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日本語力と英語力

著者: 斎藤孝/斎藤兆史

斎藤兆史さんは「『英語が使える日本人』幻想から醒めよ」といい、齋藤孝さんは「英語力の基礎は日本語力」という。本当にそのとおりだと思う。

おふたりは、「英会話ごっこ」のような早期英語教育、「実践コミュニケーション」主義で文法軽視の英語教育に疑問を呈し、基礎からしっかり教える教育を推奨している。特に齋藤孝さんは、英語なり日本語なりを学習するために「型」が重要だと強調している。この「型」は文法のこととも受け取れるけれど、もう少し広い意味だろう。武道や茶道などでいう「型」だ。野球でいえば素振りとかキャッチボール、将棋でいえば手筋とか定跡。まずは、そういった基礎となることを手本に倣って練習する。上達するにつれてどうしても手本に倣えない部分が出てくればそれがそのひとの個性だ。最初から個性があるわけではない。それが「型より入りて型より出づる」ということだろう。

わたしは英語が好きで学校でも個人的にもそれなりに勉強したが、社会人になるまで海外に行ったことがなかった。会社員になって海外出張や海外駐在で英語を使って仕事をすることになった。英会話学校で習うような For here or to go? とか Here you are. とかいった決まり文句は、覚えればもちろん役に立つけれど、覚えてしまえばそれでおしまい。応用もへったくれもない。けっきょく、ファックスとかテレックス、レポートなどを英語で書けなければ仕事にならない(当時はまだなかったが、いまなら「電子メール」を英語で書けなければ仕事にならないだろう)。そういうときにやはり役に立ったのは学校で習った文法中心の英語だ。This is a pen. とか He gives me a book. のような一見実用的でない英文のほうが応用がきく。

英語学習で「コミュニケーション」というと会話力という印象が強いが、読み書きだってコミュニケーションだ。国民全体の英語力向上によって国際競争力を維持強化するのが国策だというなら、むしろ読み書きの力を重視したほうがよい。学問や商業の世界で本当に必要なのは英語で世間話ができる能力ではなく、読み書きの能力だと思う。そのためには、この本でおふたりが主張しておられるように、小学校ではお遊戯のような「英会話ごっこ」をするのではなくかけ算の九九や漢文の素読、古文の暗記に対応するような骨太の基礎学習が必要なのだろう。
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新緑

小学校の学校のテストのことなどもうほとんど覚えていないのだが、漢字の書き取りの「シンリョクが美しい」というような問題を「深緑」と書いてバツになったのだけはなぜか覚えている。その書き取りテストの中でその問題だけを間違えたから覚えているのかもしれない。あるいは、子ども心に「深緑」でもいいじゃないかと思ったからなのかもしれない。

いま、パソコンで「シンリョク」と打つと、なんと、ATOK の変換候補に「深緑」という語も出る。

しん‐りょく【深緑】〘名〙
茂った草木などの、濃い緑色。ふかみどり。
(明鏡国語辞典)

そうか、やはり「深緑」でも間違いではなかったのか。
社会人には、そのひと本来の性格とは別に、自分の地位に期待されている役割を果すための性格、いわば「顔」があると思う。会社員であればたとえば上司としての顔、家庭では親としての顔など、だれでも時と場合によって自然に使い分けている。プロレスラーやテレビタレントなどはもっと意図的に(芝居の中だけではなくて日常生活においても)善人のようにふるまったり強面のようにふるまったりして自分に期待されている役割を演じていると思われる。

そういう役割性格のことを心理学で「ペルソナ(仮面)」という。仮面というのは一種の比喩だけれども、ただの比喩というだけではなくて、プロレスラーなら本当にマスクをつけて悪役を演じることもあるし、ふつうのひとでもサングラスをかけたり髭を生やしたりすることで「素顔の自分」とは違う役割、性格を演じやすくなる。着衣もまた同様で、会社員がスーツを着てネクタイをするのも、店員さんが店員さんらしい服装をするのも、自分と周囲に対して役割を明示することで社会的な役割性格を演じやすくする効果があるのだろう。

スタンフォード大学の有名な監獄実験では、囚人役を演じる被験者に囚人服のような粗末な服を着せている。この実験は、単なる心理学の実験であるにもかかわらず、囚人役の学生たちは卑屈、隷属的になっていき、看守役の学生たちは高圧的、残虐になっていった。人間にとって、与えられた役割はかくも強力な無言の強制力を発揮するもので、着衣は各自の役割を視覚的に表象するものに違いない。

