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最近は涙腺がゆるんでいて、ちょっとしたことで泣いてしまう。とくに、年寄りや子どもの話に弱い。わたしは小説を読まないので本を読んで泣くことはめったにないけれど、子どもがおつかいに行くだけのテレビ番組を見て、ぼろぼろ泣いたりしている。

本を読んだり映画を見たりして「号泣した」と書いているひとを最近よく目にするけれど、あれは間違えているのか、それとも、それほど大いに泣いたという意味で比喩として書いているのだろうか。

「号泣」というのは「大声を上げて泣き叫ぶ(広辞苑第六版)」ことだから、大のおとなはめったなことで号泣しないはずだ。英語でいえば、weep でも sob でもなく cry ということだろう。「号」という字は、怒号などの語もあるように、大声で叫ぶという意味である。

「声を出さずに号泣」なんて表現もある。ググってみると約 516 件ヒットした。「心の中で泣き叫んだ」というちょっと詩的な表現なのかもしれないけれど。
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いまでも、想い出すとどうしても笑ってしまうことがある。6 玉の刻んだキャベツを前に途方に暮れているひとのことだ。

数年前まで、定年退職男子が中心に活動している地域活動の非営利団体に参加していた。その団体がある催しでお好み焼きの屋台を出すことになり、わたしを含む 4 人の会員がキャベツ調達担当者に割り当てられた。調達係はそれぞれ前日までに 6 玉のキャベツを購入し刻んだ状態で当日現地に持参することになっていた。

ところが、運の悪いことに催しの当日雨が降って催しが中止になってしまい、調達係の手元に 6 玉ずつのキャベツが残ることになった。ある調達担当者が「キャベツはもう刻んでしまいました。どうしましょう」と悲愴な文面の電子メールをメーリングリストに流してきた。たいへん気の毒だと思うけれど、そのようすを想像するとおかしくてしょうがなかった。

おどろいたことに、幹事は「手元のキャベツは購入者が処分してくれ」とこともなげにいう。ある幹事は「茹でてしょうゆをつけて食べるとおいしいのに。そういう食べかたを知らないのかな」とまでいったものだ。

そりゃあ、 1 、2 玉のキャベツならそのとおりかもしれないが、うさぎのエサでもあるまいし、 6 玉の刻んだキャベツを前に困っている人に対してそれはないだろうと思った。刻む前なら他人にわけることもできようが刻んでしまったらそういうわけにもいかない。冷凍するにしても酢漬けにするにしても、ともかく場所をとる。

幹事たちは定年まで会社に勤めたモーレツ世代だった。自分でキャベツを買ったことも調理したこともないから、6 玉の刻んだキャベツといってもイメージが湧かなかったのだろう。

なお、わたしはさいわいにもキャベツを刻む前に中止を知ることができたので、隣と階下の住人に 2 玉ずつお譲りし、我が家で 2 玉をおいしくいただいた。




文筆業として確定申告をしているものの、わたしの仕事は文筆業というよりパソコン入力業に近い。したがって、いかに効率的に入力ができるかが仕事の効率に直結する。

以前、音声入力を試してみたが、どうもあまり快適でなくてそのうち止めてしまった。一般に思われているであろうよりも入力精度は高く、ほぼ話したとおりに文字が入力されるのだが、ぼそぼそと話したのではダメで声を張り上げなければならない。パソコンの前でそのように話し続けるのはけっこうエネルギーが必要で、最初に想像したよりも楽なことではない。それに、翻訳は単純なデータ入力と違って少しは考えながら入力するわけなので、いつも同じペースで入力することはできない。「ファイルが変換されて…サーバに…保存され…」などと緩急をつけて話すのでは音声入力の精度も悪くなる。

音声入力を有効に使えるのは、おそらく、すでに完成した紙の原稿があって、それをパソコンのデータに変換するときではないかと思う。しかし、それなら OCR のほうが楽か…。まあ、わたしが試したのは何年も前なので、最新の製品ではもっと使いやすくなっているかもしれない。

けっきょく鍵盤から文字を入力するとなると、かな漢字変換システムが問題になる。わたしは、Windows に付属の MS-IME ではなく ジャストシステムという会社の ATOK というかな漢字変換システムを使っている。これはとても便利で、もう手放せない。

特に、省入力機能がすばらしい。省入力機能というのは、一度変換した内容が記録されていて、次からは数文字入力しただけで過去に入力した内容が候補として表示されてすぐに入力できるというものだ。たとえば、いま、「しょう」と入力すると、小さなポップアップウィンドウで「省入力機能」と表示される。そのまま shift + enter キーを押せば「省入力機能」と入力されるというわけだ。

