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NHK の科学番組「サイエンスZERO」の「シリーズ ヒトの謎に迫る(5)-言葉はどう生まれたか」を見た。

この番組の「ヒトの謎に迫る」シリーズはとんでもなくおもしろい。前回のロボット工学から見た「ロボットと人間が向かいあうとき」では人間が人間であるというのは「人間に見えるかどうか」ということだったのかと気付かされたし、さらにその前の回の社会心理学から見た「実験で解き明かす!心に潜む仕組み」では道徳の起源について考えさせられた。それらを見たときも感想をこのブログに書きたいと思ったが考えがまとまらなくて書けなかった。いつか書くかもしれない。

今回は言語研究から見た「人間とは何か」ということで、人間の言葉はどのようにして生まれたかについての話だった。番組に登場した学者は主にジュウシマツを研究しているひとで、求愛の歌から文法が生まれてそこから単語ができたという説を主張する先生だった。言葉の起源にはもう1つの有力な説があって、それは身振りから単語ができてそれから文法ができたというものらしい。

言葉ができる前の古代人が鳥のように歌っていたというイメージはなかった。でも、鳴き声で連絡し合う動物は多いわけだから、たしかにそうであってもおかしくはないなあと思う。しかも、求愛の歌からというのがなんともロマンチックだ。まるで万葉集の「こもよみこもち」ではないか。

そういえば、言語学の鈴木孝夫さんが何かの本に鳥の鳴き声を研究した話を書いていたなあと想い出したが、どういう研究で、それが人間の言語とどういう関係があるという話だったか覚えていない。こんな調子だから本を読んでもいっこうに利口にならない。まあ、利口になるために読んでいるのではなくておもしろいから読んでいるわけだが。

それはともかく、「文法が先か単語が先か」というのは学者の間では熱いテーマらしいが、なんだか「卵が先かニワトリが先か」に似てるなあと思った。ミツバチのダンスなんかも単語に相当する要素と文法に相当する要素があったはずで、それらはどちらが先にできたわけではなく同時にできたのではないかという気がする。文法と単語は同時にできたという説はないのだろうか。というか、古代人が指さして「マンモス!」と叫ぶということを想像してみると、「指を指す」という行為と「マンモス!」という声を出すことの組み合わせが一種の文法を成立させているような気がする。文法と単語というのはそんなにくっきりと分けられるものなのだろうか。あるいは、分けることに意味があるのだろうか。うーん、言語学の素養がないのでなんともわからない。わからないからおもしろい。
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西原さんは、「恨みシュラン」や清水義範さんの本の挿絵で、過激だが意外に鋭い観察や指摘をするひとだなと思っていた。単行本の叙情的な漫画もいくつか読んでいる。で、この本を読んだ。

漁師町に生まれた西原さんが子どものころのお金は魚のにおいがしたというのは、とてもよく共感できる。わたしも漁師町の出身でしかも親が漁師だから、子どものころのほとんどすべての想い出には魚の匂いや汐の匂いがつきまとっている。そしてそれがなつかしく大切な想い出であるというのも西原さんと同じだ。そういう子どものころの想い出の中にあるカネと、いま自分が東京で稼いだり使ったりしているカネは、確かに何かが違うような気がする。

わたしがいたころの田舎の漁師町では、大人も子どもも「モノ」つまり魚やタコやカニやダイコンが本質というか世界を構成している本当の存在で、カネはモノを交換するために使う道具と見なしていたように感じる。田舎では魚やタコは海に行けばそこにいる。つまり、田舎では最初にモノがそこにあってそれがカネに変わる。わたしの祖母は魚を自転車に積んで行商にでていたし、子どもは自分でハマグリを捕って売ったりしていたわけだから、それは当然といえば当然の感覚だ。

一方、都会ではまずカネを稼いでそのカネをモノに替える。最初にモノがあるのではなくて最初にカネがあるような感じがする。つまり、カネがなければモノはまったくなくなる。わたしは情報をいじくることでお金をもらう仕事をしているからなおさらそう思うのかもしれない。しかし、それは都会にすむひとの典型的な仕事の形態だろう。モノの量には限度というものがあるけれど、モノと紐付けされていないカネはただの数字になって限度というものがなくなるから、いくらでも貯めたり使ったり賭けたりできるようになる。

西原さんも、幼いころに見た、漁師が無造作にポケットに突っ込んでいた「魚の匂いのするカネ」と、大人になって漫画を書いて稼いだりギャンブルや為替相場でやりとりしたりする「情報としてのカネ」の違いを実感したのだろう。

