる。

(3)Using the editor, I wrote a program.

この本としてはこれが完成形だ。もちろん、1 つの文中だけではなく段落中でも視点はできるだけ移動しないほうがよいとのことだ。これはわかりやすい例なので「そんなふうには書かないよ」とも思うけれど、実際には視点の移動する文をうっかり書いてしまうことはよくあるような気がする。気をつけようと思う。


ところで、これは紹介の本に書いてあることではないが、コンピュータ関係の翻訳にもちょっとおもしろい定石があるので、おまけで紹介する。それは「原文の態がどうであれ、人間の操作は能動態に、機械やソフトウェアの動作は受動態にして訳す」というものである。たとえば、次のようになる。

If Device ID is specified, the system automatically creates a temporary file.

デバイス ID を指定すると、一時ファイルが自動的に作成されます


関連記事:
既知から未知へ
理科系のための英文作法
理科系のための英文作法』という本に、「英作文では古い(既知の)情報を前に書け」という指南がある。おもしろいと思うのでご紹介する。たとえば、次のような文があるとする。

(1) I bought a pen. I gave a woman the pen.
(2) I bought a pen. I gave it (the pen) to a woman.

英語ノンネイティブのわたしでさえ(1)はなんだか奇異に感じる。なぜ(2)のほうが自然に感じるかというと、既知の情報(it/the pen)を先に書いて未知の情報(a woman)を後で書いているからだという。

次の場合はどうか。

(3) I have a sister. I gave her a pen.
(4) I have a sister. I gave a pen to her.

この場合は、(3)のほうがより自然だと思うが(4)でもおかしくない。(4)では未知の情報(a pen)が既知の情報(her/my sister)よりも先に書かれているのになぜ自然に感じるかというと、give という動詞はこのかたちが基本だからだそうだ。

もちろん、give は単なる例で、直接目的語と間接目的語の順のことだけをいっているのではない。同様の理屈でいえば、次のような例でも、(6)のほうが自然だ。

(5) Japan is a small country. Four major islands make up the country.
(6) Japan is a small country. The country consists of four major islands.

なお、実際にはこんなに同じ単語を繰り返してブツ切りに文を並べることはないと思うが、考えかたを示すためということでご理解いただきたい。


同じ理屈を使って、日本語で主部を含めた述部に対する修飾語の順番をどうすればよいかということを考えてみる。

(7) ペンを買ってきた。そしてある女性にそのペンをあげた。
(8) ペンを買ってきた。そしてそのペンをある女性にあげた。

こうしてみると、英語の場合と同じように(8)のほうがやや自然ではなかろうか。

(9) わたしにはがいる。その妹に 1 本のペンをあげた。
(10) わたしにはがいる。1 本のペンをその妹にあげた。

こちらの例のほうが違いが顕著なような気がする。(10)の文はなんだか変だ。

日本語で修飾語を並べる順番については、「長い修飾語を前に出し、長い順に並べる」ということがよくいわれるが、このように既知から未知の順に並べるという考えかたもおもしろいと思う。


関連記事:
理科系のための英文作法
英語屋さんの虎ノ巻
浦出善文 集英社 2001年 11月

「英語屋さん」で有名な浦出さんの 2 冊目の本。「英語屋さん」は話題になったころに読んだはずだが、どんな内容だったか覚えていない。でも、考えかたやものごとの好みが自分と似たひとだと思ったような気がする。この本でもやはり同じことを感じた。

浦出さんは、会社員を経て産業翻訳(実務翻訳)者になったというところも、帰国子女でもなく留学経験もないのに英語を使う仕事をしているところも同じである。経歴が似ているから同じような考えかたをするようになったのか、同じような考えかただから同じような経歴になったのか。

「日本人は『英語ができない』か」という章には、自分の知っている表現をうまく活用すれば話せる、聞き取れないときはあきらめずに聞き返すこと、文法的な説明はあとまわしでよい、英語を読むなら好きなものを読めばよい、書くときは既存の英文をまねることから始めればよい、といったことが書かれている。浦出さんほど英語ができるわけではないが、わたしもほぼ同じように思う。

「英語屋さんの勉強法」という章では、カードを使って単語や表現を覚えるという方法が紹介されている。怠け者でこういう勉強をしたことがない。でも、やってみようかなと思った。

