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「numbe3s」という米国ドラマを見ていたら、何やらむずかしいそうなことをいう数学者の弟に対して、兄の FBI 捜査官が Bottom-line me! と叫んだので、へえ、と思った。

bottom line というのは決算表の最終行のことで、日本語の「帳尻」とちょっと似たことばだ。「帳尻」は帳簿の最後のことだが、それから派生してつじつまとか話の結末という意味もある。同様に英語の bottom line にも核心とか要諦とかいった意味がある。これは英語学習者にはよく知られたことだろう。

おもしろいと思ったのは、この表現を人(me)を目的語とする動詞として使っていたことだ。このドラマでわたしが聞いた bottom-line me! というのは、たぶん、Give me the bottom line! というのをさらに縮めた表現で「俺にわかるように要約してくれ」「つまりどういうことなんだ?」という意味だと思う。

動詞としての bottom-line はオンラインの英辞郎には収録されていないが、ランダムハウス英語辞典や研究社リーダーズ英和辞典には載っている。

bottom-line
■v.i.,v.t.収支[コスト,要点,結論]をはっきり示す.
(ランダムハウス英語辞典)

bottom-line
vt. 《口》 …に結論を出す, 決着をつける.
(研究社リーダーズ英和辞典)

しかし、これらは「(ものごとを)はっきり示す」とか「(ものごと)に結論を出す」ということだろうから、「わたしに結論を言ってくれ」という英文は Bottom-line (it) for me! になりそうだ。

Give me the bottom line! という意味の Bottom-line me! を説明すると「(人)に結論をいう」ということだ。かなり新しい口語なのだろう。ちょっとおもしろいと思ったのでご紹介した。
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石原都知事:北京五輪開会式の首相を批判 (毎日新聞)

ちょっと古いニュースだが、福田首相が「まあ、頑張ってください。せいぜい頑張ってください」と五輪選手を激励したのに対して石原都知事が「『せいぜい』とはどういうことかね」と批判したという。

広辞苑第六版によれば、「せいぜい」の意味は次のとおり。

せい‐ぜい【精精】
[二]〔副〕
(1)力の及ぶ限り。精一杯。「―努力します」
(2)十分に多く見積もっても。たかだか。「―三日もあれば出来る」

(1)の意味で言ったのだとしたら、福田さんはとくに妙なことを言ったとはいえない。しかし、石原さんは「せいぜい」を(2)のような否定的な含意のある表現として受け取ったようだ。辞書での定義はともかく、「せいぜい頑張ってください」といわれたら、わたしもあまりよい気はしない。つまり、石原さんと同じ語感を持っている。

ところが、和英辞書を見てみるとおもしろいことがわかった。石原都知事の生まれる前、昭和 3 年に発行された辞書の復刻版「New 斎藤和英大辞典」には「せいぜい」の訳語は次のように書かれている。

せいぜい〔精々〕
〈副〉1. (=精いっぱい、なるべく)as much as possible; with all one's might; with might and main; to the best of one's ability; to the utmost of one's power

これは、「できるだけ」「力のかぎり」という肯定的な意味だろう。この辞書の編者である斎藤先生は「せいぜい」をそういう意味だと思っていたようだ。

ところが、比較的新しい辞書、「ビジネス技術実用英語大辞典第4版」では次のようになっている。

せいぜい【精々】
◆at best;〔文語〕at the best; 〔強調〕at the very best 最善[最高, ベスト, 〔意訳〕限度]で(も); せいぜい; たかだか, 精一杯[泣き泣き]やったところで, 関の山で, どう頑張ったところで; 良くても; 一番良く[多く]見ても; どうひいき目にみても

これらの表現は、「よくても」「どんなにうまくやったとしても」という、否定的な意味だ。

つまり、昭和 3 年に辞書を編纂した斎藤先生は「せいぜい」を「力のかぎり」という肯定的な意味だと解釈しており、平成 15 年に辞書を編纂した海野さんは「どんなにうまくやったとしても」という否定的な意味と解釈しているように思われる。これは、時代を経るにつれてこの言葉が肯定的な意味合いから否定的な意味合いに変わってきたということではないだろうか。

