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英語で授業…「正直、無理」 高いハードルに先生困った (asahi.com)

日本の国民を英語ネイティブなみに英語で会話できるようにしたいのなら、インドやシンガポールのように算数も理科も小学校から英語で教えるぐらいじゃないとダメだろう。そうすれば、学問の世界でも経済や産業の世界でも、世界の国々と伍して活躍できる日本人が増えるのかもしれない。ただし、その場合、自国の言語を日本語から英語に切り替えていく、つまり英語を公用語にしていく覚悟が必要だと思う。

わたしは日本語が好きだから、そんな日本になってほしくない。万葉集も源氏物語も能も歌舞伎も落語も日本語を知っているからこそ堪能することができる。日本から日本語が消えたら、それらの文化も雲散霧消してしまうだろう。英語がしゃべれても「踏襲」さえ読めないようなひとばかりの世の中になるのは嫌だ。生徒児童には英語よりも日本語をしっかり教えてほしい。
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雇用危機ということで世の中たいへんらしい。「らしい」とは無責任な言いかただが、自分自身は雇用制度から外れてしまったし、そういう年齢の子どももいないので、どうしても人ごとになってしまう。それにしても、契約を打ち切られることですぐに路上生活を余儀なくされるひとがおおぜいいるとは知らなかった。そういうひとたちの窮状を報道しているテレビ番組を見て「日本ってこんな国だったの」と妻もびっくりしていた。

とはいうものの、わたしも継続した発注などまったく保証されていない請負の仕事で飯を食っているわけで、いつ仕事がなくなるかもしれないし、仮に仕事がなくなっても取引先に文句をいうわけにもいかない。文句をいう先がないだけ雇用契約のひとよりきつい立場かもしれない。実際、バブル経済崩壊以降経営難による中小企業経営者の自殺増加が日本人男性の平均寿命を引き下げていると聞くが、経営者の生活苦が今回の派遣切り騒動のように大きく報道されることはなかったと思う。

わたしの親は漁師で、わたしの田舎のひとはほとんどが漁師か百姓、そうでなければ個人商店主や職人などである。つまり、雇用されて生活しているひとはほとんどいない。わたし自身、子どものころに畑を耕したことがあるし、田植えや稲刈り、牡蠣の養殖や刺網漁などを手伝ったことがある。そういう環境で育ったせいか、雇用という制度がないと人が生きていけないというのは何だか変な世の中だなと思う。

ほんの百年ちょっと前の江戸時代は九割近くの国民が百姓か漁師だったわけで、貨幣経済がなかったわけではないが、味噌も草鞋も自分で作って生活していたわけだ。お百姓さんなら自分たちで作った米や野菜を食べていたのだろうし、漁師なら魚を米に換えて、職人は自分の技術をお米に換えて食べていたのだろう。現在は、逆に、日本人の八割以上、おそらく九割近くが給与生活者だ。人口が増えすぎたので雇用という制度によって皆が食べていけるしくみを維持しているということはわかる。わかるけれども、江戸時代的にいえば世の中のほとんどのひとが丁稚や手代、番頭、あるいは役人のたぐいの職業になったような状況でよく世の中が回っていくものだなあ、と感心してしまう。
コンビニエンスストアは、単にものだけ売っているのではなくて、宅配、郵便、各種料金収納代行、コピー、ファックスなどいろいろなサービスを提供している。わたしは、クリーニング屋の衣類受け渡し代行もやればよいのにとずっと前から思っていた。ひとり暮らしの会社員だったころ、クリーニングを出したり取りにいったりするのがたいへんだったからだ。しかし、それをやっているコンビニ店舗はまだ見たことがない。

京都市で始まったコンビニ深夜営業見直しの議論の件で、コンビニは深夜の防犯や災害時の避難に役立つという主張を聞く。実際、コンビニの店長が集まった会場で警察庁の関係者が講演のようなかたちで防犯への協力を依頼している場面をテレビで見たこともある。本来警察庁なり防衛省なりの行政がやるべき防犯や災害対策のサービスまでコンビニが請け負うとは興味深いと思った。行政の視点でいえば民間委託ということか。