「効果的なビジネス英語術」という章もある。こちらに書かれていることは、わたしにはあまり役に立たないが、いわゆる「ビジネスマン」といわれるひとには役に立つかもしれない。
少し前、「店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。」というQ&A サイトでの質問がブログなどで話題になっていた。

(前略)
私の周りにも何人かそういう人がいて、料理が運ばれてくるたびに「ありがとう」と言ったり、
買い物してお釣りをもらうときに「ありがとう」と言ったりしてました。

見ててイラッとします。会釈ならいいんです。私もするし、感じいいです。でもなんで声に出す?
知り合いでも何でもないのに、馴れ馴れしくない?と思います。
そういう人に限って、何かあったときにねちねちクレームつけたりする。

私自身、コンビニでバイトしてたときに、「ありがとう」と言われたことあります(関西の発音の人が多かったような。。。)
正直、内心で「友達でもないのに何様?」と思ってました。別にお礼言われるようなことしてないし、と。
(後略)


質問者は客が店員に「ありがとう」ということを「馴れ馴れしい」と同時に「偉そう」とも感じるらしい。「馴れ馴れしい」態度と「偉そう」な態度は逆のような気がするのだが、そうでもないのか。

馴れ馴れしい人は、むしろ「ありがとう」とはいわないのではないか。「悪かったね」とか「すまなかったね」という人がいれば、そういうひとは馴れ馴れしいかもしれない。

偉そうな人も、「ありがとう」とはいわないだろう。「大儀であった」とか「ごくろうであった」という人がいれば、そういうひとは偉そうだ。まあ、何もいわない人がいちばん偉そうなのかもしれない。

わたしの育った田舎では、こういう商取引のときには売り主も客も実によく「ありがとう」「おおきに」「すんませんね」と言っていた。人はひとりでは生きていけないわけで、たとえば弁当 1 つ買うにしても、食材や容器を作る人、調理をする人、仕入れる人、そして売ってくれる人がいるから買うことができる。自分とは関係ないように見えても、世の中の人や仕事は互いに関係していて支え合っている。だから、自然に感謝する気持ちになって、それが口に出ているのだと思う。

また、よく知っているわけではないが、欧州や米国のひとたちも thank you などの感謝を表す語をよく使っているような気がする。それには上に書いたような理由もあるだろうが、陸続きでさまざまな人種、宗教、言語のひとが出会うような地域では常に「わたしはあなたに敵意をもっていません」というサインを示す必要があったという歴史や文化にも由来しているのだろう。

つまり、日本の田舎のようなハイコンテクスト社会でも、欧米のようなローコンテクスト社会でも、気軽に「ありがとう」というのは変なことではなくむしろ必要な処世術にちがいない。

質問者も親しい仲間うちでは「ありがとう」を使っているふしがある。「ありがとう」を使うことに抵抗があるのが仲間うち以外の人間に対してのみだとしたら、質問者にとっての世間、社会とは自分の仲間うちのことで、それより広い単位の集合の構成員であるという意識が薄いのだろうと思う。
何か知りたいことのある人が質問を投稿し、それに答えられる人が回答を投稿するという形式のサイトがある。何年も前のことだが、そういうサイトで、若い人が「『ありがとう』の語源はなんでしょう」と質問していたのを見た。それを見て、ちょっとびっくりした。

「ありがとうございます(ありがとう存じます)」は「ありがたいです(ありがたく思います)」のことで、それに似た言いかたは「うつくしゅうございます」「帰りとうございます」「せつのうございます」「おめでとうございます」など、ふだんから耳にしたり目にしたりするだろう。ふつうの日本語だ。小難しくいえば、形容詞の連用形が音便化しているだけだと思う。

そんなのは学校などで習って知ることというよりは日本語を読んだり聞いたりしているうちに自然にわかってくることだと思っていたので、自然にわかってこない人もいるのかとおどろいた。その人には、「ありがとう」という語が「アリガトー」という外来語のように聞こえていたのかもしれない。

形容詞「ありがたい」の語源ということなら、調べたわけでないが、「有り難い」と書くぐらいだから、「有ることが難しい」、つまり、unlikely to be、めったにない、またとない、ということだと思う。