いずれにせよ、福田さんは、お国のために実力を超える力を出せ、とはいいたくなかったから、実力を十全に発揮せよ、という意味で「せいぜい頑張ってください」いったのだとわたしは思う。石原さんの批判はちょっと的外れだったかもしれない。
糊づけが好きで甚平はもちろんタオルにも下着にも糊づけする。妻はバリバリのタオルをいやがっているが、わたしは気持ちがよいと思っている。

衣類につける糊は、英語でいうと starch だ。コーンスターチの「スターチ」、つまり、デンプンのこと。こういう単語にありがちなことだが、「糊をつける」という動詞もそのまま starch である。

舌切り雀は糊をなめて舌を切られたわけだし祖母がよくお米を煮詰めて糊を作っていたこともあり、衣類に糊をつけるというのは日本古来からあるのだろうという印象がある。西洋ではどうかというと、wikipedia の starch の項に次のように書かれている。

Starch was widely used in Europe in the 16th and 17th centuries to stiffen the wide collars and ruffs of fine linen which surrounded the necks of the well-to-do.
Starch - Wikipedia, the free encyclopedia

西洋でもかなり古くから行われていたようだ。ひょっとすると、江戸時代ぐらいに西洋から日本に入ってきた習慣だったりするかもしれない。

衣類に糊をつけると堅くなってパリッとするし糊がとれるとやわらかくなる。そこからの連想だと思うが、英語では、starch に「堅苦しさ」とか「元気」とかいう意味があるようだ。

He is so full of starch he can't relax. 彼はこちこちになっていてくつろげない.
drain [or take] the starch out of a person 人の元気をなくさせる,無気力にする.
(ランダムハウス英語辞典)


ここ何年か、龍の絵のついた黄色の財布を使っている。それに気付いた友人たちは「意外なものを持っているね」と一様にいう。

黄色の財布というのは風水でお金の貯まる縁起のよい財布ということになっている。わたしは宗教も超能力も幽霊も UFO も血液型性格占いも信じない変わり者だと友人たちに思われているから、友人たちはわたしがこういう風水財布をもっていることを意外だと感じるようだ。

別に風水を信じているからこの財布を買ったというわけではない。数年前、それまで使っていた財布がダメになったときにたまたま見つけたこの財布が安かったので買った。財布の中に入れるものには大いに興味があるけれど財布自体はただの入れものだから本革だろうが合成皮革だろうが黄色だろうが黒色だろうがあまり気にしない。そういう意味で、この風水財布を使っているのは逆に自分らしいと思っている。
水戸黄門の再放送を見ていたら、ある商人が買い占める製品のひとつを「三陸昆布」といったので、「あらら、やっちゃったな」と思った。意地悪く見ているわけではないのだが、なぜかこの番組ではよく間違いを見つける。

「三陸」とは陸奥(青森)、陸中(岩手)、陸前(宮城)のことで、リアス式海岸として有名な三陸海岸のある地域だ。しかし、陸奥、陸中、陸前の三国は、明治初期にそれまでの陸奥国が分割されてできた国名である。水戸黄門は江戸時代初期のお話だから、まだ「三陸」という呼び名はなかったはずだ(と思う)。
あるサイトの掲示板で自分のことを「就活中の身」と投稿していたひとがいた。学生同士の会話で「就活」という語を使うのはよいと思うが、不特定多数のひとに読んでもらうための投稿で「就活」なんて隠語を使わなくてもよいのにと思った。

もっとも、わたしが就職活動をしたのは数十年も前のことだし、就職活動をしている子どもがいてもおかしくない歳だが子どもはいない。だから、こういう語に疎いだけで、わたしが思っている以上に世の中でよく使われている語なのかもしれない。

わたしが大学生のころは「就職活動」といっていたと思う。略さなければならないほど長たらしい語ではないと思うが、いつごろからこのようにいわれるようになったのだろうか。辞書を引いてみると、広辞苑第六版では見出しになっていた。