サングラスを外す、髭を剃る、着衣を脱ぐなどの行為は、仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨てる、つまり自らの役割性格を放棄することの象徴だと思う。たとえば、自己啓発セミナーでは受講者を全裸にさせて自己紹介させるというようなセッションがあるという。全裸にすることで会社の社長だとか代議士だとかいうペルソナを文字どおり「脱ぎ捨て」させる効果があるのだろう。

押しつぶされそうな重い責任にストレスを感じていれば、期待されている役割から離れて本来の自分、素顔の自分に戻りたいと思うのは自然だ。日本語には、裸になって出直す、胸襟を開くなどという象徴的な慣用句もある。とくに意識レベルが下がっていると、簡単に脱ぎ捨てられないつらい現実の役割の代わりに着衣を脱ぐことを代償行為にしてストレスを発散するというようなこともありうるだろうなと思う。最近あったタレント全裸事件からそんなことを考えた。
公園に植えられている植物の地図を見ていて、「諸葛菜」という名前の植物が植わっている場所を見つけた。「諸葛菜」という植物は知らない。まず思ったのは、諸葛孔明と関係があるのかなということ。もう 1 つは、「葛」という字から「カズラ」とか「クズ」と何か関係あるのかなということだった。

調べてみると、諸葛菜というのはハナダイコンのことだとわかった。確かに、その公園にはところどころにハナダイコンが群生している。

しょかつさい【諸葛菜】
アブラナ科の一年草。中国原産。高さ 30~60cm。春,紫色の花をつける。紫金草(しきんそう)。ハナダイコン。オオアラセイトウ。ムラサキハナナ。
(新辞林より)


さらに、ネットで見つけた複数のサイトによれば、やはり、諸葛孔明が食糧として栽培を奨励したことから付いた名前だという。「カズラ」や「クズ」とは関係がないようだ。

また、ハナダイコンは「平和の花」であるとの情報も見つけた。日中戦争のときに日本兵が中国から種を持ち帰り平和を祈念して植えられてきたという。「紫金草」という別名はそれにちなんだ名前らしい。

軍師孔明が推奨したといわれる花であり、かつ平和の花でもあるというのは皮肉だが、この植物の英語名を知ってなおさら複雑な気持ちがした。先日北朝鮮が打ち上げたあの rocket とは語源が違うようだが、英語では rocket というらしいのだ。研究社リーダーズ+プラスV2によれば、rocket、dame's violet [rocket]、night rocket、nightstock、summer lilac、sweet rocket などのいいかたがあるようだ。
ツツジ

ツツジが咲くのは、もう少し後、大型連休のころだったような気がするが、今年はすでに咲いている。写真に撮っているのは、キリシマツツジとオオムラサキという品種と思われる。この公園には、ほかにシロリュウキュウなどの品種もある。

英語では azalea(アゼイリア、アザレア)というらしい。ただ、この語は、特にセウヨウツツジ、オランダツツジといわれる特定の品種を指すこともあるようだ。
フィギュアスケートを見ていたら、この運営と放送に「自然エネルギー」を使っている、というようなことをいっていた。フィギュアスケートは無理に氷を作って行うスポーツだからかなり多くの電力を使うのだろう。その後ろめたさを解消しようとしてそういうことをいっているのかなと思った。

「自然エネルギー」とは何か、不勉強にしてよく知らなかった。ちょっと考えてみると、太陽光、風力、潮力、地熱などは自然エネルギーだろうなと思った。天然ガスも「天然」というぐらいだから自然だ。石油、石炭も「天然資源」だから自然エネルギーだろうし、ウラン(原子力)も鉱物だから自然エネルギーのはずだ。

自然でないエネルギーとはなんだろう。自然(natural)の反対は人工(artificial)だ。水力発電で使う「水力」は自然にある水の流れを使うのではなく人間が人工的にダムを造って使うのだから「自然」ではないといえるかもしれない。木炭やバイオエタノールも人間が人工的に作るものだから「自然」ではないような気がする。それくらいしか思いつかなかった。

Wikipedia で調べてみると、「自然エネルギー」というのは「再生可能エネルギー(Renewable Energy)」の別名だということがわかった。

再生可能エネルギーは自然界に存在するエネルギー流の中でも、人類のタイムスケールからみてほぼ永続的に得られるものを利用する。

つまり、石油、石炭などの化石燃料やウランなどの埋蔵資源のように使えばなくなってしまうエネルギーでなく、なくなる心配がほとんどない継続可能なエネルギーということだ。

