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今月の 15 日に、20 万隻(セキ)の漁船が一斉休漁したというニュースがあった。そのことについてはいろいろ思うことがあるが、いまは書かない。

わたしの父は漁師だ。やはり 15 日には休漁したと聞いた。しかし、父の舟は船外機をつけただけの小舟だから、数えるなら 1 セキというよりは 1 ソウ(艘)だろうな、と思った。

1 セキ、2 セキというのは大きい船の数えかた、1 ソウ、 2 ソウというのは小さい舟の数えかただ。明鏡国語辞典では、次のようになっている。

せき【隻】(造)
④船を数える語。「貨物船二─」

そう【▼艘】サウ(造)
小さい船を数える語。「三─の屋形船」


日本語で数えるときにソウを使うかセキを使うかという違いは、漢字の表記でいえば、「船」と「舟」の違いに相当するような気がする。「船」は大きい乗りもので「舟」は小さい乗りものだ。


子守男さんが、芭蕉の「奥の細道」の既存の英訳をいくつか挙げて、冒頭の部分の訳しかたを比較するというたいへん興味深い記事をかいていらっしゃる。「舟の上に生涯をうかべ」という部分の「舟」を、ship と訳しているものと boat と訳しているものがあるらしい。

子守男さんは、ship は大きい乗りものを連想するのでどうもしっくりこないそうだ。わたしもそう思う。そもそも、ship と boat はどう違うか。

Collins COBUILD English Dictionary では、次のようになっている。

ship
A ship is a large boat which carries passengers or cargo.

boat
1 A boat is something in which people can travel across water.
2 You can refer to a passenger ship as a boat.


つまり、a ship は「船」で 1 セキと数える、a boat は「舟」で 1 ソウと数える、というふうに理解しても大きく間違ってはいないようだ。

ネットで少し調べてみたら、どうやら、boat を収容できるものが shipで、ship に収容できるものが boat という定義が一般的らしい。ただし、例外的に、大きなものを boat と表現することもある。COBUILD にあるとおり、客船は a passenger boat と表現するのも一般的なようだ。カタカナ語の「ボート」とは意味するところが少し違うので、その点は注意が必要だと思う。
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フリーアナウンサがある職人さんにインタビューするのを見た。その職人さんは、最近、テレビドラマの監修をするためにテレビ局に通ったそうで、芸能人にも会ったし、なかなかおもしろい経験だったとおっしゃっていた。それから話がしばらく進んでから、フリーアナウンサが次のように言った。

さきほど、芸能人の方にもお会いしたというお話がありましたけれども…


「えっ」とびっくりした。「お会いする」は自分がだれかに会うときにへりくだって表現する謙譲表現だろう。職人さんご自身が「芸能人の方にもお会いして」というのならふつうだ。ここではアナウンサが職人さんに対していっているのだから、「お会いになる」と尊敬語を使うべきだった。

とわたしは思うのだが、念のために、他人のことを言及した文に絞るために伝聞の「そう」をつけて、 "にお会いしたそう" を Google で検索してみた。これで、「にお会いしたそうだ」「にお会いしたそうです」「にお会いしたそうで」などがひっかかるはずだ。

すると、意外に多くのサイトが見つかった。「私の父が○○さんにお会いしたそうで…」のように謙譲表現として使っているサイトもあったけれど、「ご本人にお会いしたそうですが」のように、どうみても尊敬表現のつもりで使っていると思われるサイトもある。それらの用例を眺めていたら、それも正しいような気がしてきて、自分の感覚が本当に正しいのかどうかわからなくなってしまった。
国語世論調査:「檄」「さわり」…誤解こんなに 正答率、世代差も--文化庁 (毎日jp)

文化庁の国語世論調査によれば、「ウェブサイト」という語の理解度が 5 年間で大幅に向上したという。わたしは翻訳のときに「Web サイト」と書くことはあるけれど、ふつうの生活で「ウェブサイト」という語を使うことはない。仲間うちでは平板アクセントで「サイト」といっているし、知らないひとや不特定多数に対しては「ホームページ」というようにしている。