しゅう‐かつ【就活】 シウクワツ
就職活動の略。卒業をひかえた学生などが、就職のために、会社を訪問したり情報を集めたりすること。

ただし、同じ広辞苑でも、第四版には収録されていなかった。新しい語であることはたしかだろう。

現在「就活」中のかたには、仲間うちでの会話以外でこのような略語を使用しないほうがよいと申し上げたい。軽薄な印象を与えたり、仲間うちだけでしか通じない語をどこでも通じると思い込んでいる想像力の欠けたひとと思われたりする可能性がある。だいいち、就職活動というのは本人は人生の一大事と思っているかもしれないが、たいていの場合、他のひとにとってはどうでもよいこと(何もしてあげられないこと)なのである。
「説明させていただく」「本日の司会を務めさせていただく」というような、「(さ)せていただく」という言いかたがある。この例では「説明する」や「務める」の謙譲語であるかのように使われているが、本当にそうだろうか。

「説明させていただく」は「説明する」の謙譲語ではないと思う。しいていえば「説明させてもらう」の謙譲語だ。「説明する」と「説明させてもらう(いただく)」は同じではない。たとえば、「車に乗る」と「車に乗せてもらう」はまったく違う意味になる。相手の許可を得て、あるいは相手の好意に甘えて自分が得になることをするというのが「せてもらう(いただく)」ということだろう。

「せてもらう」というのは最終的に本人が得をする行為だから、それ自体はへりくだった表現ではないような気がする。「いわせてもらえば(いわせていただけば)」というような言いかたがあるように、あなたがなんといおうと勝手に、という含意を感じる場合さえある。

たとえば、次の例(太字はたんご屋)。

女だてらにだいそれたさいころいじりをやって、お米の代なりとかせがせていただこうとしたのがまちがいのもとでござりました。
(佐々木味津三『右門捕物帖』)

だれかに許可を得てかせごうとしたわけではないだろうから、「かせがせてもらう=勝手にかせぐ」という意味に近いような気がする。

次の例はどうか(太字はたんご屋)。

私たちだって、ただでものを食べさせていただこうとは思っていません
(太宰治『やんぬる哉』)

これは、「(相手の好意によって)ただで食べさせてもらう」ということで、「車に乗せてもらう」と似た言いかたかもしれない。ただ、これだって、「ただで食べてやろう(と思ってはいない)」という意味にとれなくもない。

もちろん、本当の意味で「せてもらう」といいたいことはある。他人の家にいるときに急用を想い出して「すみませんが、ちょっと電話をかけさせてもらえますか(いただけますか)」というような場合だ。しかし、「説明する」とか「司会を務める」のような自分の意思で行う行為を「説明させていただく」とか「務めさせていただく」などというのは謙虚どころか傲岸だと思われる可能性もあるかもしれない。

「説明する」を謙譲語(および丁寧語)にするなら「ご説明します」「説明いたします」といえばよいと思う。「司会を務める」はそのまま謙譲語にするのがむずかしいけれど、「司会を務めます」と丁寧語だけにするか、「司会をいたします」と言い換えることはできる。

参考:
文化審議会「敬語の指針(答申)」


関連記事:
ご説明していただく
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妻とテレビを見ていたら、大学の先生が説明したのをうけて、司会者が
「先生にご説明していただきましたように」
いった。「なんじゃそりゃ」とひとりごとをいったら、「何が変なの」と妻はふしぎそうだった。

「『ご説明していただきました』というのは、別にもっとえらいひとがいるときの言いかたじゃないか。
たとえば、大学の先生と天皇陛下がいたとして、天皇陛下に対して先生に説明をしてもらったのだったら、『陛下に先生からご説明していただきました』といってもよいけれど、この状況では先生がいちばんえらいひとなんだから、『ご説明していただきました』じゃあ変だ。
この場合は『先生がご説明になりましたように』か『先生にご説明いただきましたように』が正しいと思うよ」
というと
「えー。『ご説明していただきました』でわたしには何の違和感もないけれどね」
といわれた。

うーむ、と困ってしまった。こういうのは本来は感覚の問題なのでそう思わないといわれてしまうと、理屈で説明するのはむずかしい。いろいろな例を挙げて説明したのだが、なかなか納得してくれなかった。けっきょく、次のようにいったら、納得してくれたようだった。

