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政治家の世襲を制限するとかしないとかいうことが話題になっているようだけれども、建て前の話とずぶずぶの現実の話が入り乱れているような気がして、世間知らずのわたしには何が何だかよくわからない。

参議院議員や代議士というのは親が指名したら自動的になれるのではなく選挙によって国民に選ばれなければなれないのだから、その意味では「世襲」とはいえないと思う。政治家は国民が選んでいるのだ。しかし、地盤だの看板だのカバンだのを引き継ぐことによってほぼ確実に当選できるのが実態だとしたら、事実上は世襲といえるのだろう。

後者が現実だとすると、政治家の子が政治家になるのが問題なのではなくて、「地盤だの看板だのカバンだのを引き継ぐことによってほぼ確実に当選できる」という選挙のありかた、つまり選挙制度と民度の問題ではないのか。地盤、看板、カバンが重要になるのは、選挙にお金がかかりすぎるということもあるのだろうし、無所属では事実上当選できないということもあるのだろう。しかし、いちばん大きいのは、政治家や名士の子であろうとぽっと出のおにいさんおねえさんであろうと出自に関係なく候補者の資質や能力を選挙民が公正に判断して投票する、という民主主義の理念がただのお題目にしかなっていないことであるような気がする。
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このブログにだれかを取り上げるときは、大学教授でも政治家でも医師でも弁護士でも、基本的に名前に「さん」をつけて書くようにしている(尊敬しているひとには「先生」をつけることもある)。大学教授や国会議員などという肩書きに無意識にへへーと恐れ入って気圧されないようにしたいからだ。わたしのような一般人は、学者がいうのだからあるいは政治家がいうのだから自分ごときの考えよりも正しいのだろう、と思ってしまいがちだ。しかし、他人の肩書きに萎縮したり、学術的で高尚に見えるものをありがたがったりするのは、見かけや職業などによる偏見や差別と同じ種類の卑しい心根だと思う。どちらも自分の頭で判断することを怠っている。

商業オカルト、似非科学、ダイエットブームや、全体主義、独裁制、ポピュリズムなどの政治のあり方、それらを支えるミーハー、スノッブ(俗物)、妄信、衒学趣味、知的怠惰といった個人の性質、その背後にあると思われる僻み、妬み、同調圧力、差別意識などは、どれもこれも権威主義に関係があるのではないか、だとしたら、世の中のいろいろな不幸は権威主義に由来しているのではないかという気がしていた。で、この本を読んでみた。組織で働く社会人向けに書かれた本のようだが、わたしのように興味本位で読むものにとっても十分におもしろくて勉強になるよい本だった。

最初に、正当な権威と権威主義の違い、権威主義は学問の世界ではどのように考えられているか、どうして権威主義が学問の世界で取り上げられるようになったのかについて書かれている。著者の岡本さんによれば、権威主義ということばは 社会科学では極めて重要度の高い専門用語 であり、今日の社会科学において最も中心的な概念のひとつ だそうである。

第二章では、権威主義研究の原点だというナチスによるホロコーストを取り上げて、同調や服従といった権威主義的行動がこの世のできごととは思えない悲劇を招くようすがかなり詳細に書かれている。日本の中高ではこのようなことはまったく教えていないだろう。この章だけでも、全国の中高生にぜひ読んでもらいたいと思う。

第三章と第四章は学問の世界ではどのように権威主義が研究されてきたかという話で、有名な社会心理学の実験がいくつか紹介され、人格心理学で唱えられてきた権威主義的人格の尺度として「教条主義」「ファシスト傾向」「因習主義」「反ユダヤ主義」「自民族中心主義」「右翼的権威主義」「因習的家庭観」「形式主義」が紹介されている。自分の中の権威主義的傾向を測るのにちょうどよい。わたし自身を考えると、「形式主義」の傾向がかなりある。その他の傾向はほとんどないと思う。