「ホームページ」は和製英語だとか、「ホームページ」と「ウェブサイト」は違う、とかいう意見もあるだろうが、それでも、web sites を見たこともないようなひと(が含まれると思われる集団)にわかりやすく説明するには、便利なことばだと思う。

一般の新聞でも「ホームページ」という語を使っているんじゃないのと思って、念のため、Google のニュース検索で検索してみたら、どうやら新聞も最近では「ウェブサイト」という語を使っているようだ。それじゃあ理解度が上がるはずだ。わたしの言語感覚は新聞よりも遅れているらしい。

この世論調査では、どちらの意味だと思うかという質問で「さわり」という語が調べられている。「話などの要点」というひとが 35.1%、「話などの最初の部分」というひとが 55.0% だそうだ。文化庁によれば、「さわり」の本来の意味は「話などの要点」だから多くのひとが誤って理解しているということらしい。しかし、まあどうでもよいことといえばどうでもよいことだが、『本来の意味』というのだったら、「さわり」は「話などの要点」ではない。国語辞典では、次のようになっている。

さわり【触り】サハリ〘名〙
③義太夫節の曲中で、最も聞きどころとされている歌謡的・叙情的な部分。転じて、芸能の見どころ・聞きどころや、話などの最も印象的な部分。「小説の─だけ読む」◇もとは人形浄瑠璃で、義太夫節以外の流派の曲節を取り入れた部分の意。
(明鏡国語辞典)

さわり【触り】
(2)浄瑠璃用語。(ア)先行の曲節を義太夫節に取り入れた箇所。(イ)曲中で最も聞かせどころとされている部分。本来は口説きといわれる部分をさす。(3)話の聞かせどころ。演劇・映画などの見どころ。
(新辞林)

つまり、本来の意味というなら、義太夫節の聞かせどころだし、それが転じた意味としても「話などの聞かせどころ、見せどころ」というのがふつうだろう。「さわり」を「要点(gist)」という意味に使うのは、本来の意味からかなり離れてしまっている。

ちなみに、和英辞典では「さわり」をどう訳しているかご紹介する。

さわり〔触り〕〈名〉
2. (=義太夫の触り)an impassioned passage (in the Gidayu)
(斎藤和英大辞典)

さわり 触り
2 〈(義太夫節の)聞かせ所〉 the climax; 《fml》 a most moving passage.
(研究社新和英中辞典)

climax(クライマックス)という訳語は、日本人には簡単でよいと思う。


関連記事:
ウェヴサイト
ようつべ、ほめぱげ
大賀蓮と毘沙門天 大賀蓮

昨朝 10 時過ぎに、近くのお寺で大賀ハスを撮ってきた。左の写真の石像は毘沙門天。
ハスは、仏さまには似つかわしいと思うけれど、毘沙門天というのはどうなんだろう。

昨年の大賀ハスの写真は関連記事参照。


関連記事:
大賀ハス
「ブラウザ」を「ブラウザー」に・マイクロソフト、カタカナ語の表記を変更

マイクロソフト社はこれまでの「ブラウザ」「コンピュータ」という表記を「ブラウザー」「コンピューター」と変更するとのことだ。すべての企業が足並みをそろえるわけではないだろうから、技術翻訳者やテクニカルライタにとっては余計な気遣いの増えるやっかいなことになる。

マイクロソフト社は、「より自然な発音に近い表記を採用する」といっている。しかし、一般利用者はマニュアルに「ブラウザ」と書いてあるか「ブラウザー」と書いてあるかを大して気にせずに、自分の好きなように発音しているのではないか。「インストール」と書いてあっても「インストロール」と発音しているひとさえいるそうだし。発音ではなくて「表記」の統一が目的のスタイルガイドだろうに、過去の文書と表記の統一がとれなくなってしまってもかまわないのかなあと思う。

そもそも、「コンピュータ」を表記どおりに語尾を延ばさず発音するのは不自然なのだろうか。英国では語尾の er や or を延ばさない(日本人には延ばしているように聞こえない)と習った。カタカナ語は日本語だから英国などの英語の発音に似せる必要はないけれど、少なくとも英国系のひとは、語尾を延ばさない発音を不自然とは思わないだろうと思う。