関連記事:
「間違いない」は形容詞である。間違いない
ノーミス
理科系のための英文作法
―文章をなめらかにつなぐ四つの法則―
杉原厚吉 中央公論新社 1994年11月

「理科系のための」と銘打っているとおり、流麗な英文を書くための技術ではなく、誤解されにくい英文を書くための技術についての本である。

著者が重視している文章の特性は、文と文とのつながりのよさ、意味の入れ子構造の正しさ、記憶に対する負担の少なさなどである。理科系のひとらしく、そういう特性を確保するための具体的な技術を仮説として提示し、それを守ることによって、誤読される可能性の低い「安全な」文章を書けるとしている。「安全」を目指すというのが、この本の重要な方針になっている。

たとえば、英文で、文全体を修飾する副詞や副詞句は、文頭、文中、文末のどこに置いてもよいかのように習う。少なくとも学校では、次の 3 つの文はすべて同じと教わるはずだ。

However, his method proved to be effective.
His method, however, proved to be effective.
His method proved to be effective, however.

これらはわたしがいま適当に作った文で、however は一例として使った。nevertheless、naturally、therefore、hence、accordingly のような文を修飾する副詞や as a result とか in spite of that のような副詞句であれば、どれでも同じことがいえる。

英文を書くとき、このような副詞や副詞句を置く場所はどういう指針にしたがって決めたらよいか疑問に思ったり、これでよいのだろうかと不安になったりしたことはないだろうか。この「理科系のための英文作法」には、そういうとき副詞(句、節)をどこに置けばよいかについて明快で説得力のある指針が書かれていて、たいへん勉強になった。もちろん、他の場所に置いたとしても間違いになるわけではないが、著者のすすめる場所に置くのが「安全」ということである。

それ以外にも、「古い情報を前に」とか「視点をむやみに移動しない」とか、日本語を書くときにも応用できる有用な法則が書かれている。おすすめの本である。


追記:
ちなみに、以前読んだある本には、however を文中に挿入すると「かっこよい」とか、英語ネイティブに一目置かれるなどというふざけたことが書いてあった。かっこよく見せるために英語を書いているのではない。


関連記事:
理科系の作文技術
論理思考を鍛える英文ライティング
技術英文の正しい書き方
理科系の作文技術
木下是雄 中央公論新社 1981年09月

「理科系の」と銘打っているとおり、論文などを書く研究者や技術者向けの文章指南書である。わたしは理科系ではないが仕事で技術文書を扱うことが多いので読んでみた。

読み終わって、理科系のひとはこれほどまでに精緻な理論に基づいて文章を書いているのかとびっくりした。この本自体が非常に論理的だしわかりやすい。そして、なによりおもしろい。これまで読んだ文章指南書の中で、この本がいちばんおもしろくて実践的だと思った。

著者は、「逆茂木型」の文章は避けるべきだと主張する。「逆茂木」というのは、敵の侵入を防ぐためにとげのある木の枝を束ねた垣のことだ。同じように、文の前半に枝のような修飾節や修飾句がたくさんある文を、著者は「逆茂木型」という。たとえば、次のような文は逆茂木型だ。

大学で物理学を教える木下さんが 1981 年に上梓して以来多くの読者に支持されており、新書判で場所をとらないので常に机上に置いておくことのできる本が、この「理科系の作文技術」である。

あまりうまい例文ではなくて恐縮だが、これはわたしがいま適当に作った文だ。これを、著者の指南にしたがってわたしなりに修正すると次のようになる。

大学で物理学を教える木下さんは 1981 年にこの「理科系の作文技術」を上梓した。以来、この本は多くの読者に支持されている。新書判で場所をとらないので常に机上に置いておきたい。

上の例と下の例を比較すると、下の例のほうがずっと読みやすいだろう。

著者は、逆茂木型の文章が横行するようになった誘因は欧文の下手な翻訳に慣らされて鈍感になったことだろうと指摘している。末端の翻訳者としての経験からいっても、たしかに、学校で習う英文和訳方式ですなおに訳していると上の例のような文になりやすい。自戒せねばと思った。

この本には、これ以外に、段落の考えかた、事実と意見の書き分けかたから、用字用語のことに至るまで詳細な作文技術が書かれている。どれも納得できることばかりだ。著者の主張する作文技術は、理科系の文章だけではなく一般のひとが報告書や提案書などさまざまな文書を書くときにも広く応用できるだろう。

