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麻生首相が国会でカップめんの値段を聞かれて「400 円ぐらいか」と答えたそうだけれど、わたしもカップめんの値段を知らないから庶民感覚がないのかもしれない。

むかし袋めんが 30 円ぐらいでカップめんは 100 円ぐらいだったなあというのはうっすら覚えている。カップめんというのは、料理ができないひととかとても忙しいひとが食べるものだろう。本当の庶民から見ると、どちらかといえばぜいたく品だ。うちでは、カップめんを買うことはない。

麻生さんには連夜ホテルのバーで食事するとかホテルのバーは安いと発言したとかいう話もある。そんなこと当たり前だと思う。麻生さんほどの大資産家なら食事にでも背広にでもそれなりにお金をかければよい。

わたしだって出張とか旅行とかでホテルに泊まればホテルのバーに行く。自分のために使わないで何のためのお金か。お金があればそれなりのサービスを利用するし、なければ利用しない。それだけのことだ。こういうことを非難するひとたちの発言からは「嫉妬心」が透けてみえる気がして、なんだかみっともない。
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ベテラン(veteran)のもともとの意味が「退役軍人」であるように、ボランティア(volunteer)の本来の意味は「志願兵」だと思っていたのだが、確認しようと思って wikipedia を見たらラテン語で will (意思)という意味の語からきたと書いてあった。ついでに veteran も調べたら、ラテン語の「古い」という意味の語からきた語のようだ。

なぜ間違って覚えていたのか、いまとなってはわからない。ただ、volunteer に志願兵、veteran に退役軍人の意味があることは間違いではない。とくに veteran は、日本語のベテランとは違って、退役軍人の意味で使われることが多い。

カタカナ語の「ボランティア」は仕事を無償でやるという意味だ。わたしも少しだけボランティアの経験がある。会社を辞めてから数年経ったころ、せっかく居職になったので何か会社勤めではできないことをやろうと思って、通所リハビリテーション施設の利用者の遊び相手をやった。遊び相手だから時間さえあればよいという何の専門性も要らない仕事だった。そのときはそういう仕事だったからまだしもだが、本来お金をもらうべき仕事を無償でやるのはよくないことだと思う。

翻訳はボランティアの多い仕事だ。正直なところ、裕福で優秀なひとに無報酬で翻訳をされてしまうとわたしたちのように翻訳で口を糊するものは困ってしまう。職業翻訳者の仕事が減るということもあるし、ボランティアというのは最大の不当廉売なのだから、職業翻訳者の請け負う仕事の相場が下がるということもある。

何年か前、東南アジアのホテルにある日本語の説明書きが間違いだらけだったので日本に帰ってから説明書きを正しく書いてそれをファックスで送ってあげたという記事をブログに書いていたひとがいた。悪気がないのはわかっているが、現地の翻訳会社あるいは翻訳者の商売の邪魔をしていることになるのは明らかだ。そういうことをするのならちゃんとお金を取ってやってほしいと思う。

日本語教師も似たような状況らしい。日本語教師をやっている知り合いがいるが、収入があまりにも少ないそうだ。その知り合いは日本語教師になるために教育機関でしっかりとした教育を受けており、日本語や言語全般の知識も豊富なひとだ。そういうひとが正当な報酬を得られないのは残念なことだ。

けっきょく、翻訳も日本語教師も、稼ぐ必要のない主婦とかお金を貯め込んだ定年退職者がボランティアでやる程度の仕事と思われている、つまり、専門職として認識されていないのだと思う。翻訳の場合は外国語ができればだれでもできる、日本語教師の場合は日本人ならだれでもできると思われているようなところがある。実際は、そんなわけないのだが。
最近は、「エコ」という語を毎日のように目や耳にする。「エコ」というのはエコロジーの略語だ。エコロジー(ecology)は生態学という学問の名前だが、日本語でも英語でも「環境保護運動」という意味で使われるようになっているらしい。

「環境保護」というとわかったような気になるが考えてみればよくわからないことばだ。環境というと人工環境もあるけれど、環境保護というときは自然環境の保護を意味するようだ。自然といっても、干ばつや洪水、コレラ菌やセアカゴケグモを保護しようとはいわないから、けっきょく、人間にとって都合のよい環境を保護しようということなのだろう。