第四章はこの本の中でいちばんおもしろいと思った章で、権威主義的傾向と他の人格傾向との相関についても紹介されている。相関があるとされているのは、教育程度、政治的傾向、親の厳しさ、過罰性などで、教育程度が低いひとほど権威主義的傾向が強い、政治的に保守的なひとほど権威主義的傾向が強い、自分の親の過罰性を高く認識しているひとほど権威主義的傾向が強いといったことがわかっているという。これらは、わたしたちが直観的に認識していることとだいたい同じではないだろうか。

さらに、権威主義的人格の認知的傾向として「あいまいさへの低耐性」という概念が出てくる。あいまいであることに耐えられない、ものごとに実際以上の意味づけをするということだ。オカルトにはまるタイプのひと、差別意識の強いひとがやっているのはまさにこれだ。そして、あいまいさへの低耐性、権威主義、そして反応の硬さを集約した人格傾向が、この本のキーワードと思われる「認知的複雑性」ということらしい。「認知的複雑性」が低いひとは、善悪などの評価次元とほかの次元の間に相関がないことがうまく受け入れられない傾向 があるということだ。

この定義はなるほどと思う。そのようなことはぼんやりと考えていたが、このように文でうまく表現してもらうと自分の中でも明確に整理できた気がする。自分のことを棚に上げていえば、実生活のつきあいでもネット上のつきあいでも、相手にこのような「認知的複雑性」の低さを感じることは実によく体験する。このブログでも、単にことばの話をしているだけなのに、そのことばの発言者を攻撃していると受け取られたり、特定の政治的信条を主張していると受け取られたりすることがある。

第五章は権威主義が組織を如何にダメにするかという話。組織に属さないわたしにはあまり興味のもてない話だが、なるほど、官僚主義も、食品偽装などの近年話題になったさまざまな企業の醜聞も、すべて権威主義が原因だったとも考えられるのかと気付かされた。この本を読む前の「世の中のいろいろな不幸は権威主義に由来している」のではないかというわたしの直感はけっこう正しかったようだ。この部分は、企業の管理職のひとが読むと非常に参考になるのではないかと思う。

第六章と第七章はそれまでの章となぜか毛色が変わった内容になっていて、第六章は「権威主義的人物の見分け方」と題してハウツー本的な内容になっている。「宗教性の強い人」「美男美女が好きな人」など、ちょっと目を引く小見出しがつけられた項でそれぞれの人たちがなぜ権威主義的人物であることが多いかということが説明されている。そもそも権威主義的傾向はだれにでもあるし、時と場合によってそれが強く発現したりまったく発現しなかったりするものだと思うが、おおまかな傾向としてはそういうことはあるだろうなあと思う。

第七章は著者岡本さんの社会評論。もっともな意見もあるし賛成できない議論もある。「日本人は英会話ができない」というのも 現代日本の誤った教条のひとつ と岡本さんは断じている。わたしはけっこうそのとおりだと思うが、反対意見のひとも多かろう。いずれにせよ、世間巷間でよくいわれる決めつけに疑問をもつ態度が大切であることは間違いない。なんでも反対すべきだという意味ではない。疑問をもってよく考えた上でやはり世間のいうとおりだと思うのなら、その態度は権威主義ではないと思う。

ともかく、よい本を読むことができた。これからも折にふれて取り出して読むことになりそうだ。
新型インフルエンザの件で政府やマスコミは「落ち着いて、冷静に」などといっているけれど、どういうのが冷静でない対応だと想定しているのかどうもピンとこない。マスク、うがい、手洗いをして、不要不急の外出を控えるという以外にどうせよというのか。一般のひとは十分に冷静に対応しているように思える。みなが家に籠もって会社や組織が正常に機能しなくなれば冷静に対応していないことになるだろうがそんな話は聞かないし、むしろワーカホリックの日本の会社員は大地震があっても宇宙人が来襲してもとりあえず出勤しようとするのではないか。個人的にはそちらのほうが怖い。医療機関の診療拒否は困ったことだけれど、あれは職業意識の問題で冷静さの問題ではないような気がする。