過去の関連記事:
愛のメモリ
少し前、NHK 「プロフェッショナル 仕事の流儀」で森内俊之さんと羽生善治さんの名人戦を取り上げた放送があった。録画したままにしていたのをやっときのう見た。

第一局から第六局までの投了の場面が映されていて、とてもきれいな光景だなと感じた。「投了」というのは将棋や囲碁で自分の負けを宣言することだ。森内さんも羽生さんも「負けました」とはっきり発声して頭を下げていた。

将棋や囲碁のように敗者が「負けました」と宣言することで終了する競技は、あまり多くないような気がする。麻雀は勝者が勝ちを宣言するし、野球、相撲、柔道などでは審判が勝ち負けを宣言する。チェスは自陣の King を横倒しにすることで負けを宣言するようだ。

「負けました」といって頭を下げるというのは、かなり屈辱的な行為だ。しかし、将棋で負けるのには外的要因はまったくない。負けたのはすべての自分の責任であって自分で負けを認めるのはしかたがない。

こういう「潔さ」はとても大切だと思う。最近は潔くない事件が多い。食品偽造をしている会社の社長は事件が発覚してもなかなか自らの非を認めようとしない。見つかるまではよい目を見てきたのだから、見つかってしまったからには「すみません。たしかにやりました」といって謝る気にはならないものだろうか。わたしならそうする。

まあ、そんな潔いひとなら最初から不正なんかしないか。まじめに一生懸命に仕事して、それでも倒産したらそれはそれでしかたない、という態度も 「潔さ」のひとつだ。潔く生きようという気がないから、不正なことでもなんでもしようとするのだろう。

「負けました」と頭を下げることは子どもや慣れないひとにはつらいことかもしれないが、実は気持ちのよいことでもある。子どものときに将棋を習うのはそういう感覚を知るのにとてもよいと思う。
YOMIURI ONLINE:NHK、アナログ放送にロゴマーク--地デジ完全移行へ告知

NHK は、アナログ放送の画面右上にロゴマーク、画面下部にアナログ放送終了を告知するテロップを流すという。原則として全番組で表示するというから NHK スペシャルでも映画でもコンサート中継でもそういうテロップを流すのだろう。

映像の仕事にたずさわっているひとたちにとって映像というのはとても大切なものだろうと思っていたのだが、このニュースを読んでテレビの世界というのはそうでもないのだなあと思った。

こういうのは、例えていえば、上映中の映画にテロップを流すとか、美術館のすべての絵画に広告バナーを貼り付けるとか、クラシックの演奏中に CM を流すようなものだと思う。映画監督でも画家でも音楽家でも、大切な自分の作品にそのようなことをされることを許さないだろう。NHK の番組を制作しているスタッフはそういうことをされてもかまわないのだろうか。

もっと問題だと思うこともある。わたしの父のように字幕チューナーを使って聴覚障害者向けの放送字幕を見ているひとの場合、字幕がそのテロップとかぶるのではないかということだ。かぶらないように字幕の位置をずらすという措置をとるかもしれないが、そうすると今度はひとの顔の上に字幕が重なって表情が見えず番組の流れがわかりにくくなったりする。わたしもときどき放送字幕を見ているので、そのようになったときのうっとうしさがわかる。

そんなに告知が必要だというのなら、民放の CM と同じ方式で、定時のニュースの時間に 1 分でも 2 分でも使って告知用のコーナーを作ればよいのに。
スポーツ報知:常用漢字改訂、「俺」で大モメ

記事によれば、文化審議会漢字小委員会では「(『俺』を)子どもに教えるべきものか」という意見があるらしい。なぜ子どもに教えるべきでないと思うのだろう。下品ということなのか。「俺」って下品かなあ。広辞苑には、「卑語」というのか、下品なことばとは書かれていないが。

おれ【▼俺・▽己】〘代〙一人称の人代名詞
[類語分類]人称/私わたくし・わたし
くだけた場面で自分を指し示す語。「─とお前の仲じゃないか」◇多く男性が使う。
(広辞苑第六版)

このことばは下品、という個人の感覚で言っているのなら、差別語のことば狩りよりもひどいと思う。まあ、仮に下品なことばだとしても、現に使われていることばを教えないというのは妙な話だ。