「エコバッグ」なんていかにも新しい風俗のようにいうけれど、わたしの親の世代は籐の買い物かごを持参して買い物にいくのが当たり前だった。

「エコバッグ」が推奨される反面、スーパーマーケットなどでくれる「レジ袋」が悪者扱いされているけれど、あれは、プラスチック製品の中でも非常に便利なものの 1 つだと思う。わたしは旅行のときや公園に行くときのカバンに 2、3 枚たたんで入れている。ちょっとしたゴミができたときのゴミ袋になるし、着替えや汚れものを入れることもできる。公園ではお尻の下に敷いて敷物の代わりにすることもできるし、濡れたものや土で汚れたものを入れてもだいじょうぶなのでとても重宝する。

レジ袋はそもそも石油精製の過程で必ずできる素材でできているし、生産をやめたところでその分の原料から他の製品ができるだけで石油の消費量が削減できるわけではないはずだ。エコバッグが推奨されるのは経費を削減できるスーパーマーケットの陰謀じゃなかろうか。

うちの自治体はごみ出しにレジ袋を使えず、レジ袋と同じ成分のゴミ袋を何百円かで買って使うことになっている。これがまた非常にばからしい話だけれど、自治体のゴミ袋は容器包装リサイクル法で処理できないので集めたゴミの中からそのゴミ袋を自治体が取り除いているそうだ。ではレジ袋はどうかというと、あれは包装材なのでそのままリサイクルに出せるらしい。うまくいえないが、何かおかしい気がする。
とある時代劇で「そんなことをしたら敵の術中にはまってしまいます」という台詞を聞いて、あれ、術中にはまる、っていうんだったっけと思った。

「術中」というのは「計略の中」ということだろう。「計略に引っかかる」ことはあるけれど「計略の中に引っかかる」というのは変なんじゃないの、「計略の中」というのは場所の隠喩だから、「計略の中に落ちる」「計略の中に陥る」のほうが正しいんじゃないの、というのがわたしが最初に思ったことだ。

はたして、新辞林と広辞苑には「術中に陥る」という例文しかなかったが明鏡国語辞典には「術中にはまる」という例文があった。明鏡では「術中」の意味を「相手のしかけた計略のなか。相手のわな」としている。なるほど、「わな」なら「わなにはまる」っていうから「術中にはまる」でもおかしくないなと思った。ただ、個人的には「術中に陥る」のほうがしっくりくることには変わりない。

「におい」、「臭い」も「匂い」もOK 常用漢字追加案 (朝日新聞)

常用漢字やその前身の当用漢字というのは、国際競争力を保つために子どもが漢字を覚える負担を減らさなければならないという前提で作られたものだと思うが、その前提が正しいとはとても思えない。つまり、常用漢字なんて一般のひとにはどうでもよいことといえばどうでもよいことだ。わたしの場合は、残念ながら、職業柄、常用漢字表にしばられることがあるので、少し気にしなければならない。とはいっても、いまは常用漢字表外の文字を打とうとすると ATOK が知らせてくれるので、どの文字が常用漢字かをすべて知っていなければならないというわけではない。

今回の常用漢字追加案では、見出しの「臭い」「匂い」のほか、「怪しい」「妖しい」とか「込む」「混む」といった使い分けがしやすくなるようだ。もっとも、これらの語はやまとことばに漢字を宛てているのだから、ひらがなで「におい」「あやしい」「こむ」と書いても何の問題もない。

高島俊男さんは「漢字と日本人」という本で「やまとことばに漢字を使うのは不自然」という主旨のことをおっしゃっている。もっともだと思う。実際、「漢字と日本人」ではやまとことばがすべて仮名で書かれているが、意外にもすらすらと読める。

わたしも高島さんの方法を試したことがあるが、「読む」を「よむ」、「書く」を「かく」と書くのは、やはり文全体が白くなりすぎて抵抗があった。また、漢字には読点の代わりに語の区切りをつけてくれる働きもある。つまり、「わたしはきのうがっこうにいった」という文は「わたしは、きのう、がっこうにいった」ぐらいに読点を打たないと読みにくいが、「わたしは昨日学校に行った」と漢字を使えば読点は要らなくなる。ただ、逆にいえば、極力漢字を使わないで書けば、文の構成要素の並び順に注意して書くようになって、文章修業になるかもしれない。