外出を控えれば消費が低迷するといっても、ともかくこれはある種の災害であることはまちがいないのだから、社会経済活動にあるていどの影響が出るのはしかたない。台風が来ているのに街に出て金を使えというひとはいないだろう。

また、冷静さが過ぎて、秋冬に強毒化するからいまのうちに罹っておけば免疫ができて罹りにくくなるなんていうひともいるけれど、それは、人間(の脳)はなんでも制御できるという思い上がりだと思う。自然災害には自然の脅威を感じて謙虚に対応すべきだろう。
テレビの時代劇を字幕付きで見ていて、「みつきのうちに…」のような台詞が、字幕では「3か月のうちに…」のようになっていることに気が付いた。なるほど、「みつき」を字幕で「3月」としてしまうと「さんがつ」と読まれてしまう。ひらがなで「みつき」だと意味を直観的に理解しにくい。「3か月(さんかげつ)」のような言いかたが江戸時代にあったかどうかはわからないが、字幕の表示されている短い時間に意味をすばやく伝えるにはその表記がいちばんよいのだろう。どんな仕事にもいろいろなくふうがあるなあと思った。

いま「3か月」と書いたが、実は少々記憶があいまいで、もしかしたら「3カ月」だったかもしれない。「3ヶ月」や「3箇月」ではなかったと思う。『共同通信記者ハンドブック』では、「3カ月」という書きかたに統一することになっている。わたしの持っているとってもとっても古い『朝日新聞の用語の手引』(1994年版)にはルールとしての記載はないが、本文では「3ヶ月」という形式の表記をしているようだ。追記のような記述がある。字幕の表記も放送局(制作会社?)によって異なるかもしれない。


追記:
字幕翻訳者のすーさんがコメント欄で教えてくださったが、『NHK 新用字用語辞典』では「3か月」という表記をよしとしているそうだ。どうもありがとうございます。また、『朝日新聞の用語の手引』(1994年版)には、用字用語の「かしょ」の欄に次のような記述があった。

かしょ(箇所)→個所、△カ所<カは小文字にしない>

つまり、『共同通信記者ハンドブック』と『朝日新聞の用語の手引』はどちらも「3カ月」という表記を標準としているということのようだ。
瀬川四段が昇級 プロ4年目で悲願達成

数年前に会社員からプロの将棋指しに転身した瀬川さんが、定められた成績を上げて、名人挑戦者を決めるためのリーグ戦の最下位クラスに参加できるようになったそうだ。

瀬川さんは、収入の安定した会社員から収入が不安定で身分の保証されない職業に飛び込んだという点で、やはり会社員からフリーランスの翻訳者になった自分と重なって見える。ぜひ活躍していただきたい。


追記:
瀬川さんご本人のブログに、この件についての投稿があった。
瀬川晶司のシャララ日記
前回の記事にコメントをくださったくめさんというかたが「独活(うど)」を和英辞書で引いたところ、edible shoot と書いてあったそうだ。ふしぎな訳語だと思う。そんなこといったら、タケノコもアスパラガスも edible shoots だし、たいていの山菜は edible shoots といえる。ちなみに、研究社和英中辞典では次のようになっている。

うど 独活
[植] an udo (plant).

やはり独活は数少ない日本原産の野菜だから英語では udo というしかないかと思ったら、そうでもないらしい。wikipedia によれば、Japanese Spikenard としても知られるとのことだ。ちなみに、学名は Aralia cordata。斎藤和英大辞典には次のように書いてある。

うど[独活]
<名>A kind of spikenard (whose vernal shoots are a table delicacy)
♦ うどの大木だ He is a giant weed.

