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先日の「カンゴロンゴ」で、「行くに径(こみち)に由(よ)らず 」ということばを紹介していた。広辞苑は「小道や裏通りを通らず大通りを歩く。正々堂々と事を行うこと」と説明している。枝葉のことや目先の損得にこだわらずに本質に沿って事を進める、ということだろう。番組では、仕事の本質をないがしろにして出世のために社内の政治を優先したことで失敗してしまった男性に対してこのことばを贈り、次のようにいさめていた。

他の人に喜んでもらうことが、仕事の大道である。しかるに、大きな会社におると、往々にしてこの大道を見失ってしまう。古くなった会社には、たくさん小さな道ができるからです。
そういう小道というのは、一見、近道に見えることがあります。しかし、進んでいくとヘビが出たり、落とし穴が掘ってあったり、途中で途切れていたりするものです。

NHK 世直しバラエティー カンゴロンゴ」より

仕事の目的は他の人に喜んでもらうこと。これは本当にそのとおりだと思う。わたしの仕事も、なぜ翻訳するだけでお金をいただけてごはんを食べられるかというと、それが多少なりとも世のためひとのためになっているからであるはずだ。

最近は世の中全体にそういう感覚が薄れているのではないかという気がする。産地を偽装するなんてのは論外だが、たとえば接客を仕事にするひとはお客さまに喜んでもらえるように仕事をしているだろうか。物を作るひとはそれを使うひとに喜んでもらえることを第一に考えているだろうか。そういうひとも多いと思うが、そうでないひとも見かけられるような気がする。

わたしが子どものころ実家は夏期に民宿をやっていて毎年 2 ~ 4 人くらいのアルバイトを雇っていた。そのころ父は「雇ってやっているんじゃない。手伝ってもらっているんだ」とよく言っていた。父はもう後期高齢者だが未だに現役で漁業をやっていて、きつい作業はシルバー人材センターに登録しているお年寄りに手伝ってもらっている。他人を使っているのではなく手伝ってもらっているんだという気持ちは今でも同じだろう。そういった関係が「雇用」の本質ではないだろうか。

父が利用しているシルバー人材センターのしくみは最近話題の派遣社員とほとんど同じだろう。しかし、派遣社員を使っている企業は「手伝ってもらっている」と思っているのだろうか。そして、派遣社員のほうは「手伝っている」と思っているのだろうか。本質を見失うことは、「行くに径に由らず」の教えに反することになる。
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いきなりプラグを引き抜いたり電源ボタンを押したりするのではなく、決められた手順に従ってコンピュータを終了させることを graceful shutdown という。Windows パソコンであれば、[スタート] ボタンから [シャットダウン] をクリックして電源を切るのが graceful shutdown だ。英辞郎には graceful exit というよく似た用語が載っているが、それも同じような意味だ。

シャットダウンのために正しい手順に従うのが優美で上品なことだという感じはわかる。わかるが、日本語ではこんなふうに易しいことばで技術的な内容を表現することはほとんどないような気がする。日本語なら、「正常終了」「正規シャットダウン」のように漢語を使って生硬に表現するだろうと思う。

graceful には「潔い(いさぎよい)」という意味もあるらしい。たとえば、a graceful apology は「潔い謝罪」である。日本語では「優雅な」と「潔い」は別の形容詞になっているので気が付きにくいが、そういわれてみれば、なるほど潔いことはたしかに優雅で美しい。人間とは本質的にあきらめの悪いもので、育ちがよくないと潔くなれないものなのかもしれない。なお、gracious という形容詞のほうは、単純に優雅で寛大で慈悲深いことを表すようだ。

潔いことが美しいといえば、「武士道」とはそういうものではないだろうか。読んでいないけれど武士道精神の重要性を説いているという藤原正彦さんの「国家の品格」はThe Grace of the Nation とでも訳せるのかもしれない。
蝋梅1 蝋梅2
白梅から 20m ほど離れたところに咲いているソシンロウバイ(素心蝋梅)。

本当に蝋細工のように見える。蝋細工のようなのでロウバイというのだろうと思っていたが、漢字源によれば陰暦十二月(臘月)に花が咲くからロウバイなのだそうだ。それが本当かどうかはわからない。現在では、蝋細工のようだからロウバイだと思っているひとのほうが多いだろう。