「『ご説明する』というのはへりくだる言いかただよね。たとえば、『わたくしがご説明しましょう』とか『社長にご説明してください』とかいうでしょう。だから、『ご説明していただきました』というのは、『だれかもっとえらいひとにご説明する』という行為をやってもらった、ということになるじゃないの」
サルスベリ

公園で百日紅の写真を撮ってきた。青い空、白い雲に紅い花がきれいだった。

「紫陽花(アジサイ)」や「向日葵(ヒマワリ)」なら字をにらんでいるうちに読みかたがわかることがあるかもしれないが、「百日紅」の「サルスベリ」という読みかたは、知らなければ一生考えても思いつかない。まあ、「ヒャクジツコウ」と読んでもよいわけだが。
近所のスーパーマーケットなどでたまごをよく安売りしていて、それを安い、安いと思って買っていたら冷蔵庫に 3 パックほど貯まってしまった。そこで、思いつきで「親子煮」とでもいえそうなものを作ってみたら、非常に好評だった。自分の備忘をかねてご紹介する。

  1. たまごを茹でて殻をむいておく
  2. モモ肉を筋切りし、皮目を下にしてフライパンに敷いて弱火で焼く
  3. 皮がこんがり焼けたらひっくり返して火を止める(予熱で焼く)
  4. 肉をフライパンから取り出して適当に切り、お湯で洗う
  5. 適当に刻んだショウガとピーマンをフライパンに入れて炒める
  6. 土鍋に水、しょう油、日本酒、八角茴香(star anise)ひとかけを入れて沸かす
  7. ゆでたまご、モモ肉、ピーマンを土鍋に入れ、落としぶたをして弱火で小一時間ほど煮る
  8. 花椒(中国山椒)をふりかけて火を止め、ふたをして冷めるまで放置する

というものだ。

本当は焼きネギを入れたかったのだが適当なネギがなかったのでピーマンを入れた。焼きピーマンでもよかったかもしれない。ピーマンを最初から煮たのでくたくたになってしまったが、それはそれでおいしかった。火を止めてから入れるとしゃきっとした食感になるだろう。八角茴香と花椒の代わりに五香粉を使ってもよさそう。それと、トリ肉は都合でモモ肉を使ったが手羽のほうが合うかも。
「それでは、行ってきますから」

というような言いかたは小説でも映画でもよく見る。もちろん、実生活でもよく聞くしよく使う。日本語学習者の ゆ さんが、この「から」とは何か、という疑問を ブログに書いていらっしゃった。

終助詞のようにも見えるが、わたしのもっている辞書には「から」という見出しの終助詞はない。これは「行ってきますから(よろしくね)」ということではないか。つまり、接続助詞の「から」だとわたしは思う。

ほかにこのような言いかたはないかと考えてみると次のようなものもある。

「彼はまだ若いからね」
「自分、不器用ですから」
「もういい歳なんですから」
「怒ってるからね」

これらの文は、どれも後ろに何か続けて言うこともできる。たとえば、「彼はまだ若いから、そういう言いかたしかできないんだよ」というように。しかし後ろに何か続けなくても単独の文として成立している。後半は面倒だから省略しているのではなく、あえて言わずに聞き手の想像にまかせることで、わざと余韻のある表現にしているように思われる。

とまあ、こういったことを ゆ さんのブログのコメントに書いたのだが、わたしの説明のしかたがうまくないということもあって、どうも理解してもらえなかったようだ。説明の下手なのを言い訳するわけではないが、もともと日本語を母語にしないひとにはかなりわかりにくいことだろうと思う。

これは順接の例だが、逆接の接続助詞にも似たような言いかたがある。

「そんなことはないと思っていたのだが(意外にもそうだった)」
「そのように申し上げたのですが(無駄でした)」
「いいえ、わたしのことではないのですけれどもね(それでも気になります)」

括弧内に書いたのは後に続くかもしれない気持ちの例だ。文脈によってこれとはまったく違う気持ちで言っている可能性もある。つまり、「から」にしても「が」「けれども」にしても、こういう表現はまさに日本語らしい文脈依存型の表現の 1 つなのだろう。

太田農相:「消費者やかましい」発言、与野党とも批判や疑問 (毎日新聞ニュース)