「俺」という一人称は、わたしは使わないけれど、なぜか読めるし書ける。本宮ひろ志さんのマンガ、「俺の空」のおかげだろうか。「俺の空」に限らず、「俺」という漢字は、いまでもマンガの中でたくさん使われているだろうと思う。マンガは仮名が振ってあるから、マンガで漢字を覚える子どもは多いだろう。そう考えると、文化審議会漢字小委員のこの発言はいかに浮世離れしていることか。


大マスコミに載るわけでもないわたしのやるような翻訳の仕事でも、基本的には常用漢字以外は使わないことになっている。だから、たとえば、「完璧」は「完ぺき」とか「完全」、「活かす」は「生かす」と書くことになる。

「完璧」の「璧」という漢字には「ペキ」という読みがないということらしい。まあ、「完璧」なんていうことばはもともと使わないけれど。また、「使えない社員を生かす」と書くと、「使えないけれども給料をやって生かしておいてやる」と、会社が生殺与奪の権をもっているような意味になってしまいそうだ。でも、まあ、しかたない。なんとも不自由なことだ。
翻訳会社でチェッカーの仕事をやっている派遣社員の若い友人がいる。今年いっぱいで派遣の仕事を辞めて、わたしと同じようなフリーランスの翻訳者になりたいとかねてからいっている。昨日、その友人とひさしぶりにあって話をした。

彼のいまの派遣先での仕事は、最初のうちは、原文(英文)と訳文(日本文)を突き合わせて誤訳を見つけるという作業だったらしい。そのころ彼に会ったときは、翻訳の勉強になります、とよろこんでいた。ところが、昨日彼がいうには、最近は原文を見ずに訳文だけを見て「てにをは」の間違いを見つけるような仕事ばかりやらされているんですよ、それでは翻訳の勉強になりませんよ、とのことだった。

彼はそうはいわなかったが、日本語の間違い探しをしたってしょうがない、日本語なんてだれでも書けるじゃん、それより英文の意味が正確にわかるかどうかのほうが大切でしょう、と思っているように感じた。もちろん英文の意味がわからないと翻訳はできない。しかし、英文の意味を完全に理解してさえいれば、日本人ならだれでもその意味内容を適切な日本語で表現できるかというとそんなことはない。

わたしも翻訳の仕事をやろうと決めたときは英語の勉強あるいは翻訳技術の勉強ばかりしていた。しかし、最近は日本語の勉強ばかりしている。なぜか。それは、英日翻訳は「日本語を書く」仕事だからだ。翻訳というと外国語に関わる仕事という印象が強くて日本語力というものはあまり意識されていないけれど、日本語に訳す仕事では実際に顧客に渡す最終納品物はすべて日本語で書かれた文章なのである。彼の仕事は無駄どころではない。お金をもらいながらとてもよい訓練をさせてもらっているのだと思う。そう話したが、どうもピンときていないようだった。

本を読んでいて、ああ、そうそう、そうだよね、と思うことがある。つまりその本の著者と自分は同じことを考えていたわけだが、作家はそれを実にうまく日本語で表現する。もし自分がその同じ考えを書くとしたら、とても作家のようには書けないといつも感じる。当たり前だが、日本語でものを書くのにも上手下手があるのだ。理想的な英日翻訳者とは、英文を読んで正しく理解する技術を備えた「作家(日本語を書くプロ)」だと思う。わたしも精進しなければならない。
国民年金のことで、「年金ダイヤル」という番号に電話した。ところが何を聞いても社会保険事務所に聞いてくれという。そこで
「この年金ダイヤルというのは何のための番号なんですか」
と聞いたら
初めて年金を受給するかたからどういう書類が必要かといった質問をいただいたときにそれに答えるための番号です
とおっしゃった。

うーん、知らなかった。「年金ダイヤル」とはそういう番号だったのか。「年金ダイヤル」というのは、年金についての一般的な相談を受け付けている窓口なのかとわたしは思っていた。

それでも、性懲りもなく、そういえば年金をクレジットカードで払えるようになったはずだ、その手続きについて教えてくださいと聞いてみた。すると、おどろくような回答がかえってきた。