この機能は、コンピュータ関係の長い語を入力するときに大きな威力を発揮する。「ドロップダウンコンボボックスメニュー」なんて語であっても、「どろ」と入力して tab キーを押し、「ドロップダウンコンボボックスメニュー」を選択すれば簡単に入力できる。いつもこの方法で入力すれば、入力の手間が省けるだけではなくタイプミスも少なくなるはずだ。ただし、最初にタイプミスをすると、その後ずっとタイプミスのまま変換されていくことになるが。

この省入力機能のデータは、通常、入力していく中で記録されていくのだが、すでに存在する文字データから学習させることもできる。たとえば、ソフトウェア マニュアルの翻訳では参考として過去バージョンのマニュアルや関連製品のマニュアルを支給されることがある。それをワープロソフトで開いてアドオンのツールバーから省入力データを学習させると、その製品独自の用語を省入力データとして記録させることができる。これによって、それから作業をする翻訳の入力作業を大きく効率化することができる。

また、話題の人名、映画名、流行語などがまとめられた省入力データや、はてなダイアリーのキーワードなどもジャストシステムさんのサイトからダウンロードできる。たとえば、いま、「のような」と入力すると「の・ようなもの」という変換候補が表示される。これは、森田芳光さんの映画のことだろう。これは、ジャストシステムさんのサイトからダウンロードした省入力データに入っているのだと思う。もちろん、この「森田芳光」という人名も「もりたよ」と打っただけで変換できた。

さらに、わたしの場合は、別売りの「広辞苑」、「明鏡国語辞典」、「ジーニアス和英/英和辞典」、「角川類語辞典」、「共同通信の記者ハンドブック」も ATOK に組み込んでいる。これらの辞書類は入力作業中にそのまま引くことができるので、たいへん効率がよい。

なんだか、ジャストシステムの回し者のようになってしまった。わたしはジャストシステムさんと特に利害関係はないが、本当に便利な製品だと思うので、パソコンに文字を入力する仕事のひとにぜひおすすめしたい。
女優のミムラさんが、ご実家のおばあさんは梅干を入れて昆布とかつおぶしのだしを作る、それがとてもおいしい、とテレビでおっしゃっていた。

「おお、それはおいしそうじゃ」と思って、わたしもまねをさせていただいた。今年漬けた梅干を使うのはちょっともったいないような気がするので、一昨年漬けた梅干を使うことにした。

ふつうに昆布とかつおぶしでだしをひくのだが、その中に梅干を 4 つ入れてみた。透き通ったきれいなだし……とはならず、やや白濁しただしができた。

最初、味噌汁に使ってみた。すると、ややしょっぱい味噌汁ができてしまって、妻にも不評だった。ふつうのだしよりも塩分があるわけだから、まあ当たり前だったのだろう。

そこで、今度は、しょう油を控えめにして、ナス、ピーマン、鶏肉の煮物に使ってみた。食べてみると、さわやかな酸味があって、よい感じの煮物になった。ああ、ミムラさんが「とてもおいしい」とおっしゃっていたのはこのことか、と納得した。
マニュアルなどの翻訳では、こういう文体や規則で訳しなさい、ということをまとめたスタイルガイドというものを支給される。カッコは半角で、といったことから、「A, B, and C」のような列挙のときに最後の「および」の前に読点を入れてはいけない、とか、カタカナ語が 11.5 文字以上のときは複合語の間に半角スペースを入れなさい、とかいった内容で、そういったことをあまり気にせずにふつうに文章を書いているひとはおそらくびっくりするであろう、非常に細かいことまで指示されている。

あるソフトウェア マニュアルのスタイルガイドに「できるだけ口語体を使うこと」という項があり、そのすぐ後に「話しことばは使用しないこと」という項があった。

できるだけ口語体を使う例としては、「のみ」ではなく「だけ」を使うとか、「ねばならない」ではなく「する必要がある」を使うとかいったこと。話しことばは使用しない例としては、「たくさんの」ではなく「多くの」を使うとか、「やる」に代えて「行う」を使うとかいったことが書いてある。

「口語体を使え」といい、「話しことばは使うな」という。あれ、「口語体」と「話しことば」って違うのだっけ、とわけがわからなくなった。

辞書を見てみると、口語体というのは文語体と対になる語で、「はなしことばを基準とした文体のことば。広く現代語を指すことが多い。」(広辞苑第六版)などという説明がある。

