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ソメイヨシノ

東京でソメイヨシノの開花宣言があったのは 10 日ほど前だが、花冷えが続いていたので、わたしのよく行く公園でも未だに満開になっていない。それでも半分ぐらいは咲いているだろうか。
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主人公がアジアのキルギシアという国に行き、そのすばらしさにおどろいて母国の友だちに手紙で紹介するという筋書きで、イタリアでベストセラーになったという本。翻訳が上手なのかとても読みやすく、1 時間あれば読める。原題は「キルギシアからの手紙」というらしい。そのほうがよいと思うが、なぜかあやしげな題に変えられている。

ともかく、理想郷のようなある国のことを書いただけの本だ。その国については帯の文章に簡単な説明がある。

秘境のユートピア「キルギシア」では…1日に3時間以上働く人はいない。残りの時間は自分自身のために使う。政治家はボランティア。学校は「人生の谷」と呼ばれ、勉強がなく学びがある。18歳を迎えると1軒の家が贈られる。刑務所はなく、警察官もいない。武器の墓場がある。誰かと愛し合いたいと思ったら、みんなにそれがわかるように、胸に小さな青い花を飾る。各家庭に菜園があり、お年寄りが耕す。お年寄りは「人生のマエストロ」と呼ばれる…


カトリックの総本山があるイタリアのお話だからか、楽園といっても人間のことしか考えていないことがよくわかる。この国ではイヌやネコは、ブタやウシは、またハエやカやゴキブリはどのように生きているのか、まったく言及がない。

「1 日 3 時間以上働かない」ことを理想としているのは、労働を悪と考えているのだろう。本来、人間が動物として果物や貝などを採集したり獣や魚を獲ったりしているだけでも 1 日 3 時間以上は働かなければならないと思うのだが。キリスト教では人間を動物とは考えていないのだろうから、しかたないか。極力働かなくてもいい、犯罪はない、病気もほとんどない、食うに困らない、ひとびとが愛と善意に満ちあふれているという理想郷は、エデンの園の変形のようにも思われる。実篤の「新しき村」が農業を基本にした労働する理想郷なのと対照的ではないか。

なんにせよ、この国の生活は都会的だ。電気は存分に使うみたいだし、食べものも 1 日 1 度は無料で食べられる、つまり外食できることになっている。それだけのエネルギーや食料を調達するためには、相当多くの労働力や物資が国外から搾取されるのだろう。まあ、人間以外の生きもののことが意識の中にない、エネルギーや物資は他所から調達するものである、といえば、今の日本における東京や、世界における日本も同じことか。キルギシアは、現在の先進国の縮図なのかもしれない。

エネルギーや物資でも同じだろうけれど、心理的にも、どこかで秩序を高めようとすると、同時にそれと同じだけの無秩序がどこかに生成されることになると思う。ナチス下のドイツやソビエト連邦のように特定の考えで全国民を統制しようとすると、その考えからあぶれて反乱分子となる人が必ず出てくるものではないだろうか。個人の心理で、意識を強固に保とうとすればするほど「無意識」の中に不安や反発心などが溜まる、あるいは、ある生き方をすれば自分の生きてこなかった自分、すなわち「影」が必ずできるのと同じように。

そういったわけで、この本を読んでなんだか気持ち悪い感じがするのは、人間の生理に反しているからなのだろう。かといって、SF や ファンタジーだと考えても大しておもしろくはない。なにごとも起きないからだ。ただ、過労死しそうなほど働いているひとには癒しになるかもしれない。
ふきのとう

近所の畑の無人販売所にふきのとうがあった。あら春らしいわねえと思って、竹の筒に 100 円玉を入れて 1 袋もらってきた。でも、わたしは海の育ちなので、ふきのとうをどのようにして食べたらいいのか実はよくわからない。つまり、まあ衝動買いだったわけだ。

天ぷらしか思いつかず、けっきょく天ぷらにして食べることにした。揚げものや炒めものなど油を使う料理は苦手なので本当はやりたくなかったが、ほかの食べ方を知らないのだからしかたがない。ついでにイカ、ニンジン、シメジも揚げることにした。