spikenard というのは、米国産ウコギ科の多年草でカンショウ(甘松)という薬用植物らしい。

この辞書では「うどの大木」を a giant weed と訳している。英語の a giant weed もそういうふうに比喩として使われるのかなと思って Google で検索してみた。ざっとしか見ていないが、「巨大な雑草」という文字どおりの意味以外で使っているサイトはなさそうだった。しかし、英語にそういう比喩の慣用がなかったとしても、He is a giant weed. といえばいいたいことは通じるんだろうなと思えるところがおもしろい。他の辞書では a big useless fellow とか just a big oaf とかいう表現になっている。そういう言いかたのほうがふつうなのかもしれないが、あまりおもしろくない。
若竹煮

近所の農家が小さめのタケノコ 5 本ほどを 300 円で売っていたので買ってきた。うちの近くには竹藪のある農家が多く、朝掘りタケノコを手頃なお値段でよく売っているようだ。それを、漁師の父が送ってくれた、数日前に刈られたばかりのワカメと合わせて若竹煮を作った。

意識して上品な味付けにしたのは大成功だったが、ちょっとワカメがやわらかくなりすぎたようだ。また、若竹煮につきものの木の芽がなかったのは残念だった。

ワカメは英語で何というか。辞書で調べてみると an edible seaweed (斎藤和英大辞典)、wakame seaweed (研究社新和英大辞典)という訳語が書いてあった。何ら工夫のない表現だが、ほとんどの英語圏の国ではワカメを食べないのだろうから当然か。せめて seavegetable といってほしい気はする。

タケノコは bamboo shoot。こちらは比較的おなじみの英語表現と思われる。なんで shoot なんだろうと以前からふしぎに思っていたが、いま調べてみたら、shoot には動詞として「芽が出る」、名詞として「若枝、幼茎」というような意味があるらしい。この名詞の意味は研究社リーダーズ、ビジネス技術実用英語大辞典などに載っていたが、なぜかランダムハウス英語辞典には載っていなかった。
「インフル」という略語をよく見るようになった。こんな略語はこれまでなかったと思う。だれか特定のひとが使い出して広まったのではなく、今回の新型インフルエンザ騒ぎの中で自然にできたような気がする。

「インフルエンザ」という語はたしかに長い。英語でもやっぱり長ったらしいらしくて flu と略すのがふつうだ。新聞の見出しなどではできるだけ文字数を少なくする必要があるので「インフル」という語を使っているのだと思うが、そういう目的なら「流感」のほうが短い。まあ、いまでは「流感」というと逆にわかりにくいのかもしれない。

この略しかたは、新聞で「アフガニスタン」を「アフガン」と略すのと似ているなあと思った。でも、この日本語の略語としての「アフガン」は、英語の Afghan とたまたま同じだからややこしい。英語の Afghan は「アフガニスタンの」とか「アフガニスタン人」というような意味なので、Afghanistan を Afghan というのは Germany を German というのと同じようなことになる。国名のつもりで外国のひとに「アフガン」というと話が混乱するかもしれない。

それにしても、インフルエンザを略すならインフルと略すのが当然とだれもが思っているらしいのがおもしろい。infrastructure は「インフラ」、sexual harassment は「セクハラ」、「なんとなく、クリスタル」は「ナンクリ」、木村拓哉は「キムタク」など、日本語の略語は何でも 2 拍になるようだ。日本で使われる漢語の多くが 2 拍だからだと大学生のとき先生に教わったことがあるが、本当だろうか。


追記:
流感とは流行性感冒(インフルエンザ)のことで、感冒とは風邪のこと。念のため。
テレビの番組でアメリカカンザイシロアリの生態について大学教授が話をしているときにその話の内容が大きな文字テロップで画面に映されていたが、そのテロップが「固体の白アリは…」となっているのを見ておもわずのけぞった。そりゃ、一般に、シロアリは固体だろう。液体のシロアリがいたら怖すぎる。

こういうのは紙にペンで文字を書く場合には考えにくい間違いで、キーボードから文字を打つようになったからこその間違いなのだろう。「固体」と「個体」はどちらも変換候補にあって、文字のかたちとしても人偏があるかどうかだけの違いなので間違えても間違いと気付きにくいと思われる。大手携帯電話会社のサイトでも「固体識別番号」と記述されているページがある。