「クレジットカードと年金手帳を持参して社会保険事務所に行ってください」
「えっ、社会保険事務所にクレジットカードを持っていって手続きするのですか」
「はい。年金手帳も忘れずに持っていってください」
「あのお、郵送で手続きできないのですか」
「はい。郵送では手続きできません」

最近はいろいろな公共料金などもクレジットカードで支払えるようになっているが、クレジットカードを持参して事務所に行かないと手続きできないなんて話は聞いたこともない。あとでネットで調べたら、案の定、申込書を郵送すればよいということがわかった。なぜわざわざ嘘を答えるのかどうにもわからない。知らないのなら「わかりません」と答えればよいのに。

フリーダイヤルではないのでこちらが電話料金を負担している。自分の時間を使ってわざわざ電話している。その結果、嘘を教わった。なんのことはない、電話しないほうがましだった。
テレビのニュースキャスターが配偶者のある異性とラブホテルに入ったところを雑誌記者に見つかり、そのせいで番組を降板するとかいうニュースがあった。けしからん、破廉恥だ、などと思っているひとはどのくらいいるのだろう。ほとんどのひとはおもしろがっているだけなのではないか。傍がおもしろがって騒ぐことでそのひとが仕事を辞めざるを得なくなったのなら、まるでいじめのようだ。

こういうときに「けしからん」とかいって異様に怒るひとは、本人は意識していなくても、自分もやってみたいという気持ちがどこかにあるのだろう。ふだんはそれを一生懸命に抑えているから、抑えていないひとを見ると自分の嫌な部分を見ているようで腹が立つ、ということではないかと思う。そういう願望のあまりないひとは、「なんでまたそんなことをするかなあ」とふしぎに思うだけだろう。

何某と何某が結婚しました、と国家に届けるのは「手続き」だが、色恋は手続きでも理屈でもない。人間は弱いから、いけない恋をしてしまうこともあるだろう。キャスターはニュースを伝えるのが仕事であって私生活と仕事は関係ない。そもそも、一市民の個人的なできごとがこれほどおおっぴらに発表されるというのもふしぎなことだ。もちろん不倫だから関係者の間ではもめごとになっているだろう。でも、そんなことは関係者の間で解決してくれればそれでよいと思う。わたしには関係ない。
ちり紙はなぜちり紙というのだろうと思ったら、「塵紙」ということらしい。

ちり‐がみ【塵紙】
(1)楮(こうぞ)の外皮の屑で製した紙。表面に塵滓(かす)がある。鼻紙または落し紙として用いる。
(2)一般に、鼻紙や落し紙に用いる紙。ちりし。
(広辞苑第六版)

こうぞの皮の屑で作るということだから、再生紙ではないにしても廃物利用のようなものなのだろう。ちり紙というのは最近あまり見なくなって巻紙状のトイレットペーパーとかティッシュペーパーがよく使われている。それらはバージンパルプを売りにしているものが多い。それと比べ、むかしのひとはものを無駄にしない節約の思想を自然にもっていたのだなあと思う。

ちり紙のうちトイレで使う紙は便所紙という直接的な名称もあるが、「落とし紙」「清め紙」とやや婉曲的にいうこともある。英語では toilet paper、sanitary paper、bathroom tissue がふつうのようだが、辞書で調べてみるとやはりいろいろな俗称があるようだ。

ass-wipe、buttwipe、bumwad。直接的な言いかただ。ass、butt、bum はどれもお尻の俗称。

bumf。退屈な文書、公文書のことらしい。公文書から落とし紙という意味になったのか、それとも落とし紙の意味が前にあって公文書の意味があとからできたのか。

fodder。まぐさのこと。むかしまぐさを落とし紙に使っていたことがあるのだろうか。あるいは「絶えず補わねばならないもの」という意味もあるらしい。たしかにまぐさも馬を飼っていたら「絶えず補わねばならないもの」なのだろう。そこから落とし紙という意味ができたのか。また、この語には「弾薬」という意味もある。