ほろ苦くてとてもおいしかった。妻にも大好評だった。あとになってネットで検索してみると味噌汁にすることもできるらしい。それもうまそうだ。今度見つけたら味噌汁用に買ってみたい。
役場の国民健康保険担当者と電話で話をしていたら
週 30 時間以上のアルバイトをしていますか
と聞かれて一瞬ことばに詰まってしまった。アルバイトというなら、毎月数十万の給料と毎年数ヶ月分の賞与をもらって退社時には何百万も退職金をもらうような会社員からすれば、わたしの仕事などはアルバイトみたいなものである。
アルバイトとは……どういう意味ですか
と聞いてみたが
週 30 時間以上アルバイトや仕事をしていますと…
とこちらの質問を無視して話を続けてくる。役場のひとというのはよほど頭がよいのか、こういう素朴な質問にきちんと答えてくれたためしがない。
ちょっと待ってください。『アルバイト』というのは雇用契約という意味ですか
と聞くと、やっと「そうだ」と答えてくれた。それならそうと最初から言ってくれればいいのに。

「アルバイトや仕事を…」という言いかたをしたということは、このひとにとって「仕事」という語も雇用契約での仕事のことを指すのだろう。わたしの住む自治体には農家も小説家も漫画家もデザイナもおおぜいいるはずだが、なぜ、このひとは「仕事とは雇用されて働くこと」という前提で話すことができるのだろうとふしぎに思った。

アルバイトというのは、もとのドイツ語では「労働」のことだというのは措いておくとして、「副業」とか「小遣い稼ぎ」とかいうような意味ではなく、期間の定めのある契約に基づき雇用される従業員を指す俗称(Wikipedia)だそうである。つまり、紙風船を貼る「内職」は雇用契約ではなく請負契約だろうからアルバイトではない。わたしの仕事も、その意味では、「アルバイト」ではない。
テレビを見ていたら、あるタレントが髪を留める道具のことを「ピン(pin)留め」といったので、えっ、「びん(bin)留め」じゃないの、と思った。妻に聞いてみると、妻は子どものころからずっと「ピン留め」だと思っていたし、母親も周りも「ピン留め」と発音していたという。わたしは逆に子どものころから母親も周りも「びん留め」と発音していたので「びん留め」だとずっと思っていた。びん(鬢)を留めるから「びん留め」なんじゃないのか。

おそらく、もともとは「びん留め」なのだと思う。「びん(鬢)」というちょっと古くさい語を知らないひともいて「ヘアピン」の連想から「ピン留め」と呼ぶひとも出てきたということではなかろうか。なお、「びん(鬢)」とは頭の左右側面の髪のこと。「こびん」ともいう。将棋の世界では、王将や飛車などの斜め上のマスを今でも「こびん」と呼んでいる。

ところが、「ピン留め」をわたしの電子辞書で引いてみると、なんと、「180万語対訳大辞典」に載っていた。

ピン止め bobby pin [化学]
ピン止め pinning [その他]

後者の pinning というのは、髪を留める道具のことではなく、たとえば昆虫を台紙に「ピンで留める」というような意味だろう。前者の bobby pin というのはまさにここでいう「びん留め」のことだが、化学用語となっているのがどうにも解せない。

さらに「びん留め」を電子辞書で引くと、今度は「研究社新和英大辞典」にだけ載っていた。

bin-dome
びん-どめ 鬢留め
n. a sidelock fastener.

sidelock というのは鬢のことらしいが、この sidelock fastener という熟語を Google で検索してみてもいわゆる「びん留め」の意味で使っているサイトはまったくない。英語圏で使われることのない熟語と思われる。おそらく、編者は、しいて説明的に表現すればこんなふうにいうことができますよ、という意味でこの熟語を載せたのだろう。英語ネイティブに対して a sidelock fastener と言ったとしても何のことを言っているかは伝わりそうだが、「変ないいかたをするやつだな」と思われそうだ。日本語でいえば「横髪押さえ」というようなものか。