つまり、口語体は現代語とほぼ同じ意味で使われるらしく、このスタイルガイドでいう口語体というのは「現代語」という意味なのかもしれない。しかし、それでも、「のみ」や「ねばならない」が現代語ではないとは、わたしにはとうてい思えない。

けっきょく、「できるだけ口語体を使うこと」というのは「堅苦しい表現はしない」、「話しことばは使用しないこと」というのは「俗語や卑語は使用しないこと」といいたいのでないかと思う。
お飲み方

どこかの居酒屋か何かで撮ったメニューの写真が出てきた。なんでこんなものを撮ったのかというと、「お飲み方」という表現がおもしろいと思ったからだ。

「お飲み方」って奇妙な表現だとわたしは思うが、ググってみるとけっこう見つかる(約 5,470 件)。

「方」は、通常、動詞の連用形について何かする方法という意味になるのだと思う。「飲む」の連用形は「飲み」であって「お飲み」ではない。それが、わたしが違和感を覚えている原因のようだ。

わたしなら、「召し上がり方」と書くと思う。「召し上がる」は「食べる」と「飲む」の両方の尊敬語なんだから。「お飲み」で始めるなら「お飲みになり方」と書きたい。ただし、こちらはググってみてもなぜだかまったく見つからない。
このブログの少し前の記事で「ことほどかように」と書こうとしたのだが、なんとなく違和感を覚えて辞書を引いてみたら、実は「ことほどさように」だということがわかった。

ググってみると、わたしのように間違って覚えているひともけっこういるらしく、「ことほどかように」と書かれているサイトが約 865 件もあった。ちなみに、「ことほどさように」は約 97,600 件、「事ほど左様に」は約 24,100 件、「事ほどさように」は約 795 件、「ことほど左様に」は約 18,500 件だ。

わたしがなぜ間違えて覚えていたかというと、「ことほどさように」っていうのは「このように」っていうことだよな、つまり古めかしい言葉でいえば「かように」ってことだという思考の流れから、頭の中で勝手に「ことほどかように」と変換してしまったのだと思う。

広辞苑には次のように書いてある。

ことほど‐さように【事程左様に】‥サヤウ‥
(so ~ that の訳語という) それほど。そんなに。

最初に「そんなに」だと思っていえば、「さように」から「ことほどさように」と正しい語にたどりつけただろう。しかし、文章で使われている「ことほどさように」という語は「以上述べてきたように」といった意味だから、「そんなに」よりも「このように」のほうが近いような気がわたしはする。

ところで、広辞苑にある so ~ that の訳語という説は本当なのだろうか。 so ~ that というのは、有名な英語の構文で、「あまりに ~ なので、~」とか「~ するほど ~ だ」いうような意味である。むかしはどうだったのか知らないが、現在使われている「ことほどさように」は、前段に何か具体的な例を述べたあとで、後段で「以上見てきたように」「これまで書いたように」とつなげるときに使う。英語の so ~ that は、ふつう 1 つの文の中で使うわけだから、用法はかなり違うように思われる。
要求のきつい仕事をした。単純な翻訳作業だけではなく、そりゃチェッカーか編集者の仕事だろう、というような付加的な作業もやらされるのだ。その分だけ報酬がよければ愚痴をいう理由はないが、単純な翻訳作業と同じ相場だから愚痴をいいたくもなる。

立場の弱い、しがない下請け翻訳者としては「そういう作業も込みならもう少しいただきたいですね」とはなかなかいいにくい。翻訳会社としては、翻訳の相場でチェック作業もやらせることができればコスト削減になるわけだから、とうぜん、そうしたいだろう。しかし、それで本当によいのだろうか。

産業翻訳の仕事では、翻訳者が翻訳し、チェッカー(校閲者)が校正するのが一般的だ。「分業」ということだが、単に作業負荷を分担しているというだけではなく、そのほうが完成度が高くなるからだと思う。

心理学によれば、人間は一度に複数のことをやろうとするとどちらかの精度が極端に落ちる、ということがわかっているらしい。たとえば、特定の色の図形と特定のかたちの図形を見つけるという 2 つの課題を与えて次々と変わる複数のスライドを被験者に見せると、どちらかの課題の成績が非常に悪くなる。つまり、何かの作業を行うときは 1 つずつ主題を決めてそれだけをやるべきなのだ。

