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少し前まで暑い日が続いていたので、甚平を着はじめた。からだが圧迫されなくてとてもきもちよい。ところが、また数日前から雨が降って寒くなってきた。五月雨か。旧暦ではまだ卯月なので厳密には「五月雨」とはいえないか。

ちょっと寒いのを我慢しつつまだ甚平を着ている。甚平はきもちよいのでいったん着だすとなかなかやめづらい。

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甚平
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「訳者冥利」という翻訳学習番組に次のような文が出てきた。

I would have thought you'd be pleased to see me.

簡単な単語だけの英文だ。しかし、(英語を訳すことを仕事にしている身としてはあまり大きな声ではいえないが)わたしは一見してこの文の意味がわからなかった。

こういう口語的な表現は英語圏で生活したことのある人はよくご存じだろうと思う。わたしはせいぜい香港に住んだことがあるぐらいで本当の英語圏に住んだことはないので、残念ながら実生活でこういう文にであったことがない。

番組によればこの文は「わたしに会えてうれしくないの?」と訳せるらしい。番組では構文や連語の解説はしていなかったが、調べてみると I would have thought... で「てっきり...だと思ったのに」というような意味になるようだ。連語というよりも条件節を省略した仮定法のふつうの文で、意訳すればそういう日本語で表現できるということだろう。

うーむ、なるほど。それにしても、Who would have thought... が「だれが...と思っただろう(いや、だれも思わなかった)」という意味になることはわかりやすいけれど、自分を主語にした仮定法は直感的にわかりにくいなあ。

いまはとりあえず頭だけで理解したけれど、考えなくても意味がすっとわかるようになるぐらいまでまだ何回もこの表現に出くわさないと、本当にこの表現を使えるようにはならないと思う。といっても、わたしの仕事にこういう英文が出てくることはこれからも一生ないだろうが。

なお、「訳者冥利」はBSフジで毎週木曜、金曜日の22:55~23:00、毎週土曜日の16:25~16:30に放送している。
インターネットで、「やんごとなき理由」という表現を見た。この人は「よんどころない理由」と間違えたのだろうなと思った。ところが、「やんごとなき理由」でググってみると約 6,410 件ものサイトがヒットした。しかも、広辞苑では次のようになっていた。

やんごと‐な・い【止事無い】
〔形〕[文]やんごとな・し(ク)(ヤムコトナシの転)
(1)捨てて置かれない。よんどころない。後撰和歌集(恋)「―・きことによりて京へ人つかはしけるついでに」
(2)ひと通りでない。特別である。枕草子(276)「身に―・く思ふ人のなやむを聞きて」
(3)(身分・地位などが)きわめて尊い。重々しい。高貴である。源氏物語(桐壺)「いと―・ききはにはあらぬが」
(4)粗末には扱えず、貴重である。恐れ多い。「―・い賜り物」

あらら、間違えて覚えていたのは自分のほうだったのか。
しかし、「やんごとない(き)」なんてことばは、これまで「やんごとないお方」「やんごとない身分」というような使いかたしか見たことも聞いたこともなかった。わたしは少なくとも自分の用事のことを「やんごとなき用事」とはいえないなあ。これからも。
テレビを見ていたら、環境アドバイザーだかなんだかの肩書きの人が
スーパーの牛乳パックは前に陳列してある消費期限の古いものから買うのが消費者の務め
というようなことをいったので、なんじゃそりゃ、と思った。それなら、キャベツは葉の傷んだものから、イワシは元気のないやつから、カキは臭いの強い当たりそうなやつから買えというのか。あほらし。

同じ価格で新しいものと古いものがあれば新しいものから売れるのは当たり前だ。そんなことは、魚の行商をしていたわたしの祖母だって知っていたはずだ。「この魚は傷みかけているからこっちから買ってくれ」といえるわけがないし、ましてや「傷みかけた魚から買うのが賢い消費者だ」というわけがない。