いまは、手で書いたときに漢字で書かないことばはパソコンでも漢字を使わない、というぐらいの気持ちで、やや漢字を少なめにして書いている。最近はそうでもなくなってきたような気がするが、1990 年代ごろだろうか、おじさんたちがワープロ専用機を個人で所有して使うようになったころは、「誠に有難う御座居ます」のような異常に漢字の多い文章をよく見かけて、みっともないなあ、と思ったからだ。「ありがとうございます」なんて、それこそやまとことばだから、ぜんぶひらがなでよい。経験上、ふだん文字のことをあまり意識していないひとほど漢字を多用したがる傾向があると思う。
ホームページやブログなどで積極的にアフィリエイトをやっている知り合いがいる。アフィリエイトというのは、ブログや個人のホームページなどでよく見る広告リンクで、読者がそれにアクセスしたり商品を買ったりすることによって広告掲載者が広告主からいくばくかのお金をもらえるというものだ。

その知り合いと話していたら、そのひとが他人のアフィリエイト広告から商品を購入することを極端に嫌がっていることに気が付いた。

アフィリエイトのしくみをよく知っているわけではないが、他人のアフィリエイト広告から商品を購入しても、購入した当人が損をすることはないはずだ。おそらく彼は「他人が得をすること」が気に入らないのだと思う。さもしいやつだなあ、と言おうと思ったが、あまりに当然のことという口ぶりだったので言いそびれた。

最初に書いたように本人もアフィリエイト広告をブログや自分のホームページに載せている。それを見て購入してくれるひとがいることを期待しているのではないのか。そもそもアフィリエイトというのはそういうひとがいることを前提としたシステムだろう。なのに、当の本人が他人のアフィリエイト広告から購入しないということは、そのシステムを自ら否定していることになる。彼はその矛盾に気が付いていないようだった。

わたしは田舎者で人の好さには自信がある。あほうと思われるかもしれないが、わたしが彼の立場なら、他人が儲かれば多少なりとも景気高揚に貢献することになり、自分のサイトの広告をクリックしてくれるひとも増えるかもしれない、と考える。
衛星放送の WOWOW で「完全密着!・サザン'08“夏”ドキュメント」という番組を見た。サザンオールスターズのメンバーが如何にまじめに音楽活動に取り組み、練習や推敲を重ねた上で曲を聴かせてくれているのかがよくわかる好番組だった。

桑田佳祐さんや他のメンバーからインタビューで非常に興味深い話が引き出されている。桑田さんを始めメンバーのかたたちが、あれだけの超人気グループでありながら慢心することも重圧感でつぶれることもなく、サザンオールスターズというグループのことや自分自身のことを実に客観的に見ているんだなあと思った。だからこそ、客が自分たちに期待していることを理解してそれを満たすだけのパフォーマンスを見せることができるのだろう。

最近、同様のことを感じたひとがもうひとりいる。将棋棋士の羽生善治さんだ。そちらは「100年インタビュー」という NHK のインタビュー番組を見て感じたことだ。こちらも、インタビューの時間に対して内容が密で、何を聞かれても打てば響くかのように明快な答えをすぐに返す羽生さんの頭のよさがよくわかる良番組だった。頭もよいのだろうが、いろいろなことをふだんから考えてそれらに対して自分なりの意見をもつようにしているのだろう。羽生さんも、現将棋界随一の人気棋士であるにもかかわらず、そういう周りの評価が自分のことを必ずしも正確に捕捉しているわけではないということも含めて、自分のことを実に冷静かつ客観的に見ているもんだと感心した。

このひとたちはやはり天才だと思う。自分を客観的に見ることができる。わたしとは違うのだ。
神とか素粒子なんていうのは、わたしにはまったくリアリティがないが、キリスト教徒や物理学者にとってはそれぞれリアリティがあるのだろうと思う。事実は 1 つだが真実はひとの数だけあるというが、その意味でいうと、「リアリティ」というのはそれぞれのひとにとっての現実感だ。

わたしは将棋が趣味なので将棋の盤上に配置されている駒の世界にリアリティがある。将棋には、ほれぼれするようなきれいなかたちとか、心臓が止まりそうなほどびっくりする手というものがある。しかし、将棋を指さないひとにとってはそんなものにリアリティはないだろう。

金融システムは、わたしにとって将棋を知らないひとが見た将棋のようなもので、まるでリアリティがない。株式や為替といったものは概念としてはわかるが、要するに単に数字が増えたり減ったりしているだけじゃないと思ってしまう。まあ、そもそも「お金」自体が、実体はないが機能だけあるという、約束ごとの典型のようなものだが。