ウメとは別種だが、「からうめ(唐梅)」「なんきんうめ(南京梅)」ともいうらしい。ウメだって日本古来の植物ではなくて中国から日本に来たものだが、ロウバイは、比較的新しく、おそらく江戸時代ぐらいに中国から渡ってきたので、そのように呼ばれるということのようだ。

英語ではなんというのだろうと思って電子辞書を見ると、ランダムハウスに Chimonanthus praecox とあった。これは学名だろう。リーダーズにはJapan allspice、winter sweet という語が載っている。winter sweet とはきれいな名前だ。甘い香りがするからだろうか。
梅2 梅1
蝋梅が咲いているかなと思って公園に行ってみると思いがけず白梅が咲いていた。ところが、この木だけ名札が付いてなかった。何かのかげんで落ちてしまったのだろう。この梅園には毎年行くが、わたしがウメの花の姿形を見てすぐに名前のわかる品種は数えるほどしかない。このウメも名札がないと名前がわからない。ただ、去年見た記憶でいうと、おそらく「長寿」という品種ではないかと思った。
東京新聞の「反響」欄に、先週放送の「時事放談」について次のような意見があった。

元財務相が「蛇足」を「じゃそく」と一度ならず二度までも言っていました。最近、首相の漢字の読み間違いなどが問題になっているだけに気になりました。


そのときの放送はわたしも見ていて、「じゃそく」にも気が付いていた。元財務相とは塩川正十郎さんのことだ。しかし、「じゃそく」でもよいはずと思っていたから、とくに調べもせず忘れていた。

あらためて調べてみると、やはり「じゃそく」という読みかたはある。というより、「じゃそく」のほうが本来の読みかたのようだ。漢字源によると、「蛇」という漢字は、訓読み「へび」、音読み「タ」と「イ」が呉音/漢音、「ジャ」が呉音、「シャ」が漢音だそうで、「ダ」は慣用音ということになっている。つまり、「蛇足」を「ダソク」と読んだり「蛇蝎」を「ダカツ」と読んだりするのは慣用読みらしい。「ジャソク」や「ジャカツ」では発音しにくいから、「ダソク」「ダカツ」と読まれるようになったのだろう。

「茶道」を「サドウ」ということがあるのも同じかなと思ってそちらも調べてみたら、漢字源では「茶」の唐音が「サ」で「チャ」が慣用音ということになっていた。広辞苑では「チャ」が慣用音というのは同じだが「サ」は漢音としている。いずれにせよ、毎日飲んでいる茶を「チャ」と読むのが慣用読みだったとは、おもしろい。
一昨日、将棋「朝日杯将棋オープン戦」の本戦トーナメント、深浦康市王位 対 久保利明八段戦 のネット中継を見た。久保八段のさばきがあまりにみごとで感動した。リンク先のサイトで再現することができるので、将棋のわかるかたは是非観賞していただきたいと思う。

「さばき」というのは将棋の用語で、将棋を知らないひとに意味を説明するのはむずかしい。将棋の世界で「さばき」の反対語は「押さえこみ」だといえば少しはわかっていただけるだろうか。簡単にいえば、攻め駒を効率よく活用すること、というような意味だ。久保八段は「さばきのアーチスト」と呼ばれる現棋界随一のさばきの名手である。

「さばき」には強引なさばきとか豪快なさばきというようなものもあるが、久保八段のさばきは「軽いさばき」だ。「軽い」というのは、適切な場所に必要十分なだけの駒を起用する、というようなことである。久保八段の指し手のような「軽いさばき」は数学でいう「エレガントな解」のようなもので、力強さよりも優雅さや美しさを感じる。アーチストといわれる所以だろう。

しかし、軽い指しかたというのは必要なときに必要な分だけしか資源を投入しないというかんばん方式のような方法なので、ちょっとでも誤算が生じると失敗することになる。「軽い」指しかたのつもりが実は投入する資源が足りなかった、というのを将棋用語で「薄い」という。「薄い攻め」はうまく受けられると成功しないし、「薄い受け」は相手に好手があると簡単にやぶられてしまう。