ammunition(弾薬)、six by four(6 インチ×4 インチ)、army form blank(army form は軍歴記録用紙)。これらは、軍隊での俗語らしい。fodder や ammunition の「弾薬」が落とし紙の意味になるというのは、常に補充が必要なものだからなのだろうか。six by four という語もおもしろい。むかしの軍隊の落とし紙の大きさが 6 インチ×4 インチだったのだろう。いまもそうかもしれないが。
星新一さんのショートショートに、家から出ずに電話を使って生活をする男の話があった。その当時は家から一歩も出ずに生活するなんてことは SF の世界だったが、いまの自分はそれに近い生活をしている。仕事の依頼も原稿の引き渡しも納品もすべて電子メール、報酬は銀行振り込み、買い物はネット通販である。気がついたら何日も家から出たことがないということがある。これでは身体に悪いと思うので、時には公園や近隣施設に遊びに行くように意識して心がけている。

はやりの『住所パワー』で自分の住所を点数化してみたら、2,221pt で B クラスということだった。まあまあ便利で住みやすいところなのだろう。

実際、いまの住環境は気に入っている。東京の郊外で自然の多いところだ。道路に面していないので昼も夜も車の音がしない。その代わり、子どもたちの遊ぶ声、鳥の声、虫の音などが聞こえる。

歩いていけるところに公共図書館、郵便局があり、自転車圏内にスーパーマーケットが 5 つぐらいある。数百メートルの範囲内にコンビニエンスストアがたくさんあり、いちばん近いところは徒歩 2 分ぐらいで、酒、たばこ、銀行 ATM を 扱っている。都内最大級の公園や日帰り温泉も自転車圏内にある。

不満をいえば、デパートや銀行がないことだが、電車で 10 分ぐらいのところにそれなりの街があるし新宿や渋谷にも 30 分以内で行けるのでそれほど困らない。それに、最近はネット通販やネットバンキング、コンビニの ATM を利用することが多くなっているので、デパートや銀行の実店舗に行くこともあまりなくなった。

これで在宅の仕事をしているのだから車などまったく必要ない。だから、妻もわたしも免許は持っているが自動車は持っていない。仕事で車を使っている人は別として、このあたりに住んでいてマイカーを持つというのはぜいたくすぎると思う。環境保護団体にはそういうところを指摘してもらいたい。
少し前、どうも身体が疲れるといって、妻が 100 円ショップで入浴剤を買ってきた。小袋が 6 つほどセットになったもので、それぞれの小袋に「登別」「箱根」「草津」というふうに有名な温泉の名前がついている。ふーん、と思って袋の裏側を見たら香料と色素以外の成分はどれも同じだった。こういうのは誇大広告、虚偽広告にならないのか。まあ、氷イチゴや氷レモンにイチゴやレモンが入っていないのと同じようなものか。あれも砂糖蜜に色をつけているだけだからなあ。

この入浴剤が案外よかった。きもちいいし身体もよく温まるような気がする。でも、6 袋だけなのですぐに使い終わってしまった。今度はバスクリンのようなちゃんとした入浴剤を大きな容器で買ってこようと思った。そのほうが 100 円ショップで買うよりお得だろう。ところが、その後なかなかドラッグストアに行く機会がなく、けっきょくまた以前のように入浴剤を入れずに風呂に入っていた。

それからしばらくして、ああ、台所の重曹を入れてみるか、と思い立った。重曹というのは、知らない人は知らないかもしれないが、アルカリ性の粉末で、ナスなど植物の色をあざやかにしたりタンパク質をやわらかくしたりするのに使われる。あるいは、ケーキなどのふくらし粉(ベーキング・パウダー)にも入っている。多くの温泉や入浴剤の主成分は炭酸水素ナトリウム、つまり重曹と同じなので、入浴剤として使えるだろうと思ったわけだ。

で、入れてみたのだが、無色透明で香りもないので入浴剤を入れている気がしない。風呂から上がった妻に、きょうの風呂いつもと何か違ったかいと聞いてみても「えっ、何が」と言われたぐらいだ。でも、偽薬効果かもしれないが、わたしには、ただのお湯よりも温まるし肌もさらさらするように感じられる。また、浴槽もあまり汚れないような気がする。重曹を掃除に使う人もいるくらいだからそれは当然かもしれない。だから、いまでもときどき風呂に重曹を入れている。まあ、早くバスクリンか何かを買ってくればよいのだが。
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