エネルギーが再生するわけではないので「再生可能エネルギー」という語もあまり適切ではなくて「継続可能エネルギー」のほうがよいのではないかとわたしは思うけれど、「自然エネルギー」と呼ぶのはさらに不適切だろうと思った。
先日、国税の還付を知らせるはがきと、定額給付金申請用紙の入った封筒が同時に届いた。

どちらも税金が戻ってくるという意味で似たようなものに感じるが、厳密にいえば国税の還付で戻ってくるのは税金ではなく自分のお金で、定額給付金で戻ってくるのは本物の税金だ。

国税還付は確定申告書に口座情報を書くだけでそこに振り込んでくれるが、定額給付金のほうは、わたしの住む地域では、申請書とともに身分証明書のコピーと「通帳のコピー」を郵送しなければならないらしい。「身分証明書のコピー」は本人確認のためということなのだろうが、「通帳のコピー」はなぜ必要なのだろう。

20 年前なら、こんな指示はなかったのではないかと思う。そのころは、だれでも簡単にコピーをとれるほど社会にコピー機が普及していなかった。今なら、わたし自身はコピー機能のあるプリンタ複合機があるのでコピーを取れといわれてもそんなに困らないし、わたしの住む地域なら、コピー機のあるコンビニエンスストアまでだれでも歩いてアクセスできる。

とはいえ、知り合いに八十代でひとり暮らしをしている足の悪い老人がいるが彼女はどうするのだろう。困っているようなら手伝ってあげるようにと妻に言っておいたが、そういうひとは全国にたくさんいらっしゃるのではなかろうか。また、日本全体で見ればコピー機に簡単にアクセスできない地域もたくさんあると思う。当たり前のようにコピーを添付しろというのは都会に住む元気なひとの感覚だろう。

それでなくても定額給付金の給付には非常にコストがかかると聞いているのに、日本じゅうのほぼすべての世帯がコピーを取るとすると電気代や紙資源も手間もかかるし、役場では個人情報の管理も余計に必要になる。もっと効率のよい方法はなかったのだろうか。現実に、国税の還付でも地方税や国民年金の口座振替でもクレジットカードの申し込みでも、「通帳のコピー」など提出しなくても手続きしてくれるのだから。

ネットで検索してみると、次のような情報があった。

書類に申請者が書いた口座番号等に間違いがあった場合、給付金が振込できず組戻されてしまい、銀行の処理が膨大になるおそれがあるので、銀行協会が総務省に要請し、必須となったようです。申請書の口座番号と通帳のコピーを照合して記入ミスをチェックするようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1424634474

なあんだ、銀行が楽をするために、国民に手間が押しつけられたということか。
花むしろ

東京のソメイヨシノはあらかた散ってしまった。今年は開花してから満開になるまで日にちがかかり、しかも特に週末に天気のよい日が続いたので花見を楽しむにはとてもよい年だったようだ。

満開を過ぎて花が散り始めてからの桜吹雪が美しい。近所の公園のソメイヨシノ群の真ん中あたりにいると、どちらを向いてもサクラ、空を見上げてもサクラなので、まるでサクラの円屋根の中にいるようだ。風が吹くと芝居の雪吹雪のように花びらが降ってきて、からだじゅうに花びらが付く。

この非日常的な光景を写真に撮ってみたいと毎年思うが、花びらが舞い降りているようすはどうしても写真に残らない。腕前もあるだろうけれど、人間の目というか脳は前景でちらちらと動いているものをよく認識するようにできているからだと思われる。写真に撮って静止した小さな花びらは写真上のゴミみたいになってまるで目立たない。それでなくても、自分のぐるりを取り囲む円屋根状態のサクラを写真で再現することは物理的に不可能だ。当たり前だが、自分のからだで体験するしかない。

上の写真は、いくつか撮ったものの中から、せめて花むしろだけでも写っていれば雰囲気は伝わるかと思って選んだ。
うちでは生協の宅配を利用している。ふつうは購入できる商品があらかじめ印刷された購入申込用紙で注文するが、今回はいろいろと事情があって当方の手元にカタログがない状態で電話を通して注文した。電話で注文する場合でもふつうは番号で注文することになっているが、手元にカタログがないのでわがままを言って特別に食品名で注文を受け付けてもらった。

まず、板海苔を頼むと「すみません、どういう分類になるでしょうか」といわれた。「乾物でしょう」と答えたのだが、どうやらその若い女性は「板海苔」という語を知らなかったらしい。その後、塩昆布を頼んだときも同じ反応だった。まあ、塩昆布は関西でよく食べられる食品だから関東の人にはあまりなじみがないのかもしれないが、板海苔を知らないというのはどういうことだろう。