約束ごとといえば、社会的地位とか名誉といったものも、国家とか民族といったものもそうだろう。「事実」というよりは、特定のひとにとっての現実感、リアリティだ。

世の中の不幸には、飢餓や洪水のような「事実」が原因のものも多いが、「リアリティ」に依るものも多いと思う。古今東西、お金、地位、名誉をめぐる事件はひっきりなしに起きているし、神に現実感のあるひとたちや、国家や民族に現実感のあるひとたちの紛争も枚挙にいとまがない。しょせん自分にとってのリアリティにすぎないと思うことができれば、そういう不幸も少なくなると思うのだが。
NHK のドラマ「上海タイフーン」を何回か見たが、つまらない。

日本の会社を退職した主人公の女性は、勤め先を求めていきなり上海に行く。何のあてもなく、事前調査をしたようなようすもない。また、説得力のある動機の説明もない。上海なら簡単に勤め先が見つかるといううわさを聞いたとかいう描写があったわけでもない。そんなことが現実にあるだろうか。

早く舞台を日本から上海に移したいということだとしたら、ご都合主義といわれてもしかたないだろう。それなら上海に到着した場面からドラマを始めるほうがよほどすっきりする。その後の出会いや起業の話などもただただ唐突な印象で、そういうこともあるかもと思わせるところがない。

昨年の朝の連続ドラマ「ちりとてちん」は、遊び心の豊富なお話ではあったが、主人公がなぜ高校を卒業後すぐにひとりで大阪に出て行くことになったかという心理的な理由はていねいに描かれていて、非常によく理解でき共感できた。

架空のお話なだけに、そういうリアリティは大切だと思う。
日本語の「仮想」は「(機能を想定しているけれど)実体がない」といった否定的な意味合いが強く、英語の「バーチャル(virtual)」は「(実体はないが本質的な)機能がある」という意味合いが強いという。辞書を見てみても、たしかにそのとおりのように思われる。

か‐そう【仮想】─サウ〘名・他サ変〙
実際にはないことを、仮に現実のこととして考えること。仮の想定。「大震災を─した訓練」「─敵国」
(明鏡国語辞典)

virtual [ADJ: ADJ n]
You can use virtual to indicate that something is so nearly true that for most purposes it can be regarded as true.
(Collins COBUILD English Dictionary)


COBUILD が nearly true と表現しているのがうまい。そう表現すれば、「仮想現実」とかいうときの「仮想の」という意味になるし、同時に、「ほぼ本当に近い」「事実上の」「実質的な」という意味にもなる。「仮想の」と「事実上の」は日本語では別の概念だと思うが、英語では同じ単語で継ぎ目なく表現できる概念なのだろう。

日本語で仮想現実というと、想定に基づいているだけでどこか本質ではないという印象があるが、英語の virtual reality というのは、むらのある現実の世界を抽象して本質的な機能だけを抽出したものというようなよいイメージもあるのかもしれない。

virtual の反対語といえばふつうは real だが、「事実上の」という意味合いで考えると、もしかしたら technical になるのかもしれないと思う。たとえば、virtually none といえば「建て前はともかく実質上存在しない」ということだし、technically none といえば「実質はともかく建前上は存在しない」ということだと思うからだ。
NHK のある番組を見ていたら、アナウンサが fast food のことを「ファストフード」と発音しているのに気がついた。

ひと昔前までぐらいは「ファーストフード」と発音されていたし、文章にもそう書かれていたと思う。広辞苑、明鏡国語辞典でも、「ファーストフード」の見出しに説明が書かれていて、「ファストフード」の項目は「ファーストフードを見よ」という旨のみが書かれている。なぜ、fast food は「ファストフード」と発音されるようになったのだろうか。

ネットで少し検索してみると、「first food ではないから、ファーストフードという言いかたは間違い」というようなことの書かれているサイトがたくさんあった。それどころか、「ファーストフード」は和製英語(つまりファストフードなら和製英語でない)とまで書いてあるサイトもある。しかし、どうも、わたしはその意見に賛成できない。