ひとり暮らしの会社員だった経験からいえば役場に住民票を取りに行くようなことも簡単ではない。行政だってサービス業なんだから 24 時間窓口を開けていてくれてもいいじゃないか、それに窓口のひとは公僕のくせに妙に愛想がなかったりするぞ。いっそ、コンビニを行政機関にしてしまうというのはどうか。コンビニで住民票も取れるし、婚姻届も出せることにすればよい。そして、各コンビニには警察官をひとりずつ常駐させれば治安維持にも役立つ。つまり、役場と交番とコンビニを合体させるのだ。とまあ、バカなことを夢想した。
【教育】国際数学・理科教育動向調査 日本の子供の弱点浮かぶ (産経ニュース)

少し古いニュースだが、小学生を対象に行われた「国際数学・理科教育動向調査」で、日本の子どもは文章題や記述問題に弱いことがわかったという。この調査は各国の子どもの数学や理科の学力を測るのが目的だったのだろうけれど、むしろ日本の子どもの国語力の低さが露呈したというのは皮肉なことだ。

数学の成績も理科の成績も国語力に負うところが大きい。それは、言語の能力と抽象化能力の高さに相関があるからではないかという気がする。畢竟、知能というのは抽象化能力のことではないか。かつて大学で心理学を専攻したものとしていわせてもらえば、心理学上、「知能」の明確な定義はなかったはずだ。それなら自分なりに知能を定義しても問題なかろう。

言語にはものごとを抽象化する機能がある。たとえば、「消しゴム」といっても、わたしの使っている消しゴムとあなたの使っている消しゴムは同じではない。わたしの使っている消しゴムでも、昨日の消しゴムと今日の消しゴムは違う。消しゴムを 5 個買うというけれど、消しゴムが 5 個あればそれらはそれぞれ別々の消しゴムだ。しかし、言語というのは、それらをすべて「消しゴム」という同じことばで表現して同じものとして扱う。文章題を解けないというのは、そのようにものごとを抽象化して考えることに慣れていないというか、得意ではないからだと思われる。

むかし塾でアルバイトをしていたときに気付いたことだが、文章題が表現している世界を客観的に理解することができない子どもがいる。たとえば、「花子さんは文房具屋で消しゴムと鉛筆をあわせて10個買いました」というような問題を読んだとき、「花子さんってだれ?どうして『あわせて 10 個』なんてわけのわからないことをいうの?自分で買ったのに消しゴムと鉛筆をいくつずつ買ったかを覚えていないの?」というような感じかたをするらしい。

その言い分は正しい。正しいが、算数の文章題を解くためにはすこぶるよろしくない。買った人は花子さんじゃなくて太郎君でもよいし、消しゴムと鉛筆ではなくてキャベツとブロッコリーでもよい。そんな個別具体的なことは本当はどうでもよいのだ。しかし、個別具体的なことがどうでもよいということが理解できていない。個別具体的なことを度外視するというのは抽象化して考えるということだ。つまり、その子には抽象化する能力が発達していない。


知り合いでちょっとした事業を始めようとして近所にポスティング(チラシを個人宅に投函)したひとがいる。そのひとがポスティングを始めた日に、自分が投函したチラシを読みもせずに捨てるひとを見かけてショックを受けた、とわたしに電話でこぼしてきた。そりゃそうだ。あんなものはダイレクトメールみたいなもので、何千、何万と配って 1 件なり 2 件なりの反応があればよしとしたものだろう。しかし、彼は自分の入れたチラシならちゃんと読んでくれるに違いないと確信していたらしい。じゃあ、君は自分の家にきたチラシをちゃんと読んでるの、と聞いたら、「いや、そんなものはすぐに捨てるよ」と答えたのでずっこけた。

落語のような話だが本人は大まじめで何がおかしいのかわからないらしい。自分のふだんやっていることを考えれば自分の入れたチラシを捨てるひとが多いということは容易に想像できるはずだ。しかし、彼は、なぜだか自分の入れたチラシだけは違うはずと思いこんでいる。これは、個別具体的なことから離れて一般的な傾向を導き出す、という抽象化作業ができていないということだろう。