この本は題名だけ見ると「何よりもカネが大事」という価値観の本のようだが、そうでもない。西原さんは、カネはとても大事なものだけど、自分でからだを動かしていろいろな経験をし、労働の対価としてもらう「手でさわれるカネ」、「匂いのするカネ」の感覚を身につけることが大切だということをいちばんいいたいのだと思う。
「コンパ」とは、わたしが学生のころは、お酒を飲みながら親睦を図る懇親会のことだと認識されていたと思う。国語辞典でもそう説明されている。

コンパ
(コンパニーの略)学生などが、費用を出しあって催す懇親会。
(広辞苑)

コンパ[名]
学生などが、仲間で費用を出し合って飲食する親睦会。◇「コンパニー(company)」の略。
(明鏡国語辞典)

どちらの辞書も英語の company(いっしょにいること)を語源としているように見えるが、ネット上の語源由来辞典には ドイツ語の Kompanie も語源候補として紹介されていた。「コンパ」というローマ字的な読みかたからすると Kompanie というのも説得力がある。ドイツ語はいまは学生の間であまり人気のない外国語だと思うが(わたしの第二外国語ではあるが)、明治のころは「アルバイト」などのように学生の隠語としてドイツ語も多く使われていたのではないかという気がする。もっとも、そのころの書生英語では company を「コンパニ」と読んでいただろうという気もする。

また、辞書によればお酒は必須ではないようなので、茶話会とか昼食会のような形式の集まりも「コンパ」といってさしつかえないのかもしれない。新入生歓迎コンパなら多くの新入生は(法律上は)酒を飲めない年齢だろうし。いずれにせよ、わたしが学生だったころは、歓迎会や歓送会などちょっとしたイベントとしての集まりという意味だった。

ところが、大阪の法務系翻訳者、アールさんの最近のブログ記事を拝読して、どうやら最近では「コンパ」という語が男性コンパと女性コンパを合同で行う「合同コンパ(合コン」)」の意味で使われるのがふつうになってきているらしいことを知った。アールさんはおそらく 10 歳ぐらいはわたしよりも若い。その間に語の意味が変わったということのようだ。

「合コン」というのはドラマなどでたまに見ることがあるが、いってみれば集団見合いのようなものだろう。「婚活」という新しい語もあるように、そうでもしないと男女の自然な出会いや付き合いがむずかしい世の中にだんだんなっているのかもしれない。また、わたしの出身大学は全学生の 6 割が女性という学校で、とくにわたしの専攻した心理学なんていうのは 9 割ぐらいが女性だった。飲み会といえば男女混合が当たり前だったし、小倉千加子さんの本に出てくるような花嫁修業の一環として大学に来ている女子学生もいなかった。そういうことも影響しているのかもしれない。

「コンパ」はもちろん英語ではなくカタカナ語だが、大学のときにある米国人の先生があるとき「If you have a compa, ...」といったのがいまでも耳に残っている。まあ、それは日本の大学にいる教員だからだ。一般的には「コンパ」って英語で何というのかなと思って調べてみた。

konpa
コンパ
[<company] n. 《学生語》 a social; a (tea) party; a convivial meeting.
¶新入生の歓迎コンパをする give [throw] a party in honor of freshmen.
(研究社新和英大辞典)

なるほど。a social とか a party というのか。でも、「コンパ」といったときのイメージとずいぶん違う気がする。日本の大学での「コンパ」は、それこそ、compa と造語したほうがよいのではないかと思った。
かなづかい入門 歴史的仮名遣vs現代仮名遣」という本を読んだ。歴史的仮名遣というのは「かんがへる」とか「をしむ」「ゆゑ」のような今とは少し違う仮名の書き方で明治のころに学校で教えられることになっていた表記方法のこと、現代仮名遣というのは「かんがえる」とか「おしむ」「ゆえ」のような現在生きているひとの多くが使っている仮名の書き方で戦後に学校で教えられることになった表記方法のことだ。

歴史的仮名遣の元になっているのは江戸時代に契沖というお坊さんがまとめた契沖仮名遣というものらしい。契沖さんは、それまで信奉されていた藤原定家の「定家仮名遣」を修正して(文献から推定される)むかしのひとの発音に基づく仮名遣を研究したそうだ。契沖さんのころは(それより前の藤原定家さんのころでも)すでに万葉のころとは語の発音のしかたが変わっていて、たとえばなぜ同じ発音なのに「い」「ゐ」と書く場合があるのかわからなくなっていた。しかし、契沖さんは「いにしえびと(古人)」と真に交感するにはいにしえびとの仮名遣を知らなければならないということで仮名遣を研究した、とこの本では説明している。

この本の後半では、歴史的仮名遣が廃れて現代仮名遣が横行することで日本語の伝統が破壊されるとか仮名文字の情緒性が薄れたなどと主張する歴史的仮名遣愛好者を厳しく批判している。単なる啓蒙書に見えて、実はある一方の考えを強く主張しているけっこう過激な本のようだ。門外漢としては著者のいっていることはいちいち納得できる。だが、もう一方の側の主張も読んでみたくなった。