もともと英語には日本語でいうところの母音を延ばす音はないはずだったと思う。中学生用の辞書などでは live を「リブ」、leave を「リーブ」などと表記するから、英語でも同じ母音を短く発音したり延ばして発音したりすることがあるかのように見えるかもしれないけれど、live の母音「い」と leave の母音の「いー」は違う母音だ。前者は東北弁の「い」のように「い」と「え」の中間のような音、後者は口角を引き上げて出す音だ。ちなみに、大学の時に英語の発音を教えてくれた米国人の先生は、後者の発音について、何か嫌なものを見たときに「イー!」と叫ぶときの発音だとかいって手を顔の横に当てておもしろおかしく実演してくれた。つまり、fast を「ファースト」とか「ファスト」とかいうのは、日本人にとってどちらか聞こえるというだけで、英米人は「ふぁ」を「ふぁー」と延ばしたり延ばさなかったりして発音しているわけでない。

それと、英語の場合、文中の重要な要素は強勢をつけてゆっくり長く延ばしているように発音するはずだったと思う。たとえば、It is fast! という文であれば、It is の部分は速く弱く発音する(だから It's になる)し、fast の部分は強くゆっくり発音すると思う。日本人には「ファースト」と聞こえるだろう。

だから、fast food は「ファストフード」のほうが英語の発音に近いといえないとわたしは思う。おそらく、問題になっているのは、日本語で「ファースト」というと fast ではなくて first のほうを思い浮かべさせるのではないか、ということなのだろう。それではなぜ、breakfast は「ブレックファスト」ではなく「ブレックファースト」と書くのか。よくわからない話だ。

余談だが、fast food の fast は「速い」という意味だが、breakfast の fast は「速い」という意味ではない。語源が違う同じ綴りの単語で、「断食」という意味である。一夜の断食をやめるから breakfast というわけだ。

なお、わたしは英語も語学も専門ではないので、ここに書いた内容に間違いがあるかもしれない。間違いに気付かれたかたは、ぜひご指摘いただきたい。
中高生のころはちょっと変わった本の読みかたをした。知らない語や読めない語があったら四角で囲んで余白に意味や読みかたを書く。読める語であっても、もし自分が書くとしたら書けないと思われる漢字があれば、それが書けるようになったと思えるまで余白にその語を書いて練習した。外国語の学習では一般的な方法だが、日本語をこのように読む日本人はあまり多くないと思う。これは語彙増強に非常に効果があったと思っている。

いまは趣味で本を読むときにそんなことはしない。しかし、仕事ではしょっちゅう辞書を引いて語の意味を確認しているから、いまでもちょっと似たことをしているともいえるかもしれない。

感銘を受けた部分や覚えておきたいことが書いてある部分に線を引いたり引き出し線を引いて余白に自分の考えを書いたりということは、いまでもする。本を汚して読むのを嫌がるひとがいることは知っているが、本気で本を読むときはそういうふうに読まないと頭に残らないような気がわたしはする。だから線を引けない図書館の本は返却と同時に内容まで忘れてしまったような気になる。

先日、外出先で本を読んでいたときに、ちょっと後で考えてみたいな、と思う部分があった。しかし筆記具がみつからない。ああ、そうだ、携帯電話のカメラで撮っておけばよいかとひらめいて接写モードでそのページの写真を撮った。これは便利かもしれないと思って、その後も次々とページの写真を撮っていった。

ところが、数日後に見たら、記録しようと思った理由がわからなくなっている写真があった。つまり、なぜそのページの写真を撮ろうと思ったのかを忘れてしまったのだ。鉛筆で線を引いた場合は、線を引いた理由を、読み終わってからたった数日で忘れてしまうことはないと思う。鉛筆なら特定の部分だけに線を引いたりコメントを書いたりすることができるが、写真ではそれができないからなのだろう。ただ、本の題名とページ番号が入るように写真を取っておけばそのページに戻ることはできるので、その点は便利だと思った。


関連記事:
辞書を引きながら本を読むこと
辞書を引かずに本を読むこと
NHK の朝の連続ドラマ「ちりとてちん」のあとの「瞳」は見なかった。最初の話を見て、これはつまらなそうだと判断したからだ。こういうドラマは一旦見出すと惰性で見てしまうので、つまらないと思ったら早めに見限ることにしている。

先週から始まった新しい連続ドラマ「だんだん」は、わたしも妻も大好きな女優さんたち、三倉姉妹が主役をやるということで、期待しつつ見た。

舞台は出雲と京都の祇園。わたしは京都府の日本海側出身で、京都府民だったという自己認識がある。同時に、京都府北部、兵庫県北部は「北近畿」と称されるが実質的には「山陰地方」である。したがって、山陰の出身という自己認識もある。だから出雲も京都もなんだか親近感がある。これは、楽しめるかもしれないと思った。