これだけの作文技術をいきなり身に付けることはできないが、座右に置いて折にふれ開こうと思っている。仕事で何か文章を書くことのあるひとは、ぜひお求めになることをおすすめする。


関連記事:
「『超』文章法」を読んで
大人のための文章教室
文章読本さん江
論理思考を鍛える英文ライティング
技術英文の正しい書き方
最新号の「将棋世界」の巻頭特集で先崎八段が A 級順位戦第 8 回戦のようすを書いていた。その中に次のような一節があった。

昔から、数多の棋士が大勝負を、この手口で切り抜けてきた。そして今、佐藤康光も先人達の顰に倣おうとしている。(太字は引用者)


「この手口」とは、自陣の玉将の上部に駒を多く配置して間違えにくく負けにくい陣立てをするという実戦的な勝負術のことをいっている。たしかに、故大山康晴名人や米長邦雄永世棋聖などはそういう手法を得意にしていたと思う。そして、この将棋では佐藤康光棋王棋聖も同様の手法を使って久保八段に逆転勝ちを収めた。先崎八段は、そのことを、佐藤棋王棋聖が「先人達の顰に倣った」と表現したわけだ。

先崎八段は将棋界の先輩をとても尊敬しているのかもしれないし、佐藤棋王棋聖とは同年代で親しいのかもしれないが、それでも、棋王と棋聖の二冠をもつ、現棋界を代表する超強豪棋士の佐藤康光さんのことを、先人の「顰みに倣おう」としている、と表現するのは、やはり佐藤さんに失礼な書きかたではないだろうか。また、先人の勝負術を「顰み」と表現するのも、先人に失礼なような気がする。

なお、「顰みに倣う」の意味はご存じのかたも多いと思うが、いちおう辞書の説明を紹介しておく。

せいしのひそみにならう【西施の顰(ひそ)みに倣(なら)う】
[荘子(天運)]西施が胸の病のために苦しげに眉をひそめたのを醜女が見て美しいと思い、自分もそのまねをしたが、それを見た人は気味悪がって門をとざした。いたずらに人の真似をして世の物笑いになることにいう。また、他人に見倣ってすることを謙遜していう。単に「顰みに倣う」とも。
(広辞苑 第六版)


月影
月影(つきかげ)。

つぼみはさわやかな黄緑色だが、花は白いので全体的にはやや黄色っぽく見える。この梅園でも人気のある品種のようで、この木の前で立ち止まって写真をとるひとが多かった。わたしも好きだ。

月影とは、月明かりによってできる影のこと…ではなく、「月光」、「月の姿」のこと。

日本語の「かげ」は、shadow(影)のことでもあるし、shade(陰、翳)のことでもあるし、light(影)のことでもある。また、「うわさをすれば影」の「かげ」は figure という意味だろうし、影武者の「かげ」は dummy という意味だろう。日本語を外国語として学んでいるひとにとってやっかいな語だろうなと思う。
time-to-insight という語に出くわした。

かたちだけみると to-insight の部分が不定詞の形容詞的用法のように見えるが、少なくとも辞書で見るかぎり insight に動詞の用法はないようだ。

ネットで調べてみると、数年前にビル・ゲイツ氏が使った表現だそうで、コンピュータを科学技術計算などに使うときに「洞察を得られるまでにかかる時間」ということのようだ。これを reduce(短縮)したり、accelerate/speed(スピードアップ)したりすることが、これからの重要な課題らしい。

しばらくは「time-to-insight(洞察までにかかる時間)」などと訳されることが多いだろうと思うが、ミッションクリティカル(mission-critical)とかピアツーピア(peer to peer)とかいった IT 用語と同様に、そのうち「タイムツーインサイト」などとカタカナ語で訳されるようになるかもしれない。

それにしても、こういう表現を調べるときにインターネットは本当に便利だ。インターネットがなかったら、ほぼお手上げになると思う。
紅梅1
紅千鳥(べにちどり)。

紅梅は白梅より咲くのが遅いようだ。もっとも、うちの近くの梅園では紅梅の種類自体が多くない。写真の「紅千鳥」以外には「紅吾妻」「鴛鴦」ぐらいしか覚えていない。どれも咲き始めたばかりだ。
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