翻訳の仕事で文章を書くときは常用漢字を使うとか送り仮名は本則だとか現代仮名遣を使うとかいういるさい規則にしばられる。この本を読んでみたのは、それじゃあ現代仮名遣とはいったいなんだという知的好奇心と、仮名遣の歴史や概念を知ることが何か今の仕事の役に立つかもしれないというすけべえ根性からだった。読了して、仮名遣の歴史や概念はある程度理解できたと思うが、具体的に今の仕事に役に立つことは特になさそうだ。それでも、こういう知識が蓄えられていくといつかそういえば知らないうちに役に立っていたなと気付くというようなこともあるんじゃないかと思っている。
炎上とは、Wikipedia によれば、「ブログやニュースサイトを主とするウェブ上のコメント欄に、ブログ主やニュース記事に対してコメントが殺到すること」だそうだ。最近では新聞記事でも見るようになったが、そんなふうにふつうの語として使われ出してからまだほんの数年しか経っていないと思う。

それ以前は、「荒らし」とか「フレーム」とかいう用語がよく使われていた。といっても、わたしの理解ではそれらの語も現在の「炎上」とは少し意味合いが違う。「荒らし」とは管理者が不適切と判断する特定の投稿またはそういう投稿を書き込むひとのこと、「フレーム」とはメーリンクリストや電子掲示板などで複数の人が感情的になって互いに挙げ足取りや中傷の投稿を始めること、とわたしは理解している。

この「フレーム」とは frame (枠)ではなく flame (炎、パッと燃え上がるの意)のことで、ニュースグループの英語でのコミュニティで使われるようになった語だと思う。つまり、もともと英語なのだ。ロングマン英英辞典の flame の項の最後のほうに次のように書かれている。

to send someone an angry or rude message in an email or on a BULLETIN BOARD

BULLETIN BOARD が大文字なのは物理的な掲示板ではなくて電子掲示板だということなのだろう。この辞書が定義のために使用している単語の一覧にない語彙ということのようだ。

その後、パソコン通信の時代に、この英語の flame が「フレーム」というカタカナ語になってそのまま使われていたのはよく覚えている。現在使われている「炎上」という語はこの「フレーム」から作られたのだろうと思っていたが確証はない。Wikipedia もわたしの推測と同じ説明をしているのだが、この記事を書いた人にどの程度の根拠があったのかわからない。

「フレーム」のもともとの意味は投稿者同士の中傷合戦だと思うが、現在の「炎上」という語はブログの記事にともかく大量のコメントが付くことというような意味で使われている気がする。当然ながら記事に批判的なコメントやおもしろ半分のコメント、悪意のあるコメント(荒らし)である場合が多いだろうが、好意的なコメントであっても大量に付けば迷惑だからそれも「炎上」だろう。まあ、「フレーム」はメーリングリストや電子掲示板での諍いに対して使われていたのに対して、「炎上」はほとんどの場合ブログのコメント欄に対して使われるからということだろうが。

仮に「炎上」の語源がフレーム(flame)だとすれば、いったんはカタカナ語で使われてから漢語になって定着したといえる。そういう語は珍しいのではないか。ふつうの外来語は写真機がカメラ、電子計算機がコンピュータになるように漢語の後でカタカナ語が定着することが多いように思う。まあ、それだけ、この「炎上」という語は自然にイメージが沸きやすいよくできた訳語なのだろう。
中川財務相が記者会見でろれつが回らなかったという件で、国会で追及された中川さんが「昼食に乾杯したが、たしなむ程度にしか飲んでいない」と答えていた。その真偽は別にして、中川さんとしては「(酒は)ほんの少しだけしか飲んでいない」、つまり、「なめる程度に飲んだ」とか「申しわけ程度に飲んだ」とかいう意味でいったのだろう。しかし、「たしなむ」ってこういうふうに使うかなと思った。

「酒をたしなむ」というのは、ふつう、「下戸ではない」「お酒は好きなほうだ」というような習慣や嗜好を説明する意味だろう。特定の場面で具体的な酒を飲むことを「酒をたしなむ」とはいわないのではないか。そう思って広辞苑第六版を見てみた。

たしな・む【嗜む】
〔他五〕
(1)好んである事に心をうちこむ。精出して行う。毎月抄「この道を―・む人は」。平家物語(12)「武芸の道を打ち捨てて、文筆をのみ―・んで」
(2)好んで親しむ。「酒は―・む程度」
(3)常に心がける。常に用意する。狂言、六人僧「自然鬚を剃らうと思うて某は剃刀を―・うだ」。浄瑠璃、仮名手本忠臣蔵「例の―・む継梯子、高塀に打ちかけ」
(4)心をつけて見苦しくないようにする。とり乱さない。幸若舞曲、切兼曾我「露の命を惜しまずして、最後を清く―・み候へ」。日葡辞書「ミヲタシナム」「タシナウダヒト」
(5)つつしむ。遠慮する。我慢する。浄瑠璃、鑓の権三重帷子「涙―・む顔付は泣き叫ぶよりあはれにて」