「うるさい」とか「こだわる」なんていう語もそうだけれど、「やかましい」という語も否定的な意味合いで使われることが多いと思う。広辞苑では次のようになっている。

やかまし・い【喧しい】
[形](文)やかま・し(シク)

  1. 騒がしい。静かでない。そうぞうしい。狂、宗論「ああ―・しい、何事ぢや」。「―・しい表通り」
  2. 煩わしい。めんどうである。浄、卯月紅葉「あれへ見ゆるは父親ぢやないか…逢うて―・し爰(ここ)御免と神子の門々にぞ隠れける」
  3. 小言が多く、聞いてうるさく感じる。気むずかしい。「―・い親父だ」
  4. 好みがむずかしい。「食べ物に―・い」
  5. きびしい。「しつけが―・い」「―・い検査」
  6. 世間で評判が高い。うるさくいわれている。「―・い時事問題」
(広辞苑)

やはり「騒々しい」「煩わしい」「気むずかしい」というような意味が最初のほうに書いてある。そういう否定的な意味が本来で、肯定的な意味はあとで派生したものだろう。

大臣の真意がどうだったとしても政治家が国民に対して「やかましい」という形容詞を使わないほうがよいと思う。「日本の消費者は品質に厳しい」とでもいっておけば、問題にはならなかっただろう。語彙の選択がつたなかった。

こういうこととはちょっと違うかもしれないが、何気なく使ったことばを悪くとられることはたまにある。いっしょに仕事しているひとに「異論があるので会って話したい」という電子メールを送ったら、えらく気分を害された経験がある。「異論がある」という表現が気に入らなかったらしい。そんなこといっても、自分の考えに異論をもつひとがいるのは当たり前のことだ。だから話し合おうといっているのに。

しかし、わたしの場合と違って、政治家は話しことばが最大の仕事道具だろうから、そういうところがずさんなのは政治家としても資質があやしいと判断されてもしかたないと思う。

それにしても、むかし「農林省」を「農林水産省」に変えたのは水産の重要性を考慮したからだったと記憶するが、燃料高騰で漁民が抗議行動をしているようなこの時期に「農水相」ではなく「農相」と表記しているのはなぜなんだろう。
以前、nest を「入れ子」と訳したら「ネスト」に修正されたことがある。 nest は、一般には「巣」のことだがコンピュータの分野では「入れ子(構造)」のことだ。ところが、この「入れ子」という日本語のほうがカタカナ語の「ネスト」よりもわかりにくい、あるいは不自然と見なされたのだろう。

似たようなことは他にもある。たとえば、list。わたしは、かつてこれを「一覧」と訳すことが多かった。しかし、最近では「リスト」と訳すようになった。a series of 「一連の」、a pair of 「一組の」、a set of 「一式」なども、最近は「シリーズ」「ペア」「セット」とカタカナ語にすることが多い。

まあ、こういうカタカナ語は日常でもよく使われるのでそれほど違和感があるわけではない。しかし、repair を「リペア」、deploy を「デプロイする」、critical を「クリティカルな」などと訳していると、わたしは本当に翻訳をしているのかいな、英語をカタカナに置き換えているだけちゃうか、と思うことがある。なんにも考えずにカタカナ語に置き換えればよければ翻訳とは楽な仕事だ。コンピュータ関連の翻訳にはそういうところがある。
むかし、視聴者からのさまざまな調査依頼を芸能人の探偵が解決する「探偵!ナイトスクープ」という娯楽番組で、「車に乗ってトンネルの中で氷イチゴを食べるとメロン味になる。トンネルにふしぎな力があるのではないか」という依頼に対する調査を見たことがある。

探偵が実際に体験してみると、たしかにメロン味になったそうだ。トンネルの中では赤のシロップに橙の灯りが当たると赤色の光が吸収されてしまって赤色ではなく緑色に見えるらしい。つまり、メロン シロップのかかったかき氷のように見えるのでメロン味に感じるということだ。

通常のかき氷のシロップには、果汁が入っているわけではない。砂糖蜜に色をつけてあるだけだ。もしかしたら香料も入っているかもしれないが、そうだとしても、香料より色のほうが味を決定するための重要な要素であるということだろう。うそだと思うなら、ごはんを食用青色一号で染めて食べてみればよい。真っ白のごはんと同じ味がする、というひとがいたらたいしたものだ。