この原理は前職でマニュアルを制作していたときによく実感した。文書を校正するとき、ただ漫然と頭から読んでいてもすべての誤りを見つけることはむずかしい。ではどうするかというと、たとえば、まず、頭から最後までノンブル(ページ番号)が通っているかどうかだけを先にチェックする。次に、また頭から最後まで柱だけをチェックする。このとき、ノンブルのチェックと柱のチェックを同時にやってはいけない。もし同時にやってしまった新人がいたとしたら、どちらもまだやられていないと見なして最初からやり直させなければならない。一度に 1 つの作業だけに集中するというのはそれほど重要なことなのだ。

翻訳作業と校正作業をそれぞれの専門職が分業するという翻訳業界の慣習は理にかなっているとわたしは思う。もちろん、翻訳者としても、当て字や俗語を使わないとか指定の表記基準に準拠するといったことは必要で、そんなことまですべて校正者に丸投げしていたら自然淘汰されてしまうだろうが、本来明らかに校正者、編集者がやるべき作業を翻訳者が負担させられることは、質の高い訳文を作るという本来の目的にそぐわないと思う。
最近、用事があって大手電話会社の窓口に電話した。自分の登録情報の一部を確認したいと思って「御社に顧客名簿のようなものがあると思いますが、その情報についてちょっと…」といいかけたら、担当の女性の方に「いえ、そのようなものはございません」とあわてて否定された。

「顧客名簿がないなんて、そんなわけないでしょう」といっても「そのようなものはありません」とがんばってくるので、「顧客名簿がないなら、どうやって顧客に料金を請求しているんですか」といったら「ああ、そういうものでしたらございます」と安心したように答えた。

聞いてみると、その方は「顧客名簿」というのは何か悪いことに使うもののことと思っていたそうだ。たぶん、ダイレクトメールを送るためなどに名簿屋さんから買うどこかの学生名簿とか債務者名簿のようなものを想像したのだろう。うーん、「顧客名簿」って語にそんな印象があるかなあ。
福田首相は辞任の記者会見で記者の質問に次のように答えたという。

「人ごとのようにとあなたはおっしゃったが、私は自分自身は客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」

報道機関を通じて自分の考え(辞意)を国民に伝えるための記者会見だったのだろう。だったら質問した記者に対して「あなたとは違う」というのは筋が違う。記者と口げんかしてどうしようというのか。天下国家のことよりも自分の体裁、自尊心のほうに関心があるのだなと感じた。
5 年ほど前、「バカの壁」という著書がベストセラーになった養老孟司さんが、「徹子の部屋」という座談番組に出たときに司会の黒柳さんが「バカっていうのは差別語のようでもあるんですが…」とおっしゃったのをよく覚えている。あの本が売れていたころにバカを差別語だと指摘するひとはほかにもいた。なんで「バカ」が差別語かなあ、とふしぎでならなかった。

その後、ああ、そういうことだったのか、とわかったことがある。それは、どうやら、バカを差別語だというひとたちは「バカ」は知的障害者とか統合失調症のひとを差別する語だと思っているらしいということだ。

自分にはそういう発想がまったくなかったのでこの歳になるまでそのことがわからなかった。わたしの育ったのは近畿だから「バカ」というよりもむしろ「あほう」という語のことになるかもしれないが、ともかく、家族も友人も近所のひとたちも「あほう」とか「バカ」とかいう語をそういうふうに使うひとはいなかった。

障害があるひとや病気のひとを「バカ(あほう)」と表現するということには非常に強い違和感がある(当たり前だ)。もちろんそういうひとの中にも「バカ」「あほう」はいるだろうが、障害があったり病気だったりすること自体は「バカ」ではない。

「バカ」を罵倒語として使いたくなるのは、東大を出たような頭のよい官僚や政治家が国民のことを考えずに自らが得することばかりを考えているようなときだ。そういう輩は本当に「バカ」だと思う。

ここまで書いてわかってきたのだが、わたしにとって、「バカ」という語は、知能が高いとか低いとかいうこととあまり関係がないようである。もっとも、知能とは何かということもよくわからないが。


追記(08/09/02):
余談だが、わたしはよくバカといわれる。その頻度は一般的なひとよりも多いと思う。もちろん単に頭が悪いという意味でいわれることもあるし、世間知らずとか人が好すぎるという意味でいわれることもある。しかし、そういわれて怒ることもまずないし差別されているとも思わない。そういうところが「バカ」といわれるゆえんなのかもしれない。

バカなのは自分の属性なのだからしかたない。他人に迷惑をかける利口よりも素直なバカのほうがよいと思っている。尊敬するおやじに教わったことだ。
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