やはり、「(酒を)少し飲む」という意味になる語義は載っていないようだ。皮肉なことに、「心をつけて見苦しくないようにする」「つつしむ。遠慮する。我慢する」なんて意味もある。

それにしても、あの記者会見のようすにはびっくりした。わたしと妻は脳卒中の前触れ症状ではないかと心配したほどだ。わたしも酒は好きだが、食事のときにワインを飲むぐらいではあそこまで酔わない。あの記者会見のような状態になるには、強い蒸留酒をぐいぐいと飲むか醸造酒なら何時間もかけて相当な量を飲まないといけない。中川さんも酒は好きだそうだからそれは同じだろう。まさか、G7 後の記者会見の前にそこまで大量に飲む機会もないだろうから、本人のいうとおり、風邪薬との飲み合わせでああなってしまったのだろう。でも、有事のときに総理大臣や防衛大臣がああいう状態だったらと思うとぞっとする。

風邪薬と酒をいっしょに飲む、しかも処方された量の倍も飲むなんて自殺行為といわれてもしかたがない。お父さんの中川一郎さんも見かけによらず気の弱いひとで睡眠薬を常用していたというが、十分に気をつけていただきたい。
土曜日の夜に放送していた NHK の特集ドラマ「お買い物」を見た。ストーリーを上手に説明する自信がないので、公式サイトから引用させていただく。

【ストーリー】
 福島で暮らすおじいさん(久米明)と、おばあさん(渡辺美佐子)の元に1通のダイレクトメールが届く。東京で開かれる高級スチールカメラの見本市を知らせるものだ。カメラが趣味だった若かりし頃を思い出したおじいさんは、一念発起して、20年ぶりに東京へ行こうと言い始める。猛反対だったおばあさんも、おじいさんの強引さに負けて、一緒に上京することに。孫(市川実日子)をも巻き込んだ珍道中で、2人のこれまでの人生が、浮き彫りになっていく。そして、老夫婦は20年前の東京のある光景を思い出す。

「特集ドラマ「お買い物」|NHKドラマ」より


何ということもない坦々とした話だが、見ているうちになぜだか涙がぼろぼろ出てきた。どうもわたしは田舎の年寄りが都会に出かけて行く話に琴線をくすぐられるらしい。自分が田舎から東京に出てきたときの心細さや田舎に流れるゆったりした時間と都会に流れる慌ただしい時間の違いに対するとまどいなどを追体験するのだろうか。小津安二郎監督の「東京物語」を見たときも自然に涙が出てきた。とはいえ「東京物語」はさすがに古い映画なので、あの原節子さんが演じた女性のようなひとが今の時代にいるものかと思ったものだが、このドラマに出てくるひとたちは実際にいそうなひとたちばかりだ。

老夫婦役の久米さんと渡辺さんがうまい。脚本や演出もよいのだと思う。老夫婦が精神的に寄りかかり合って生きているようすがよく出ている。具体的には、同じことでも場面によって覚えていたりいなかったりして傍からみるとどこまでわかっているのかよくわからないところ、お互いに的の外れたことを言いながらなぜか会話が成立していて本人たちもそれを自覚して完全な意思疎通をあきらめていながらもそういう連れ合いがいることに安心してとりあえず満足しているところなどだ。両親がこのご夫婦と同じぐらいの年格好でもあるし、自分たち夫婦もだんだんこの域の老人力を獲得しつつあるので本当によくわかる。きっと、この脚本家には身内にそういう年齢のひとがいて、そのようすをよく観察していらっしゃるにちがいない。また、ドラマではほんのちょっとした手がかりしか見せていないのに、孫娘も東京での生活のようすもとてもよく想像できる。それがまた、人間くさく、床しい。

ただ、このドラマも二十代のころに見ていたらそんなには感動しなかったかもしれない。祖父や祖母がみな死に、親も高齢者になり、自分も急激に老人力を備えつつある年代だからこそ、いろいろな感慨を抱いたのだろう。中高年のかたには、再放送があればぜひご覧になることをおすすめする。
先日、英語にたいへん造詣の深い子守男さんが、「good question は『いい質問』ではない」というおもしろい記事を書いていらっしゃった。

子守男さんは、インタビュー記事などの「That's a good question.」という英語は文字どおりの意味ではない場合があるから、たとえば「いいところを突いてきましたね」などとするとよいのではないかとおっしゃっている。