ことほどさように味覚は不正確なものといえばそのとおりだが、だからこそ融通性が高いといえる。人間の舌が単なる味覚センサーよりも優れている点だと思う。それにしても、当たり前のことだが、味を感じているのは舌先ではなく脳だということがよくわかる話だ。

色を変えるだけで味をかんたんに変えられるのなら、食品偽装、食材偽装が行われても消費者にわからないのは当たり前。鹿児島産と書いてある中国産うなぎをおいしく食べられても恥ずかしい話ではない。高級料亭の料理なんだからおいしいはずと思っていれば本人(の脳)はおいしいと感じるはずだ。
縞格子さんのブログで「おとなの小論文教室」というサイトの最近の記事(「いきやすい関係」「いきやすい関係2――関心リッチと関心プア」)が紹介されていたので読んでみたらおもしろかった。

詳しくはリンク先の記事を読んでもらいたいが、乱暴にまとめれば、親しい人を白、まったく知らない他人を黒だとするとその間にいるひとたちが「グレーゾーンの住人」で、そのグレーゾーンのひとたちが互いに関心を持ち合うことで世の中住みやすくなるのではとのことだ。

なんだ、「グレーゾーン」って「世間」のことじゃないか、とわたしは思った。実際、リンク先の記事の「グレーゾーン」をそのまま「世間」と置き換えても何の問題もなく意味が通る。とても親しいひとは、身内のようなものであって世間の範疇には入らない。逆にまったく知らないひとも世間ではない(だから「旅の恥はかき捨て」できる)。このひとのいう「グレーゾーン」というのは、日本語で「世間」のことだ。

世間のひとたちが互いに関心を持ち合うことで世の中が住みやすくなるとはわたしは思わない。もう少しいえば、ものごとを考えたり決めたりする基準が世間つまり人付き合い以外にないというのが、都会人のものの見かただと感じる。世間なんて大したことはない、世界の中のほんの小さな一部に過ぎない、と世間を相対化できるものは現実にはたくさんあるはずだ。夜の星でもよい。海の世界でもよい。あるいは、ファーブルのように昆虫を観察すれば生物の世界は世間なんてものよりもはるかに広いということがわかる。

子どものころ、天体観測好きのわたしのために親が天体望遠鏡を買ってくれたことがある。貧乏な家庭だったので経緯台の屈折望遠鏡といういちばん安い製品だったがとてもうれしかった。すると、隣り近所が相次いで子どもに天体望遠鏡を買い与えた。それも、赤道儀の反射式という子どもにはもったいないような製品だった。わたしは天体観測が好きだったので望遠鏡を無駄にはしなかったが、もともと天体観測が好きでもなく天体についての知識もない子どもたちは買ってもらった望遠鏡をほとんど使うことがなかったようだ。こういうのは、世間の典型的にバカらしいところだと思う。

もちろん、そういう、世間のしばりの強い田舎にもよい面もある。部屋の中でひっそり飢え死にするようなひとはいない。何か他人と違うこと、目立つことをすればすぐに村じゅうに知れわたるから、治安もよい。そういう面を考慮しても、闊達に暮らせないことのほうがわたしにはつらい。そういう「世間」がいやだったから、わたしは田舎から東京に出ていったまま帰らないのかもしれない。翻訳なんて仕事はどこでもできるわけだけれども、いまでも田舎に帰るつもりはまったくない。

まあ、都会にも都会なりの世間がある。マスコミが作っている世界も 1 つの世間だと、最近思うようになった。先日のニュースキャスタの不倫騒動による自主謹慎は「世間」による制裁だったと思う。また、雪印食品の食品偽装を告発した西宮冷蔵のことを先日 NHK でこの事件の再現ドラマをやっていたが、いろいろな関係者から「世間」ということばが出てきた。関係者は無意識に「世間」ということばを使っただけで、「世間」の問題だとはあまり意識していないかもしれない。しかし、西宮冷蔵が雪印食品以外の取引先から見放されて倒産状態になってしまったのは「世間」による制裁だったとしかいいようがない。そういう、「世間」というものの、理屈も道理も通用しない理不尽さがわたしはきらいだ。