牛乳や豆腐のような日配品は本来は売れる分だけ売るべきだろう。売れ残るということはもともと供給過剰なわけで、むしろそこがもったいない。その分の牛乳で保存のきくチーズでもバターでも作ればよいではないか。それでも牛乳が売れ残ったら、たとえば消費期限が 1 日古くなるごとに 20 円安く売るといったくふうを販売者側がすべきだ。だいいち、消費者の務めとかいうなら牛乳ビンで宅配してもらったほうがよいのではないのか。


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宅配牛乳から考えた
付き合いのある翻訳会社のコーディネータ(担当者)がわたしに送ってくる電子メールの最初の部分には、たいてい「いつもお世話になっております」という挨拶が書かれている。わたしが取引先に電子メールを書くときも、「いつもお世話になっております」という前置きをつける。

ある会社の担当者からの電子メールは、とくにそういう挨拶なしにいきなり用件が書かれていることが多かった。「わかりました」と 1 行だけの返信が来たこともあった。まあ、「失礼な」と怒ったわけではないが、なんだか味気ないな、あまりよい習慣ではないなあと思った。

妻にそう話すと、「そのひと帰国子女なんじゃない」といった。なるほどそうかもしれないと思った。

そういえば、その人は「リンギスト」という職名だった。「リンギスト」はただの翻訳コーディネータではなくて言語の運用に長けた人なのだろうから帰国子女という可能性もかなりあるのだろう。そして、想像だけでいうのは何だけれど、他の日本企業に勤めたことのない帰国子女とか、そうでなくても学校を出たての人は、日本の商慣習というか常識的な日本語の使い方に慣れていないこともあるに違いない。

翻訳者はそう名乗ればすぐにでも始められる仕事なのでいろいろな経歴の人がいると思うが、やはりそういう意味でも会社勤めの経験はあったほうがよい。納品物の品質を高く保つとか納期を守るとかいうことも大切だけれど、たとえ形式的であっても常識的な挨拶語は使ったほうがよいと思うし、「報告、連絡、相談」をまめにして担当者との良好な関係を保つことも大切だ。会社勤めの経験があるひとはそのことをよく理解していると思う。
ポピー

近くの公園にポピーが植えられている。このポピー畑の隣りで本を読んでいたら、おおぜいの幼稚園児が遠足に来て保育士の指導で歌ったり踊ったりしていた。うるさかった。

和名は「ヒナゲシ」。わたしの年代では、アグネス・チャンのヒット曲「ひなげしの花」がなつかしい。かわいらしい歌で、平和な光景を思い浮かべさせてくれる歌だった。

漢名は「虞美人草」。項羽の愛人、虞美人が自決したときの血からこの花が咲いたという四面楚歌の故事は学校の漢文の時間に習った。つまりこの真っ赤な花は血の色ということか。そう考えると、アグネス・チャンの歌から受けるような平和な気分にはならない。

英語の poppy は、ヒナゲシだけでなくケシ一般を指すようだ。つまり、阿片のもとになるケシも poppy というらしい。まあ、そりゃあそうか。日本語でも「雛芥子」だものね。
道具といえばふつう人が使うものだが、TRADOS は翻訳者をこき使う道具だ。

ここのところ TRADOS の使用を指定された仕事をしていたが、あまりに TRADOS の不具合が多くて心身ともに疲れた。わたしの仕事は実は翻訳ではなく TRADOS のハングアップを防いだり入力可能な状態に戻るまで忍耐強く待ったりすること、つまり TRADOS の機嫌をとることだったのだと気がついた。

TRADOS とは原文の繰り返しに対して同じ訳文を繰り返し入力する手間を省いたり、過去の訳語の確認を補助したりして翻訳作業の効率を上げるように設計された翻訳支援ソフトウェアだ。

高価なアプリケーションで Microsoft Office のフルセットより高いと思うが、もし、Microsoft Office に回避不能な不具合があれほど大量にあったら社会問題になってしまうだろう。TRADOS の市場である翻訳業界はあまり大きくないので、そういうことはないようだ。