「That's a good question.」というのは、会社員だったときに会議か何かでだれかにいわれたこともあるし、自分でいったこともあると思う。また、日本語で「いい質問だね」などといったこともあったと思う。そういうときの自分の気持ちを内省してみると、たしかに文字どおりの意味でそういったわけではない。子守男さんの引用なさっている辞書にあるように、適当に場をつないで時間をかせぐためにとりあえず口に出した、あるいは「困ったことを聞くね」というような含意で、しかもその意図を相手も理解してくれるだろうと思って発言したこともあるような気がする。

それでも、やはり、「That's a good question.」を「それはいい質問ですね」と訳すべきなのではないかと当初わたしは思ってそのようにコメントした。なぜなら、そのとき、これは先ほど書いたような場つなぎなり皮肉なりの意図で使われる表現なのだろうとわたしは思っていたからだ。場つなぎや皮肉であれば、文字どおりのことを意味していないことはよくある。たとえば、ふつうは感謝の表現である「It's kind of you.」が状況によっては「大きなお世話だ」という意味で使われることもあるだろうし、「いいお天気ですね」などといっていても本心では天気のことなんかまったく気にしていない場合も多い。

そういう場合、発言者の真意は日本語でそのとおりに書いても伝わるだろうし、伝わらなければそれはそれでしょうがない。たとえば発言の意図が皮肉だとしたら、もともと皮肉というのは真意が伝わるかどうかを最終的な聞き手なり読み手に任せている表現であって、「いや、皮肉に聞こえるかもしれないけど本当にそういう意味でいったんだよ」と言いわけできる余地を少なくとも形式的には残しているわけだ。翻訳者が皮肉だと理解したとしてもそれは翻訳者の解釈になる。また、皮肉であることが明らかだとしても発言者は直接的な表現を使わずに皮肉で表現したという事実を残すことには意義があるだろう、と思った。

しかし、わたしのコメントに対して子守男さんが丁寧に説明してくださって、これは単に個人が皮肉として使うような表現ではなくて、すでに多くのひとがそのようにしか理解しないであろう表現になっているということかと理解できた。つまり、日本語でいえば「ご大層なことで」のようなものだ。これはほとんどの場合は「きみ、それはちょっとおおげさすぎるよ」というような意味だ。明鏡国語辞典でも次のようになっている。

ご‐たいそう【御大層】[形動]
他人の言動を大げさだとからかい、または皮肉っていう語。「─に理屈をこねるじゃないか」

このくらいはっきりと意味がきまってしまう言いかたなら、表面的な表現が示す意味ではない意味で訳すしかない。そういえば、英語にも big deal なんていうこれに似た表現があった。

わたしの認識が足らず、翻訳者の端くれとしてなんとも不甲斐ないことだった。これから精進していきたい。
訓読みのはなし」という本を読んで、音読みと訓読み、漢語とやまとことばのことをしばらく考えていたら、翻訳をするときは名詞を名詞節にすると自然な日本語になる、という翻訳技法のことが想い出された。それはいろいろな本に書いてあることだが、とりあえず覚えているのは、安西徹雄さんの「英文翻訳術」だったか、「英文読解術」だったかという本である。その本の内容を確認しようと思って探してみたがすぐに見つからなかった。そこで、たまたま本棚にあった別宮貞徳さんの「翻訳読本」を見てみると、やはりそういう内容のことが書かれていた。要約して引用すると次のようなことだ。

They would be reminded of his past love of them.
× かれらは、自分たちへのかれの過去の愛を想い出すであろう。
○ かれらは、むかしかれが愛してくれたことを想い出すであろう。

これはつまり、「his past love of them」という名詞句をそのまま「自分たちへのかれの過去の愛」という名詞句で訳すのではなく、「むかしかれが愛してくれたこと」という名詞節(動詞的構造)にしたほうがわかりやすいという翻訳技法である。これはわたしがいま考えた例だが、「Too much smoking is harmful to your health.」という文は、「過度の喫煙は健康に有害である」と名詞中心に訳すよりも「タバコを吸いすぎるとからだを壊す」と動詞中心の構文にしたほうがわかりやすいだろうということだ。

音読みと訓読み、漢語とやまとことばのことからなんでこんなことを連想したかというと、おおむかし、日本に漢字が入ってきてやまとことばに当てはめたころには、「観梅」を「うめをみること」、「登山」を「やまにのぼること」と理解し、また、実際にそのように読んだりしたことがあるのかもしれない、そうだとしたらそれは別宮さんたちのいう現在の翻訳技法と同じだなと思ったからだ。