久保八段の対戦相手だった深浦王位は、どちらかといえば、逆に粘り強く手厚い棋風だ。「手厚い」というのも将棋用語で、これまた説明がむずかしい。勢力を多めに投入する指しかたとでもいえばよいだろうか。「手厚い攻め」といえば容易に受けきられることのない物量攻めのことであり、「手厚い受け」といえば当座必要な量以上の勢力を受けに投資することだ。多少の誤算があっても攻めが続かなくなったり簡単に攻め潰されたりする危険は少ない。しかし、勢力を過剰に重複させてしまって効率が悪くなりすぎることもある。そういう手は、「重い」と表現する。「薄い手」とか「重い手」というのは代表的な悪手だ。

「軽い手」や「手厚い手」はどちらも好手の見本だが、将棋界では一般に「軽い手」よりも「手厚い手」のほうが好まれるし評価も高い。将棋は数学ではなくて勝負事なので、駒を適時適材適所に活用する最適解に近い「軽い手」よりも、不測の事態に備えて資源を余分に投入した「手厚い手」のほうが悪手になる危険度が低く、仮に悪手になっても罪が軽いということだろう。しかし、わたしは見た目に美しい「軽い手」が好きだ。久保八段の将棋はいつ見ても楽しい。
ある英文の focus on という表現を「焦点を当てる」と訳そうとした。別に光学に関する文を訳していたのではなくて、「注目を集める」というような比喩的な意味で使われている文を訳そうとしたのだ。しかし、なんとなく嫌な予感がしたので調べてみたら、案の定、広辞苑にも明鏡国語辞典にも「焦点を当てる」という表現は載っていなかった。「焦点を絞る」という表現なら載っている。考えてみれば、カメラなどを使うときに「焦点を当てる」という操作はない。わたしはこれまで「焦点を当てる」という表現をよく使ってきたが、「スポット(ライト)を当てる」などの表現と混同していたのだろうか。

「焦点」といえば、紙に書いた黒い点に虫眼鏡で太陽光を集中させて焦がす、という子どものころの遊びを想い出す。そういう経験があるために、「焦点を当てる」という表現に違和感がなくて、これまでよく使ってきたのかもしれない。

しかし、辞書に載っている「焦点を絞る」というのもどうだろう。カメラに「絞り」というのはあるけれど、あれは光量を絞るためのものであって、「焦点」つまりいわゆる「ピント」は絞るものではないような気がする。カメラに詳しくないので間違っているかもしれないが。この「絞る」は「的を絞る」などから流用されてできた言いかたではないだろうか。ピントは「合わせる」ものだから、やはり「焦点を合わせる」がいちばん合理的な表現のようだ。
東京新聞の放送&芸能のページの「反響」という欄にテレビやラジオの番組についての読者の意見が載せられている。この欄には非常に個人的な意見や身もふたもない意見が載っていることが多く、読んでいるとずっこけたりあきれたりしてとても楽しい。

昨年末から、テレビでノースリーブを着ている女性に対する苦情をこの欄でよく見るようになった。たとえば、昨日と今日は次のような投稿があった(一部抜粋)。

「東京都心で初雪が観測されたというのに、コメンテーターの女性脚本家はノースリーブ姿でした。もう少し、テレビを見ている私たちのことも考えて、春夏秋冬の違いのある服装で出演してほしいものです。」(1月14日)

「案内役の女優の肩がむき出しの服装が場違いで、目障りだったのは惜しまれます」(1月15日)

外は初雪だといってもスタジオ内は暖かいだろうから薄着ができたのだと思う。他人が何を着ようとそのひとの勝手だとわたしは思うが、そうは思わないひともいる。世の中おもしろい。
Revealed: the environmental impact of Google searches (Times Online)

Google 検索を 2 回実行するとやかんでお茶を沸かすのと同じ量の二酸化炭素が生み出されるという米国の物理学者の研究が話題になっているようだ。なるほど、これからは Google を使わずに もっぱら Yahoo で検索せねばなるまい(笑)。