実は、わたしは、大学に入るまで、知能とは論理的に考える能力のことで、知能の高いひとの代表はニュートンやアインシュタインのようなひとだと思っていた。そして、そういう知能の高さと言語能力は関係がないと思っていた。だから、大学で心理学を専攻して、WAIS という非常に古い知能テスト(IQ テスト)に「言語性検査」という言語能力を測るテストがあることを知って、変だなあと思った。しかし、今では言語能力と知能に密接な関係があるということに納得している。上に書いたように、言語能力とは抽象化能力のことだということがわかったからだ。
その年を漢字一字で表すという「今年の漢字」、2008 年は「変」に決まったそうだ。

今年を漢字一文字で表すと?と聞かれて「変化」と二文字で答えた安倍晋三さんのときから衆議院を解散せずに首相を切り替えているだけの政治、公僕の年金泥棒、ミゾウユウの経済停滞。そんな停滞感や閉塞感の強い昨今に「変わる」の「変」が選ばれるとはなんとも変なことだなと思ったら、選ばれた主な理由はオバマ氏の「Change」が印象的だったということだという。

「今年の漢字」って、外国のことをネタにしてもよかったんだっけ。それにしても、自分の合言葉「Change」がアジアの経済大国でも The Word of the Year に選ばれたとは、オバマ氏もさぞ鼻が高いことだろう。

話は変わるが、「かえる」とか「かわる」というのは漢字で書くのが意外にむずかしい語だ。「変える」と「代える」はまだしもだが、「替える」と「換える」はいつも迷うし、いま現在も違いがよくわかっていない。

明鏡国語辞典には次のように書いてあった。

「難しい言葉を易しい言葉に換える(=置き換える)」「言葉を換えれば(=換言すれば)こういうことになる」「仮名を漢字に換える」「小切手を現金に換える(=換金する)」「役員の配置を換える(=転換する)」「攻守所を替える(=攻撃側と守備側が入れ替わる)」「バスを自転車に替えて通学する」「一万円札を千円札に替える(=両替する)」「ドルと円を換える」「次の駅で乗り換える」 太字で示した表記が一般的だが、「換・替」はしばしば交替可。

こうやってみてみると、「換金」だから「現金に換える」、「両替」だから「小銭に替える」というふうに、その意味になる漢語を連想すれば使い分けしやすいようだ。なお、「入れ換え」については、『共同通信社の記者ハンドブック』では、「入れ替え」に統一することになっている。


関連記事:
物見高い日本人
先日、裁判員制度についての NHK の特別番組を見た。模擬裁判のようなことをやったり、一般市民が議論したりしてなかなかおもしろかった。

裁判というのは公正であることが大切だと思う。そして、公正であるためには感情に左右されてはいけない。しかし、いろいろなひとのブログを見ていると他人とのやりとりで簡単に感情的になる人が非常に多いと感じる。こんな現状では、裁判員制度なんてとても無理なことだよなあと思う。

わたしはけっこう他人のブログにコメントするほうだが、そのひとの考えと違う意見をコメントするだけでキーっとヒステリックになられたことが何度もある。「わたしのブログなんだからわたしの好きに書かせて」なんてコメントを返されたこともある。もちろんあなたのブログなんだから好きに書けばよいと思うが自分と同じ意見や自分と違う意見などいろいろな意見を聞きたいからコメント欄を用意しているのではないのか。とはいえ、いったん切れられると何を書いても無駄なので、そういうブログは読むのを止めて敬して遠ざけることにしている。

他人の意見が自分と違うというのは当たり前だし、違う意見を摺り合せていくことでお互いに新しい考えを得られるのじゃないのかと思うのだが、そういうひとはお互いの考えを尊重して議論するという習慣がないのだろう。自分と違う意見を提示されているということと悪口を言われているということの区別ができないのだと思う。

また、議論というものを正しい結論あるいは最も妥当な結論を共同して見つけていく作業ではなく、政治的な勝ち負けをきめるための行為と思っているのかもしれない。世間での自分の地位を保つためにも相手の意見を認めて自分の意見が否定されることを許すわけにはいかないとか、自尊心が許さないとかいうふうに考えるのだろう。それは、事実や確かさよりも、世間における地位や面子、プライドのほうに価値を置いているということだ。

わたし自身は面子とかプライドとかいうものよりも、議論によってより確かな事実や結論を得られることのほうが大事と思っている。理系と誤解されることがあるのはそのせいか。ただ、自分のことはそれでよいのだが、相手もそうであるべきだと思ってぶしつけなことを言ったり書いたりする。しかし、たいていの場合、相手は事実よりも面子を重んじているので、わたしはいつも嫌われることになる。