日本人が「彼は料理がうまい」と表現するところを英語は「He is a good cook.」と表現したがるといわれるように日本人は英語のような名詞的構造ではなく動詞的構造でものごとを考えているからこのような技法が成り立つわけで、翻訳技法といっても単に構文上の問題ではなくて英語と日本語の考えかたを移植しているわけだ。

また、名詞は漢語に訳されることが多く、それを動詞にほどくとやまとことばを使うことが多い。もちろん「観梅する」とか「登山する」のような漢語の動詞もあってそれでも名詞中心で訳すよりもわかりやすくなるのだろうけれど、漢語よりもやまとことばのほうが自然に受けとめられるということが動詞を中心にするとわかりやすくなるもう 1 つの理由だと思う。

そういった例をほかに考えてみると、「城春草木深」を「しろはるにしてソウモクふかし」ではなく「城春にして草青みたり」とすれば、漢語ではなくやまとことばにしているので意味もわかりやすいし自然な日本語になる。また、Seeing is believing を「百聞は一見にしかず」ではなく「見ることは信じること」と訳せば子どもにも意味のわかる表現になる。

ただ、技術翻訳ではこれと逆のことが要求される。look for は「探す」ではなく「検索する」、close は「閉じる」ではなく「終了する」、must は「ねばならない」ではなく「する必要がある」と訳すことが多い。つまり、やまとことばや動詞中心の構文ではなく、名詞中心で訳すということだ。けっきょく、当たり前すぎるはなしだが、どういう訳文が期待されているかによって訳しかたを変える必要があるということだろう。
わたしの郷里は京都府に属する。「ものもらい」のことを「めばちこ」ではなく「めぼ(めいぼ)」というなど大阪や神戸の影響よりは京の都の影響がやや強いのかなと思うところがないでもないが、多くのひとが京都と聞いて想像する地域とは大きく異なる、日本海に面する漁師町だ。ちなみに、どうでもよいことではあるが、わたしのハンドル「たんご屋」の「たんご」はこの京都府北部の旧国名「丹後(タンゴ)」からとったものだ。

そんなわたしの郷里に「たんのする」という方言がある。意味は「あきるほど満足する」「満足して飽きる」というような意味だ。英語でいえば tired of という感じだろうか。「たんの食べる」というふうに副詞風にも使う。「堪能する」のことなんだろうな、しかし、田舎の方言にしてはむずかしい漢語を元にした方言があるものだな、と思っていた。

このことばに本などで出くわしたこともないし、いわゆる関西、京阪神のひとがこのことばを使っているのを聞いたこともなかったので、うちの地域だけで使われているのだろうと思っていたが、この記事を書くために Google で調べてみたら、なんと、播磨、伊勢、信濃と思われるサイトでこの語を方言として言及していた。それぞれ、京の都からの距離というか行きやすさがわたしの郷里と同じくらいといえるかもしれない。いや、それはちょっと無理があるか。いずれにせよ、こんなことはインターネットがなければ一生わからなかった。インターネットはやはりすごい道具だ。

この語は実は方言ではないのかもしれない。広辞苑第六版に「たんの」という見出しがある。

たんの【堪能】
⇒たんのう。日本永代蔵(4)「乞食の―する程銭取らせし人なかりき」

広辞苑に堂々と載っていて方言とも書かれていないということは共通語と考えていいのだろうか。日本永代蔵にあるというのだから、少なくともむかしは上方でふつうに使われていた語のようだ。

ほかにも発見がある。「堪能する」を「漢語」だと思っていたことをさきほど書いたが、どうも漢語ではないらしい。同じ広辞苑に次のように書いてある。

たんのう【堪能】
(足リヌの音便足ンヌの転訛。「堪能」は当て字。「堪納(タンナフ)」とも当てた)

つまり、「たんのう」は実はやまとことばであり、「堪能」と書くのは漢字を当てただけだったのだ。びっくり。

なお、「スペイン語が堪能である」というときの「堪能」のほうはれっきとした漢語のようで、「カンノウ」と読む。



最近読んだ本。訓読みの歴史、めずらしい訓読みの紹介、一字多訓の話、振り仮名のこと、中国・台湾・朝鮮・ベトナムの訓読み事情など、訓読みにまつわるいろいろな話が書かれている。以前読んだ高島俊男さんの「漢字と日本人」のようにまとまった主題に沿って書かれているわけではなくいろいろな情報を雑多にあつめたという感じの本だが、個々の情報は知らない内容が多い。まあ、おもしろかった。