それにしても、なんでまた Google という私企業の名前をあえて出しているのだろう。何か意図がありそうな気がする。そういう屁理屈をいうのなら Yahoo や Amazon だって環境に悪いだろうし、電力産業とか自動車産業なんてもっとあからさまに環境に悪いと思われる。だいたい、検索 2 回でお茶 1 杯なんていわなくても、その Google 検索を実行しているパソコンや携帯端末を 1 台作るのにどれだけの水資源、化石燃料、鉱物資源が消費されていると思っているのか。

まあ、こういう記事をパソコンで読んでその感想をパソコンで書いたりしているのは全世界の人口のほんの一部だ。すべてのひとがパソコンやインターネットの便利さを享受できる世の中はこれからも決して来ないと思う。その前に化石燃料が尽きてしまう。その意味では米国のように勝ち逃げしようという態度もわからなくもない。その米国の学者がこういうことをいうというのは、きっと、わたしなんかにはわからない何か複雑な思惑があるのだろうなあ。
断続的にアルバイトをして生活している人たち、いわゆる「フリーター」のことを、一種の「無職」ととらえているひともいるようだ。転職.jp というサイトの「ビジネス用語辞典」では無職を次のように定義している。

無職とは、定まった職業に就いていない、または会社に所属しておらず、仕事が無い状態を指します。広くは仕事に就いていないといった意味合いで使われている。最近では、『無職』という言葉に対するネガティブなイメージを嫌い、若者の間では『フリーター』や『家事手伝い』などと表現されている場合もあります。
(改行位置変更)

この定義ではフリーターを無職とみなしているように見える。まあ、そういう見方をすれば、不定期の請負仕事をしていて、いつ仕事がなくなってもおかしくないわたしも無職のようなものだ。

総務省の日本標準職業分類の「職業の定義」では、職業を次のようなものと見なしている。

この職業分類にいう職業とは、個人が継続的に行い、かつ、収入を伴う仕事をいう。
  仕事の継続性とは、仕事が一時的ではなく、次のいずれかに該当することをいう。
  (1) 毎日・毎週・毎月等の周期を持って行われている。
  (2) 季節的に行われている。
  (3) 明瞭な周期を持たないが続けて行われている。
  (4) 現に従事している仕事を引き続きそのまま行う意志と可能性がある。

この定義の継続性の(3)を使えば、わたしもいちおう職があることになると思う。

匿名でおおぜいひとの投稿している人気ブログのコメント欄や匿名掲示板などをたまに見ると、「無職」という語がまるで侮蔑語のように使われている。つまり、相手を罵る目的で「この無職が」「無職のくせに」などと書かれていることがある。当たり前だが、無職であること自体は悪いことではない。そのような投稿をするひとはなぜ「無職」を侮蔑語として使えると思うのだろうか。

このようなことをいうひとは、職に就いていない人間はバカにされて当然のダメ人間だと思っているのだろう。つまり、人間は何が何でも職に就いていなければならないということを当たり前の前提だと思っている。おそらく当面に食うに困っているわけではないだろうひとたちに何が何でも職に就いていなければならないという強迫観念があるのは奇妙なことだと思う。

もちろん、派遣村に集まった一部のひとたちのように雨露を凌ぐ場所がなかったり今日明日の食事に困ったりしていれば、それは気の毒なことだと思う。しかし、そのことと無職であることの善悪とは別のことだ。

似たようなことをいえば、そういった匿名コメント欄や掲示板では、貧乏人とか田舎者、高卒、中卒なんていうのも侮蔑語として使われているようだ。これまた当たり前のことだが、貧乏人であることも、田舎者であることも、高卒でも中卒でも、それら自体は何ら悪いことではない。


英語ではどうかと思ってネットで調べてみたら、unemployed (失業中の)という語の Politically Correct(政治的に正しい)な言いかたが書いてあるブログがあった。その記事では、unemployed の言い換えが次のように書かれている。

in an orderly transition between career changes
indefinitely idled

この記事がまじめに書かれたものかどうかは知らないが、少なくとも何らかの言い換え表現を書いたひとがいるわけだから、英語でも unemployed は侮蔑語、差別語の一種として認識されているところがあるのかもしれない。