いずれにせよ、いっしょに真理に近づいていくために議論をするという習慣がほとんどない国民性では、裁判員として他人の意見を聞きながらいっしょに1つの結論を見つけていくなんてことができるはずがない。


追記(2008/12/15):
裁判員制度は、人を殺す(可能性がある)仕事を国が強制するという点では徴兵制度と同じなのだから、特定の宗教を信じているひとなど良心に基づいて拒否できる制度は少なくとも必要だと思う。

さらに追記(2008/12/16):
昨日のわたしの追記と同じような趣旨のことを仏教のひとが訴えている記事があった。
「人を裁くことできない」 裁判員制度で善光寺住職 
「さもしく1万2千円欲しい人も…」定額給付金で首相発言(読売新聞)

貧しい人には全世帯に渡すが、『私はそんな金をもらいたくない』という人はもらわなきゃいい。(年収が)1億円あっても、さもしく1万2000円が欲しいという人もいるかもしれない。それは哲学、矜恃(きょうじ)の問題で、それを調べて細かく(所得制限を)したら手間が大変だ

と首相はおっしゃったそうだ。

1 万 2000 円というのは月 6 万円くらいの国民年金で生活しているひとにはけっこうな金額だが、なるほど、首相にとっては一晩の飲み代にもならない金額なのだろう。「貧しい人には全世帯に渡す」というのは、政治家としてなかなか思い切った言いかただと思う。「貧乏人は麦を食え」といった政治家がむかしいたことはいたが、現在、「貧しい人」という表現を躊躇なく使える政治家はほかにあまりいないだろう。さすがは「下々のみなさん」と平気でいえるひとだけのことはある。

それにしても、定額給付金というのは生活困窮者対策ではなくて景気刺激策ではなかったか。それなら、貧乏人よりもむしろ金持ちが受け取ったほうが効果があるのではないのか。わたしのような貧乏人に余分な 1 万 2000 円があっても貯蓄なり日々の生活費なりに回すだけだが、首相のような金持ちに余分な 1 万 2000 円があれば、もう 1 杯飲もうということになるのではないか。だったら、年収 1 億円のひとが 1 万 2000 円を受け取っても「さもしい」と非難することもない。
Act Against AIDS というエイズ撲滅キャンペーンのイベントで「ひとり紅白歌合戦」と題する桑田佳祐のライブを WOWOW で見た。桑田さんほぼひとりで、かつてヒットした GS、演歌、フォークソング、ムード歌謡など各種ジャンルの歌謡曲 61 曲を約 3 時間かけて歌いあげた。

いやあ、よいものを見せてもらった。後半でピンクレディーの「渚のシンドバッド」に続けて沢田研二の「勝手にしやがれ」を歌いはじめたときは、思わず「おお」と声を上げてしまった。なぜかというと、サザンオールスターズのメジャーデビュー曲「勝手にシンドバッド」の曲名は、その当時ヒットしていたこの 2 曲に由来しているからだ。もちろんそれを意識した演出なのだろう。しゃれている。

全体を通して圧巻だったのは、内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」だ。さすがに高校時代から前川清さんの大ファンというだけあって感動的な歌いっぷりだった。わたしは内山田洋とクールファイブも好きだが、桑田さんの歌は本家よりもよかった、というと怒られるか。

その他の歌も桑田さんのお気に入りと思われる歌ばかりで、早い話が桑田さんのカラオケをずっと聴いていたようなものだ。それらが単なるモノマネではなくて桑田流の歌に仕上がっているので聴いていて飽きない。桑田さんの歌がうまいのはいまさらいうまでもないが、このひとは本当に歌謡曲が好きなんだなと思った。

思えば、子どものころはこういういかにも「歌謡曲」という歌ばかりの紅白歌合戦を家族そろって見たものだ。年越しそば、掘りごたつ、みかん、豆炭あんか、ハクキンカイロなど、むかしの冬の生活を芋づる式に想い出した。今回のライブは録画してあるので、大晦日にはこのライブを流してむかしの大晦日をなつかしんでみようと思う。
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