ふつうに使われる英語としては bobby pin、英国では (hair-)grip というようだ。bobby はおかっぱ頭のボブ(bob、bobbed hair)から来ているという。そして、その bobby pin あるいは hairgrip と、ヘアピン(hairpin)は同じではないらしい。freedictionary というサイトに詳しい説明がある。

hairpin - a double pronged pin used to hold women's hair in place
bobby pin, hairgrip, grip - a flat wire hairpin whose prongs press tightly together; used to hold bobbed hair in place; "in Britain they call a bobby pin a grip"

つまり、bobby pin(hairgrip)は hairpin の一種で、むかしからよく目にする、金属でできていて閉じた火箸のような形状のものをいうらしい。こんなことは理容業界では当たり前のことかもしれないが、わたしは知らなかった。
たまたま見たサイトに「面がゆい」という表現があった。知らない表現で、辞書にも載っていない。Google で検索してみると、「面がゆい」「おもがゆい」という表現は意外にもけっこう使われているようだ。「面映ゆい(おもはゆい)」と同じ意味で使われているものが多いような気がするが、そうとは思えないものもある。いくつか引用させていただく。なお、Google で検索すれば容易にたどれるはずなので出典 URL は省略する。太字はたんご屋。
  • 「現況のカード社会に逆向している面がゆさは多少ありますが何とかご理解下さること御願い致します。」
  • 「動くはずのものが動かないのは実に面がゆいものであります。 」
これらは、「歯がゆい」と同じような意味だろうか。
  • (花粉症に関して)「2、3日前から目が何となく「おもがゆい」ので今シーズンが始まったと思っています。」
  • 触れ合った皮膚がおもがゆい
これらは「むずがゆい」という意味のようだ。花粉症に悩むひとたちのあいだではよく使われている隠語なのかもしれない。
  • 「自分が作成したHPが消えたことになんとなくおもがゆい思いがする。」
  • 「ノスタルジーさをさらりとしたタッチでくすぐられたような、何とも面がゆい、いい読後感。」
これらの意味は、うーん、わたしにはよくわからない。

さらに検索してみると、文学作品でも使われているらしいことがわかった。どちらも戦前の作品。

 鷺太郎は、日中の強烈な色彩を、敬遠するという訳でもないが、でも、まだ水泳をゆるされていないので、あの裸体の国である日盛りの浜に、浴衣がけで出かけることが面繋(おもがゆ)くも感じられ、いつか夕暮の散歩の方を、好もしく思っていた。
「鱗粉」蘭郁二郎

それが今も扉を排して最初にその黒い骨組や、それを取巻く金属製の外科用器具類が眼に映じた瞬間、臆病な彼女は自身メスを突き刺さゝれるような不快な面痒(おもがゆ)さに心のすくむのを覚えたのであつた。
「三つの棺」山内 謙吾

前者の「面繋(おもがい)」とは「馬の頭から、くつわにかけて飾りとした組みひも(漢字源)」のことで、単なる当て字のようだ。「面映ゆい」の意味と思われる。後者は文字面からいうと「顔のむずがゆさ」という意味だろうか。

「おもがゆい」という語はこれまで見たことも聞いたこともなかったが、実はいろいろな意味でけっこう使われているらしい。そのうち辞書に載ることになるのだろうか。


清水義範さんが教育を論じた「行儀よくしろ。」という本を読んだ。教育論とはいっても、学校教育、教育産業、家庭でのしつけとかいった狭義の教育のことではなく、文化を次世代に伝えることこそが教育であり、おとなの責任だというような主旨で、文化論のような内容になっている。

戦後日本人はそれまでの文化を捨てて消費がすべての「欲望社会」を実現してしまった、欲望社会では人間は勝ち組と負け組に分けられ、勝ち組に回れない多くのおとなたちはギスギスして自己肯定ができないでいる、勝ち組に回る道が閉ざされている子どもたちはイライラしている、と清水さんはいう。

先日の記事でわたしは次のように書いた。

リベンジとか再チャレンジとかいう語は、なんだか、よい大学やよい会社に入ること、あるいはお金をたくさん稼ぐことが『勝ち』で、そうでない人生は『負け』という価値観に基づいているような気がする