そういえば、別に unemployed というのがいやだったというわけではないが、わたしも無職状態のときに外国人に職業を聞かれたときは I'm between jobs と答えていた。そういう言いかたもある。
最近読んだピーター・フランクルさんの本(「美しくて面白い日本語」)の「目くそ鼻くそを笑う」ということわざについての項で、著者のピーターさんは「Comparison is no reason.」という英語のことわざを挙げて、比較することはよいことではない、と主張している。この英語のことわざは知らなかったが、ピーターさんの解説によれば「比較は理由になりません」という意味だそうだ。

文脈のないあまりに単純な構造の英文なので、このことわざにどういう教訓や寓意があるのか英語母語話者でないわたしにはよくわからない。「There is (you have) no reason to compare yourself with others.」というような意味なのかなと想像した。

子どもが親に携帯電話をねだるときに「クラスのみんな持っているんだから」というのは理由にならない。クラスのみんなが持っているということと自分にそれが必要かどうかは別の話だ。そういう教訓だとしたらとてもよく納得できる。

日本人は他人と同じでありたいという気持ちがとても強いと思う。まあ、日本人以外のことはあまり知らないから他国の人と比較できないが、日本人のひとりとしてそう思う。

わたしの子どものころはどこかのうちがピアノを買えば向こう三軒両隣がぜんぶピアノを買うなんていうことが実際にあった。また、若者は、自分が好きだからというよりも周りがみんなやっているからという理由で、洋楽を聴く、オーディオセットを買う、借金してでも自動車を買う、ということをしていた(ようにわたしには思われた)。

わたしはへそまがりだからそのどれもやらなかった。最近は若者が車離れしていると聞くが、そんなの当たり前じゃ、必要なひとが買うのはいいけれど、ファッションやステータスシンボルとして車を買ってんじゃないよ、ふだんはエコエコいっているくせに、と意地の悪いことを思ってしまう。

日本人は自分と他人を比較して嫉妬する気持ちも強い。同期入社の彼は部長なのに自分は平社員だとか、自分は 1 円でも安いスーパーを探して買い物する生活をしているのにカップめんの値段も知らない生活をしているなんてずるいとか。一般人を有名人に仕立て上げた後で過去や現在の行状を曝露して貶めることでカタルシスを提供するマスコミ報道なんかも日本人の嫉妬心を利用している。いやらしいし、あほらしい。

キリスト教徒ではないけれど「おれはあいつほど嘘つきじゃないから天国に行く資格があるはずだ」という主張には意味がないだろう。それは自分と神との問題であって他人との比較の問題ではない。日本ではたとえばキリスト教徒のように他者との比較を必要としないでものごとを判断できる基準をもっているひとが少ないのだと思う。

自分は自分、他人は他人だ。自分の価値は、他人と比較することではなく、もっと別の絶対的基準で測ればよいではないかと思うのだが。
数学者のピーター・フランクルさんの「美しくて面白い日本語」という本を読んだ。ピーターさんによればご自身のあやつる 12 か国語のうちもっともむずかしく奥深いのは日本語だそうで、その日本語についての熱い思いが書かれている。

たまたま並行して水村美苗さんの「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」という本を読んでいるのだが、そちらがどうやら海外生活の長いマルチリンガルの日本人から見た英語帝国主義の中で消えていく弱小言語としての日本語のすがたについての本らしいのに対して、ピーターさんの本は同じ日本語をテーマにしながらまったく毛色の違う本で、日本生活の長いマルチリンガルの非日本人が美しい日本語の存続を願う本である。

この本にはわたしも知らない日本のことわざや故事成語も紹介されている。本当に日本語が好きで好きでたまらなくて猛勉強したのだろう。頭が下がる。

そんなピーターさんも「塵も積もれば山となる」「一円を笑う者は一円に泣く」「目くそ鼻くそを笑う」ということわざはお嫌いらしい。これらのことわざは上の立場の人が下の立場の人を戒めることばのように感じられるそうだ。ピーターさんは、ユダヤ人であることやハンガリーという弱小国で生まれ育ったということなどから、力のある側が力のない側を封じたり馬鹿にしたりするような行為を連想させることばに人一倍敏感なのかもしれないと思った。