わたしは、「訓読み」というのは基本的にやまとことば(和語)に漢字を当てたものだと漠然と認識していた。たとえば、むかしの日本には mountain という意味のやまとことばである「やま」という語があったが、日本には文字がなかったので同じ意味の中国文字(漢字)である「山」と表記して「やま」と読むことにした、ということだ。それは、大筋で間違いではないが、この本を読んで、そういう経緯以外の流れでできた「訓読み」も相当数あるというふうに認識を新たにした。そういった単純なやまとことばではない「訓読み」は、やまとことばと漢字との綱引きというか、相互に影響し合うかたちで変化してきたということのようである。たとえば、訓読みは漢字の影響を受けて変化し、漢字は訓読みの影響を受けて本来の意味やかたちから変わっていくというように。

現代の日本で多く使われているカタカナ語や外来語でも同じような相互作用が起きているなあと思う。たとえば、英語の diet は基本的に「食餌療法」というような意味だが、カタカナ語の「ダイエット」となるとほとんど「痩身術」と同じ意味に変化している。もちろん読みかたも英語の発音とは違う。これは漢字でいえば「訓読み」ではなく「音読み」に対応することになるが、発音も日本人が発音しやすいように daietto と変えられているところは漢字の中国語発音が日本独自の「音読み」になったのと相似している。

もう少し漢字の「訓読み」に似ていることをいえば、「アジる」とか「サボる」というような語がそうだろうか。元の語はそれぞれ agitation と sabotage だが、どちらも活用する動詞で、ほとんどやまとことばのようになっている。また、特に sabotage のほうは意味が大きく変わってしまっているところも日本で漢字の意味が変わったことと似ている。最近は、「ゲット(get)する」とか「チェキ(check it)」なんていう英語由来の日本語もある。こういうのは正しい英語を学習するときの邪魔になるという意見をよく聞くが、それをいうなら「手紙」を「てがみ」、「走る」を「はしる」と読むのも中国語学習に悪影響があることだろう。
一昨日、「クローズアップ現代」の「介護つき住宅の落とし穴」という放送を見て、久しぶりに震えるほど腹が立った。また、世間知らずのわたしにはよくわからないこともたくさんあった。

東京都区部に住む高齢者で生活保護を受けている人が介護が必要な状態になった場合に、区役所に紹介されて千葉や埼玉、遠くは茨城や静岡などの他県にある介護つき老人ホームに入る事例が多くなっているという。それらの施設は生活保護と介護保険で住居と介護を提供すると謳っている。しかし、それらの施設は実は無届けの老人ホームで、送り込まれた老人は、狭い部屋に何人も押し込まれる、外出が制限される、本来受けられるはずの介護サービスを受けられない、などの悲惨な目に遭う例が少なくなく、問題になっているとのことだ。

「区役所に紹介されて他県にある介護つき老人ホームに入る」と常識的な表現で書いてみたものの、番組を見るかぎり、本人の意思で当該施設と契約して入居したというよりも「区役所に見限られて他県の無届け老人ホームに捨てられた」というのが実態のようだった。ナイーブすぎるかもしれないが、役所の手続きとしてそんなことが可能なのだろうかといまでもふしぎに思う。

料金を払っているのに契約したとおりのサービスを受けられないというのは詐欺みたいなものだ。少なくとも債務不履行だろう。わたしなら、その施設を民事訴訟で訴える。しかし、契約の当事者はだれなのか、番組ではよくわからなかった。どうも、本人と施設ではなく区と施設が契約しているようにも思える。そうだとしても、介護保険の給付金を受給者の介護サービス以外の目的に使われたのだから、区が施設を訴えることはできないのだろうか。短い番組だからしかたないが、そういう観点での話はまったくなかった。

それらの老人の住民票は東京に残したままになっているそうだ。そのため、本来施設の実体を把握して監視する義務があるはずの行政は、遠距離だったからその義務を果たせなかったと言っている。施設側にとっては行政の目の届かないところで自由気ままに運営できる、区役所にとっては監督義務を果す必要がなく施設や介護だけを他の自治体にある施設に負担してもらえる。施設と役場の両方にとって好都合なしくみになっているのはただの偶然なのか。

老人の住民票を本当の居住地に移せば居住地の自治体が施設を監督できることになるわけだが、そうなると施設のある自治体が介護保険を給付しなければならないのでその自治体の財政が圧迫されて困る。ということで、受け入れ側の自治体の担当者が「住民票を移すというなら老人たちを送り返す」という主旨のことを言っているところが放送されていた。

このあたりもよくわからないことが多い。まず、住民票の移動についてだが、転居したら転居届を出すのは法律で定められた国民の義務ではないのか。それを怠ると過料を取られるはずだ。送った側の自治体も受け入れた側の自治体も老人たちが住民票を移動していないことを知っているようだったのに、なぜそれを黙認できていたのか。公務員には不法行為の告発義務があったんじゃなかったっけ。