TRADOS を使わなければならないという理由で多くの優秀な翻訳者が IT 翻訳の分野から離れていった」というようなことを何年も前に書いていたサイトがあった。わたしも TRADOS は大嫌いだが、他の分野に移る実力がないからしかたがない。そのサイトのいうとおり、現在 IT 翻訳分野に残っているのはそういう人間ばかりなのかもしれない。
羽生二冠3勝、名人位奪取に王手 将棋名人戦第4局

昨夕、BS の中継を見たときは森内名人の陣形のほうがのびのびしているしじっくり指せば自然によくなりそうと思ったが、森内名人はちょっと意外なところから仕掛けた。それが無理攻めだったようで逆に自然な流れで負けてしまった。今回の名人戦は、こういったふしぎな流れの将棋が多い。

これで羽生さんから見て 3 勝 1 敗となり、7 番勝負なので名人位奪取に王手をかけたことになる。

「王手をかける」というのはもちろん将棋用語だ。まさにこういう記事にふさわしいとわたしは思うが、こういう言いかたはおかしいという将棋記者もいた。相手を角番に追い込んだということは次に相手をやっつけられる状態に持ち込んだということだが「王手」というのは次に相手をやっつけるぞという手ではないから正しくないというのだ。将棋用語では次に相手をやっつけるぞという手のことを「詰めろ(詰めよ)」というので、そのほうがよいと主張していたと思う。

しかし、「詰めろをかける」ではほとんどの人は意味がわからない。もともと比喩なんだし「王手」というのは「放っておいたら次に王将を取るぞ」という手のことだから、こういう使いかたをしても間違っていないとわたしは思っている。

(念のため書いておくと、将棋の厳密なルールでは「王将を取る」という手は存在しない。王手を防がなければ自動的に反則負けになる。だから「「放っておいたら次に王将を取る」という言いかたはおかしいという考えかたもあるかもしれない。しかし、それは後で無理に作ったようなルールだから一般には王手とは「放っておいたら次に王将を取るぞ」という手といってよいと思う)
時代劇の「暴れん坊将軍」を見ていたら、悪事を感づかれ始めている役人が「いくら上様でも証しがなければ手は出せぬわ」というようなことを独白していた。

たしかに刑事ドラマでは「逮捕したければ証拠を持ってこい」などという同じような台詞を聞くが、そういう法治国家的な視点というか、証拠さえなければ処罰され得ないとか個人の権利や自由は保障されるべきとかいった感覚が江戸時代にあったのだろうかとちょっとふしぎに感じた。たとえばの話、北朝鮮の役人が「いくら将軍様でも証拠がなければ手は出せぬわ」と考えるだろうか。

このドラマは、いつも最後のほうで吉宗が悪人の屋敷に単身で乗り込み相手が吉宗の正体に気付くのだが、悪人は「えーい、であえであえ、上様でもかまわん。たたき切れ」とさけび、悪人の家来衆と将軍との殺陣が始まる。これもずいぶん無茶な話で、将軍と分かっている相手に斬りかかれる武士があの時代にいるわけがない。

まあ、「暴れん坊将軍」は徳川吉宗が街に出て事件を解決するというもともと荒唐無稽な設定のお話だから、まじめに考えてもしかたがない。むかし「仮面の忍者赤影」というドラマは戦国時代なのに怪獣が出てきたりしていたが、そういうシュールなところが逆におもしろかった。「暴れん坊将軍」も、同じように見るべきなのだろう。
昨日の夕方、NHK BS で将棋名人戦第 3 局 2 日目のようすを見た。森内名人が駒得して陣容勝ちをしているというかたちで、いかにも森内名人の好きそうな局面になっていた。挑戦者の羽生さんは、素人目にはあまり意味のなさそうな手を繰り返しているように見えた。

羽生さんは現在いちばん有名な将棋指しだと思うが、意外なことにこれまで 4 期しか名人位についていない。ちなみに、現名人の森内さんや谷川浩司九段はそれぞれ 5 期、中原十六世名人は 16 期、大山十五世名人は 18 期も名人についている。なぜだか羽生さんはこれまで名人位にあまり恵まれなかった。だから、「羽生さん、今期もだめなのかな」と思った。