また、小学校の英語教育導入は米国に対する劣等感の裏返しではないか、英語教育よりもきちんとした日本語教育が重要だと主張している。これにはまったく同感だ。
「コンカツ」という語を昨日初めて知った。「結婚活動」の略で、結婚を相手を探す活動のことだそうだ。「就職活動」を「就活」と略すようなものなのだろう。辞書には載っていない。

自然に恋愛結婚をしたわたしがいうのもなんだが、結婚活動って本当に必要なことなのだろうか。縁がなければ結婚しなければよいだけではないのか。「友だち」なら無理やり作ったりはしないだろう。それと同じで結婚というのも人間と人間の出会いと別れの一形態なのだから、自然にくっついたり離れたりすればよいと思う。

少子化対策の政策にしても、ビジネス成功のために無理に人脈を広げるとかいうのも、こういった話はどこか人工的で不自然な感じがして気に入らない。「結婚活動」ということばには配偶者や子どもに依存して生きようという打算的なものを感じてしまう。そういう生き方はせっかくの人間同士の一期一会の出会いを打算で汚すことになるのではないか。
昨年 12 月に情熱大陸というドキュメンタリ番組で渡辺明と羽生善治の将棋竜王戦のことが取り上げられた。民放の番組で将棋が取り上げられるのはめずらしいので録画した番組を楽しみにして見てみたら内容があまりにひどいのでおどろいた。

テーマであるはずの竜王戦とはまるで関係のない話が唐突に入ってくる。たとえば、将棋好きのテレビタレントが子どもに将棋を教えているところ。竜王戦となんの関係もない。もっとひどいのは某有名野球監督へのインタビュー。長嶋茂雄さんなら将棋好き、羽生さん好きで知られているが、その監督が将棋に興味があるとはあまり聞いたことがないし、インタビューの内容を聞いても将棋のことに詳しいとは思えなかった。なぜこの番組でそういうひとへのインタビューを放送しなければならんのか。わけがわからない。

渡辺竜王や羽生名人に対するインタビューは、さらにひどかった。今回の竜王戦では渡辺竜王が当初 3 連敗したのだが、渡辺竜王はふがいない自分によほど腹が立ったのか、3 連敗目を喫した後、対局場に泊まらずに最終の新幹線で東京に帰ったらしい。びっくりしたのは、用意されていた宿に泊まらず敗戦のくやしさをかみしめて自宅に帰ろうとしてホームに立つ竜王に取材者が能天気な質問をして返答を求めたことだ。また対局の進行中に両対局者にインタビューをするという信じられない行為もあった。そして、番組の最後に、竜王戦終了 3 日後に敗者の羽生さんを呼び出して「どうして負けたと思いますか」「渡辺さんはどうして勝ったと思いますか」という、非常に失礼な質問をしていた。

番組制作者が将棋や将棋指しに対して興味も敬意ももっていないということはよくわかった。そういえば、むかし、ゴルフの石川遼さんの試合中に、ヘリコプタを飛ばしたり、別の選手に録音装置を持たせて試合中の音声を録ろうとしたりしたのも TBS 系列のニュースだったか。

ときどき見るフィギュアスケートの試合の中継でも、肝心の競技を見せずに、素人のタレントや有名人にコメントさせたり有名選手の日常生活を紹介したりする。いったい、あんなふうな構成をだれが喜ぶと思っているのだろう。そういったことを想い出した。競技の内容やその価値を理解できず扇情的で短絡的なことしか考えられないというところが今回と似ている。

スポーツはその内容にこそ価値があるのだから、そのまま放送してくれればよい。そうしてくれないということは、番組制作者自体がスポーツのコンテンツとしての価値を信用していないということだろう。

今回の番組も、「将棋なんてもの、そのままのすがたを見せてもだれも興味をもってくれないよなあ。有名な野球監督やタレントでも出そうか。対局者にはちょっと煽るような過激な質問をしてみよう。なに、どうせ、たかが将棋じゃないか」と思って制作されたのではないかと思う。

文化を伝える仕事をするはずのひとが、文化というものをいちばん理解できていないようだ。


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