これを清水さんの文脈でいうと、人生に「勝ち負け」があるという考えかたのひとが増えて社会でそのような言説を見聞きする機会が多くなると、社会全体の空気がそのようになり、とくに若いひとたちは「勝ち組」になることが人生の第一義だと考えるようになるだろうということだ。

文化を守った美しい生き方を日本人は取り戻すべき、というのがこの本での清水さんの主張である。守るべき文化として、生活習慣の美、美しい日本語、行儀、礼儀、我慢などが例に挙げられている。たしかに、小津さんの映画に出てくるような日本人の所作や言葉遣いは美しいとわたしも思う。

でも、むかしの日本人の所作や言葉遣いをわたしはなぜ美しく感じるのかと考えてみるとよくわからない。この本も美しいものは美しいのだという論理で進めていて、なぜ美しいのかについてはとくに論じられていない。古くからの伝統だから美しいというわけではない。奴隷制やカースト制といった伝統的に行われてきた制度はわたしは美しいと思えないし、明治になるまで日本で長く行われていた立ち小便の習慣も美しいとはいえないだろう。

けっきょく、いまもむかしも、あるいは洋の東西を問わず、率直であることや他人を思いやることを「美しい」と感じるのではないかという気がしてきた。清水さんの覚えているむかしの日本人は素朴なひとが多く、いまの人たちよりも率直さや他人を思いやるきもちがよく表れていたということではないだろうか。

教育されるのは若いひとだけではない。わたしは中年だが、自分の考えかたは実際のひと付き合いやら本やらブログやらから他人の考えの影響を受けてたえず変化している。それはいまでも自分が教育されつづけているということだ。同時に、自分がどのように考えてどのように生きるかは、よい影響か悪い影響かはわからないが、多少なりとも他人に影響を与えていると思われる。だから、たとえわたしのような子どものいない人間であっても教育に無縁なわけではない。妙な偏見や劣等感をもたず、思いやりをもって生きていくことが社会や若い世代に対する責任なのだろうと思う。
めずらしく電車に乗ったら、武蔵野大学の車内広告にだれか有名な先生の話として「リベンジできる社会へ」というようなことが書かれているのを目にした。どう書いてあったのか正確に知りたいと思って Google で検索してみたが、その武蔵野大学の広告に載せられていた文章そのものは見つからなかった。だが、「秋葉原事件のような焼糞型事件を防ぐためにはリベンジできる社会を」というようなことの書いてあるサイトはけっこうあった。

しかし、英語の revenge は「復讐(する)」とか「仕返し(する)」という意味だ。

revenge
1 復讐 (vengeance), 意趣返し, 返報, 報復, 仕返し, 雪辱, 腹いせ; 復讐心, 遺恨.
2 復讐の機会; 【スポ・トランプなど】 雪辱の機会.
(リーダーズ英和辞典)

だから、文字どおりの意味で「リベンジできる社会」というのは、むしろ秋葉原事件のようなことが推奨される社会ということになると思われる。まあ、それは単なる挙げ足取りで、この「リベンジ」は安倍元首相のいう「再チャレンジ」と似たような意味だ。Wikipedia によれば、「再チャレンジ」は、一度就職活動や大学入試などで失敗した人が、何度でも挑戦できること、また挑戦できる社会 という意味だそうだ。

しかし、こういうリベンジとか再チャレンジとかいう語は、なんだか、よい大学やよい会社に入ること、あるいはお金をたくさん稼ぐことが「勝ち」で、そうでない人生は「負け」という価値観に基づいているような気がするのは、ドロップアウトした人間のひがみだろうか。

もちろん、本当はこのように生きたいけれど現在の自分は不本意な生活をしていると思っている人が、自分の理想とする生活に何度でも挑戦できるのはよいことだ。ただ、その理想が、むかし軍国少年といわれた人たちがそうであったような、社会によって無意識に押しつけられた価値観で作られたものでなければよいが、と思う。
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