また、老人を送り返すと言っている側の主張もわからない。居住移転の自由は憲法で守られている基本的人権の 1 つではなかったか。あんたに来てもらったら困るから帰ってもらうよ、と強制する権利が役場にあるのだろうか。高額納税者にはどうぞきてください、財政に負担ばかりかけるひとはどうかどこかにいなくなってください、というのが役人の本音かもしれないが、そうだとしてもそれは役人としては結果としてそうなったらうれしいと思うことができるだけであって、犯罪者でもない一般人の転入や転出を行政の権限で制限することはできないはずと思うのだけれど。司会者や解説の大学教授にそのことをふしぎに思っているようすがまったくなかったのもよくわからない。

ともかく、番組全体を通して、施設に送られた老人たちが人格のある一個の人間として扱われていないように感じられた。本物の姥捨山でさえ人間を捨てているという意識はあったのだろうと思うが、施設も区役所も受け入れ先自治体も、まるでゴミの処分方法について論じているかのように感じられた。財政、財政というが、社会の最弱者を守らなくて何のための財政か。自治体も財政も住民のためにあるのであって、住民が財政の犠牲になるのは本末転倒だ。生きている人間をお金がいくらかかるかというふうにしか見ないであっちにやったりこっちにやったりしようとするのなら奴隷売買と同じではないか。
最近は、地球は寒冷化しているという研究結果があったり、いやいや南極大陸はこの50年間温暖化し続けているとかいう研究結果があったりで、素人には何が何だかわからない。気象なんていうのは複雑系の最たるものだろうから、地球全体で見て寒冷化しているのか温暖化しているのかということでさえ、測定場所や測定方法、対象期間などによって異なった結果が出るのだろう。何が本当なのかは当の専門家もわからないのかもしれない。

複雑系のシステムがどういう入力によってどう変化していくかなんていうのは人間には把握も予測もできないので、逆にあえて恣意的に解釈したり予測したりして便宜や損得のために利用していることが多いのではないか。

たとえば麻雀。麻雀を何荘かやっていると「流れ」とか「ツキ」というようなものがあるような気がしてくる。やっている本人としては本当にあるとしか思えないほど強い現実感を覚えるのだが、実際には、ランダムに出てくる結果を人間側が勝手に都合よく解釈しているだけだ。無秩序なできごとを人間心理のくせに従って解釈しているわけで、こういうのは「ギャンブラーの錯誤」といわれる。「ギャンブラーの錯誤」というのは、たとえばコインを続けて3回投げてすべて表が出たときに、その次は裏が出る確率が高いと考えたがる心理のことだ。

それから、心霊写真のたぐい。樹木の葉が日に照らされたときにできる模様にヒトの顔を見る。あるいは、火星の山とそこにできた影をヒトの顔のかたちに認識する。これらも、ランダムなものの中に意味を読み取ろうとするという意味で同じような現象だ。もっとも、これらは、もののかたちを人間の顔と認識しようとする脳の性質が大きな原因になっていると思うが。

あるいは、占いや心理テスト。人間の性格や運命といった複雑系システムをわかりやすく解釈してみせることで商売をするひともいる。ここでいう心理テストは雑誌などに出てくるお遊びのテストのことだが、わたしは大学で心理学を専攻したので学問で使われる心理テストもある程度は知っている。たとえば、ロールシャッハテストを自分で受けて自分で解釈したこともあるし、ある学生の一連の夢を精神分析的に解釈したこともある。しかし、それらも無限に可能な解釈のうちの 1 つにすぎないとわたしは思っている。夢の解釈なんて、ある理論に基づいて解釈すると実にうまく解釈できるし、これ以外の解釈なんてありうるのかとまで感じる。それは、麻雀の「ツキ」や「流れ」に対して感じる強烈な現実感に似ている。しかし、実は別の理論を使ってもうまく説明できる。夢の解釈に意味がないというわけではない。解釈の正しさと治療手段としての有効性は、また別の問題。だから、江原啓之さんのようなデタラメなやりかたも、カウンセリングの一技法と考えれば効果がないわけでもないと思う。そういった技術を単なる金儲けの手段にしてしまうとしたらそれは問題だが。

人間の身体もいちばん身近な自然であり複雑系だ。タバコを吸ったら病気になるとか毎日走れば健康になるとは簡単にはいえない。それなのに、まるでスイッチを押せば電源の入るたぐいの単純な機械であるかのように、多くの健康法や健康食品が出回っている。そのようにして、複雑系は商売に利用される。経済システムもまた複雑系だから、個人の損得のために恣意的に解釈したり予想したりしているひとがいるのだろう。変に扇動されたり利用されたりしないように気をつけたいものだ。

世界には、なぐればへこむ、水を足せば濡れる、というような簡単な因果関係にはならないことのほうが実は多く、それらは本質的にわたしたち人間が解釈したり予想したりすることができないのだと思う。そして、そのことを知ることが大切なのだろう。
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