さらに、「煮干し」を頼んだときも、やはり「分類は?」と聞かれたので「煮干しですから乾物でしょう」と答えた。まさか、さすがに煮干しを知らないということはないだろうと思ったのだ。しばらくして電話の向こうから「ああ、カンボシですね」と聞こえてきたときには耳を疑った。そのひとは、「煮干し」という字を「カンボシ」と読んだのだと思われる。うーむ、「煮干し」の「干」はたしかに「カン」と読むが…

年の差があるとはいえ、これほどまでにことばが通じないものだろうか。逆に、その女性はわたしの知らないようなイタリア料理とか東南アジア料理、お菓子などの料理名や食材の名前ならよく知っているのかもしれない。日本人の語彙は気が付かないうちに変わりつつあるということだろうか。
先日の夜はかなり雨が降った。うちの窓の外にはアスファルトの野外駐車場があり、ところどころにへこんだ部分があるので雨が降るとあちこちに水たまりができる。そのうちの中央付近にあるいちばん大きな水たまりを見るとはなしにぼんやり眺めてみたら、その水たまりを向こう側から手前に何か小さなものが渡ってくるのが見えた。

たぶん数センチぐらいの大きさで、甲虫か、何かの甲殻類のようによちよちと小さく揺れながら渡ってくる。水たまりを渡り終えると水のたまっていない部分にまで上がってきて別の小さな水たまりのほうに移動していく。まるで、以前テレビで見た、南方の島でヤドカリが大群で移動しているかのような光景のようだった。

いったい何だろう、外に出て確認しようかなと思って目を凝らしてよくよく観察してみると、ああ、なんだ、と思った。泡だったのだ。大きな水たまりにできた泡が風で手前に流されてくるのである。しかも、水たまりの外にまで出てきて別の場所にある比較的小さな水たまりにまで移動している。そういえば、洗濯石けんでできる泡がこういうふうな重力に逆らった動きをするのを見たことがある。表面張力か何か、そういう力が作用しているのだろう。遠目でみると生きものにしか見えなかった。これはおもしろいと思って別の場所で作業をしていた妻を呼んでみたが、数分して妻がやって来たときにはそのような現象はもう見えなくなってしまっていた。

しばらくして、いま妖怪を見たんだな、と思った。となりのトトロに出てくる「まっくろくろすけ」っていうのはこういったものだろう。わたしは現代人らしく「なんだ、泡か」と判断して納得してしまったが、江戸時代のひとなら何かの妖怪だと思っただろうし、現代人でも水木しげるさんなら妖怪だと断言するに違いない。

別に水木さんをバカにしているわけではない。妖怪はわたしも信じている。自分の頭の中に確かに存在するし、カッパや天狗なら多くの日本人の頭の中に確かに存在している。
中学生グループが「先生を流産させる会」と称して妊娠中の担任女教師に悪質な「いたずら」をしたという報道があった。

いたずら:教諭を「流産させる会」 男子11人、給食に異物--愛知の中学 (毎日jp)

妊娠や出産というのは、人間も動物、自然の一部、という当たり前のことを再認識させてくれる神聖なことだと思う。多くの子どもは、妊娠出産にかかわる経験をしておらず、禿げてもおらず、持病もなく、寄る年波を実感することもない。自分のからだを意識する必要があまりないから、人間のからだも「自然の一部」であるという実感が薄いのかもしれない。

このようなことをした理由は気に入らない席替えを強制されたことだとも聞いた。この子たちは、周りの人間関係のこと、人間の思惑や都合による世界しか見ていない、いや「見えなくなっている」んだろうなと思う。

まあ、生きものの命よりも人間の都合を優先するということは、子どもにかぎらず、まったくないというわけではない。いや、「人間の都合を優先する」というよりも、「人間の都合しか見えていない」といったほうが正確だ。1メートル立方の中に約1億の生命の個体がいるといわれている地面をコンクリート詰めにする「都会」という世界は本質的にそういうものだ。

そういえば、ミツバチが激減して農家が困っているという報道もあった。そりゃあ、田畑の「害虫」は殺虫剤で殺しておいて、その一方でハチだけは生き残っていて欲しいというのは「虫」がよすぎる。人間というのは、近視眼的にしかものごとを見られないものなのだなとつくづく思う。

世の中全体にそういう傾向があるから、こういう子どもたちが出てきたのかもしれない。子どもたちには、生きものでも夜の星でも、なんでもいいから人間の思惑の入っていない世界に親しんでほしいと切に思う。そうすれば、妊娠、出産という、いわば「自然現象」に畏敬の念をもつようになるだろう。
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