阿部謹也さんの「世間」とは何か (講談社現代新書)によれば、欧米人は日本人のことを権威主義的であるとしばしばいうそうだ。

権威主義的とは威張っているということではない。自分以外の権威に依存して生きていることをいうのである。その権威が世間なのである。
(中略)
何かの意見を聞かれたとき、自分の意見をきちんということが大切であるが、他の人の意見を聞きながら自分の意見をそれに合わせたりすることも権威主義的と呼ばれるのである。


そのとおりだと思う。けっきょく、他のひとたちがどう考えているのかを察してその意見に合わせる、つまり「空気を読む」のが、この国で生きやすい生きかたなのだと思う。西洋ではキリスト教などの宗教が自分や世の中の成り立ち、行動の指針を示してくれる。つまり、人付き合いからは独立した基準がある。日本にはそういうものがなく、「世間」がその代わりとしての「基準」になっているのだろう。日本にはいまでも「個人」は存在しない、と阿部さんは喝破している。

ここまで書きながら考えていたら、自分がフリーランスという職業形態を選ぶことになったのが偶然ではないということに気付いた。「世間」の中でひとの顔色をうかがいながら生きるのが嫌いなわたしには会社という世間が耐えられなかった。フリーランスにもフリーランスなりの世間はあるが、西宮冷蔵の社長のように、たとえ自分が飢えたとしても不正な仕事は請けないという自由はある。会社員にその自由はあるのか。雪印食品の社員は悪いことだと自覚しながらも食品偽装に手を染めた。(会社内の)世間には逆らえなかったのだ。
たまたま見つけた質疑応答サイトの質問に 「いただいてください」って変では? というのがあった。

仕事関係でよく社内外の人々から、私経由上司への物事の依頼があります。
その際に気になるのが、「ここにサインをいただいてください」などと言われることです。
本来「いただく」というのは自分がへりくだって相手に使う言葉であり、他社に使うのはなんだか変だと思います。
わりと親しい関係ならまだわかりますが、社外の人に使うのはいかがなものかという気がしてなりません。

自分が同じ立場に立ったときには、このような「いただいてください」とは相手には使いませんが、「もらう」の依頼言葉で適切なものはありますでしょうか?


そもそも質問者のいう状況がわかりにくいが、次の 2 つの状況を考えた。

その他社のひとが会社同士の取り引きか何かで質問者の上司のサインをほしがっているのだとすると、質問者が「(上司のサインを)いただいてください」とはいわれるすじあいはない。質問者だって会社を代表しているんだから「サインをいただきたく存じます」といってほしいだろう。

あるいは、そういうことがあるかどうかわからないが、その他社のひとが欲しているのは「質問者が上司からサインをもらうこと」そのものだとすると、「サインをおもらいになってください」が正しいとわたしは思う。


関連記事:
どうぞいただいてください
すべらない敬語
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芸能人にお会いしたそうで
先日、仕事の資料で、partitioning が「パーティションニング」と訳されているのを発見した。partitioning とは、IT の分野ではディスク内部を複数の領域に分けることだ。分けられたひとつひとつの区画を パーティション(partition)という。一般的に「パーティショニング」と表記される(と思っていた)。

こりゃ何かの間違いだろうと思ったが、ぐぐってみたら、「パーティションニング」という表記もけっこう使われていることがわかった。しかも日本の大企業や外資系大企業のサイトで使われている。これでは明らかな間違いといってよいのかどうかわからない。

ついでに、「コンディションニング(conditioning)」「ポジションニング(positioning)」もぐぐってみたら、やはりたくさん見つかった。野球の inning はさすがに「イニング」だよなと思ったら「インニング」という表記もまじめなサイトでよく使われていた。

こういう表記方法は、「ニング」を取ればそのまま「パーティション」「コンディション」「ポジション」などの語幹に分けることができるから、扱いやすいしわかりやすいのかもしれない。考えてみれば、running はむかしから「ランニング」で「ラニング」とは書かないと思う。調べるのは面倒だからもう調べないけれど。
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