しかし、歌手志望の若者という役はまだしも祇園の芸妓さんは三倉さんに似合っていない。三倉姉妹は、明るくて健康的な印象の現代的な女性だから、芸妓という役にむいていないと思う。実際、着物姿やら所作やらがなんとも芸妓らしくない。こういうことは、単に着物を着て所作を教わればだれでもできるというものではないだろう。かたちだけ整えればなんとかなるというものではなく、立ち居振る舞いで着物に慣れていないということがばれてしまう。

話の展開のことでいえば、15 分の番組の 5 日分という短い放送時間で、まったく違うふたりの主人公の身の上を並行して紹介するというのは無理があったと思う。

最初の 1 週間は、どちらかの生活に焦点を当てた筋書きにすべきではなかったか。たとえば、最初の 1 週間は、親に反対されながらも歌手を目指して路上で歌っている出雲の若者の話をしておいて、週の最後に、自分にそっくりな子がとつぜん目の前に現れた、ということで次週につなぐというような筋書きのほうがおもしろいと思う。これはもちろん逆でもよい。祇園の芸妓が出雲にいったら自分にそっくりな子が歌を歌っていた、ということでもよいと思う。もうひとりの主人公の身の上話はそのあとにじっくりやればよい。

実際にはふたりの話を少しずつ同時に進めたので、ふたりの主人公の印象がばらけてしまい、どちらにも感情移入できないままお話が進んでしまったように感じる。

まあ、これは、最初の 1 週間の放送だけを見た感想である。このあと、とてもよい劇になっていく可能性はある。ともかく、うちではこのドラマを見るのをやめることにした。
コスモス

彼岸明けから寒い日が続いたが、やっと秋らしい陽気になった。

公園に行ったらコスモスが咲いていた。このブログに桜の写真を載せたのはつい先日だと思っていたが、もう秋桜の写真を載せることになるとは時の経つのは早い。
時代劇の「子連れ狼」を見ていたら
「目隠しにあうようでは刺客稼業は勤まらん」
と字幕に書いてあった。

会社勤めではない刺客の場合は、「勤まらん」よりも「務まらん」のほうがよいのではと思って調べてみた。明鏡国語辞典に詳しい説明があった。

つと・める【務める】〘他下一〙
役割や任務を引き受けて、その仕事をする。役割や任務に当たる。「受付[案内役]を─」「話し相手を─」「会長[議長]を─」「主役を─」
「勤」とも書いてきたが、近年「務」に統一される傾向にある(特に、~ヲに〈役割〉をとるとき)。しかし「お座敷を勤める」「お笑いを一席勤める」「座主ざすみずからが仏事を勤める」など、仕事に重点が移ると「勤」になりがちである。 つと・む(下二) 務め


もともと「つとめる」という日本語に外国語である漢字を当てたわけだから、どういう場合はどちらが正しいふうに考えるのは本末転倒なのかもしれないが、字の印象からか、「勤める」からは会社で働くことがわたしには連想される。だから、たとえば「結婚式の司会を勤める」というのはちょっと奇妙に感じる。

しかし、考えてみれば、江戸時代以前は日本に会社などなかったし、公家や武家などの公務員も人口のほんの一部だった。「勤める」と「務める」を会社や役所で働くかどうかで使い分けるというのは無理があるような気がしてきた。

ましてや、子連れ狼にとって刺客は生業なのだから、「務める」よりも「勤める」と書くほうがむしろ合っているのかもしれない。
あるバラエティ番組で途中から特別ゲストが参加した。そのゲストがあまりテレビ番組に出ないひとだったからだろう、司会者の男性タレントがアシスタント役の女性アナウンサに
「(このゲストに)お会いしたことないでしょ
とたずねた。すると、そのアナウンサは
はい、はじめて会いました
と答えた。

司会者は元ミュージシャンだが現在では軽薄な芸風のお笑いタレントのように活躍しているひとだ。その司会者が敬語を使って、プロのアナウンサが敬語を使わなかったというのはおもしろい。

「お会いしたことないでしょ」といわれたのだから、それに合わせて「はい。はじめてお会いしました」と答えそうなものだが、なぜ、このアナウンサは「お会いしました」ではなく「会いました」といったのだろう。
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