ところが、けさ起きてから録画していた深夜の速報番組を見て、羽生さんが勝ったということを知り、本当にびっくりした。もともと羽生さんは逆転の得意な棋士だが、相手は受けの名人であり、まさか逆転するとは思わなかった。

これで 7 番勝負は羽生さんの 2 勝 1 敗。今期こそ久しぶりに名人位を獲得するかもしれない。
昨日放送していた簡単な常識を当てさせるクイズ番組で、刀からできた慣用句として「別れた男女が元の状態に戻ることを『元の鞘に戻る』といいます」と紹介していた。

まったくの間違いだとはいわないが、ふつうは「元の鞘に収まる」というだろう。原稿を書いた人やナレーションをした人など放送されるまでに多くのひとがかかわっていただろうに、違和感を覚えた人はだれもいなかったのだろうか。考えてみれば、そういう番組の制作にかかわる人のほとんどはわたしより若いのだろうから無理もないか。わたしも年をとったものだと思った。

念のために Google でフレーズ検索してみると「元の鞘に戻る」が約 8,440 件、「元の鞘に収まる」が約 7,180 件だったので急に自信がなくなった。しかし、辞書を引いてみると「鞘」の項目で「元の鞘に収まる」という例文はあるが、「元の鞘に戻る」という例文はない。やはり「元の鞘に収まる」のほうがふつうの言いかただろう。

くだんの番組では、砂糖壺の砂糖を固まらせないためには食パンの切れ端を入れておけばよいという生活の豆知識も紹介していた。その理由を、食パンが湿気を吸って砂糖が乾燥するからと説明していたのは間違いだろう。砂糖が固まってしまうのは乾燥したからであって、食パンを入れるとさらさらになるのは食パンの水分が移って砂糖が適度に湿気るからだと思う。
「わたくしがやりますです
のような言いかたはわたしは妙だと思う。丁寧すぎる。丁寧語が重なっているわけだから二重敬語の一種なのだろうか。

しかし、
「やっていただけますでしょうか」
のように「ます」+「でしょ」という疑問のかたちなら丁寧語が重複しているのになぜだかあまり奇妙に聞こえない。ふしぎだ。

まあ、本当にこだわるのなら
「やっていただけるでしょうか」
「やっていただけますか」
のほうが正しいのかもしれない。
昨年度放送していた「ちりとてちん」の総集編をやっていたので録画するついでに見るともなくつけたままにしていた。このドラマはかつての「おしん」に並ぶ NHK テレビ小説の最高傑作の 1 つではないかとわたしは思うのだが、視聴率は悪かったらしい。どうにも解せない。

亡くなったおじいさんを想って主人公が土器投げをするシーン、そして主人公が小浜からディーゼルの列車で大阪に出ていくときにお母さんが五木ひろしの「ふるさと」を歌って見送るシーンは、何度見ても泣ける。

わたしも、高校を卒業して日本海の小さな田舎町からディーゼルの列車に乗って東京に出てきた。そのときの自分の気持ちを想い出すし、親はどんなに切ない気持ちで自分を送り出したのだろうと思う。若狭の方言がわたしの田舎の方言とよく似ているのでなおさら感情移入してしまう。

本当はこのドラマの DVD ソフトを買いたいのだが貧乏なのでちょっと買えない。今日明日放送する総集編を録画してその代わりにするつもりだ。
世間は大型連休だそうだが、わたしは 2 社から仕事をいただいてゴールデン ワーキング ウィークとなった。わたしの仕事は出勤しなくてもよい仕事だから自宅でぽちぽちとやる。世間様の景気には貢献できない。

このように人様の休むときに働くのはやはり「怠け者の盆働き」というのだろう。このことばはむかし母親に教わった。いまちょっとネットで調べてみたら地方によっては「ふゆじ/ふゆうじ(不用人)の盆働き」ともいうらしい。まあ、なんであれ、このようなきびしい時代に仕事をいただけるのはとてもありがたい。
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