似たような間違いに、「内臓モデム」「内臓ハードディスクドライブ」というのもある。こちらも、大手コンピュータ メーカーのサイトで「内臓スピーカー」などと記述されていたりして、そういうのを見つけるとなぜかスプラッター映画を連想してしまう。

昨晩 NHK で放送された故忌野清志郎さんの特別番組を見た。「トランジスタラジオ」の「ベイエリアから、リバプールから」というフレーズがとても懐かしかった。

忌野清志郎さんの歌の大ファンだったわけではない。でも、「トランジスタラジオ」が売れた少し後のころに雑誌のインタビュー記事を読んで何だか自分に似た人だなあと思ったことがある。ファンのかたにはおもしろくない話だろうが、本当にそう思ったのだからしかたない。それからずっと気になっていたひとだった。

5、6年ぐらい前に山梨県を旅行したとき、ある温泉旅館に立ち寄って「もらい湯」をさせてもらった。その浴場近くにマッサージチェアがあり、その壁の上のほうに忌野清志郎さんのサインした色紙が掲げられていた。「あ、清志郎……」と思わず声が出た。近くにいた旅館の従業員の女性がわたしの独り言をたまたま聞いて、「清志郎さんはときどきここに来られて、このマッサージチェアを使われるんですよ」と教えてくれた。「へえ、あのひとがマッサージチェアねえ」と意外に思った。

清志郎さんが「徹子の部屋」に出演した回はたいてい見ている。自転車でスタジオに入ってきた回も見たし、戦争の話をした回も見た。昨年の夏に最後に出演した回も見たが、そのときの清志郎さんはなんだかぼうっとしていて元気がなく、黒柳さんの話も上の空という感じで番組全体がどことなく重苦しい雰囲気だった。「もしかしてガンが転移して意気消沈しているのだろうか」と悪い想像をしたが、そんな勝手な想像が現実のことになるとまずいと思って縁起でもないことは努めて考えないようにしていた。

最近読んだ何かの記事によれば、やはり、あの放送の収録の日にガンの転移がわかったのだそうだ。さすがの清志郎さんでも落胆の色は隠せなかったか。ご冥福をお祈りする。
ちょっと古いけれども、次のような記事があった。

国語辞書が小学生に大ブーム 売上倍増の辞書も

子どもがいないので、小学校で電子辞書が普及しているということさえ知らなかった。わたしの子どものころはもちろん紙の辞書だった。たしかに、子どもが使うのなら携帯用電子辞書よりも紙の辞書のほうがよいように思われる。

おとなは知らないことばの意味を調べるために辞書を引くということは少なく、知っていることばの意味や用法を確認するために辞書を引くことが多い。そういう目的ならピンポイントにできるだけ速く語を見つけられる電子辞書でもよいと思う。しかし、子どもは知らない語の意味を調べて覚えるために引くことが多いだろうから、語を見つけるまでの過程があまり効率的でないほうが手がかりが多くなり、その結果、覚えやすく忘れにくくなるのではないか。教育の分野では効率的でないほうがよいこともけっこうあると思う。
英語の原稿にインチ、フィート、ポンド、華氏などの単位があると、メートルとかキログラム、摂氏などに変更して訳さなければならないことがある。そういうとき、ずっと前は、アクセサリの電卓や Excel を起動して手動で計算したり、JavaScript で度量衡換算できるサイトを利用したりしていた。

このごろは Google 電卓機能を使っている。Google の検索窓に式を入れれば簡単に換算してくれるのでとても便利だ。原稿に「7 inches」という表現があったとしたら、その「7 inches」をコピーアンドペーストで検索窓に貼り付け、後ろに少し付け足して「7 inches in cm」を検索すれば、「7 inches = 17.78 cm」という換算結果が出る(「7インチをcmで」とか「7インチは何cm」と日本語で打ってもいいが、翻訳作業では英語原稿からコピーしたほうが面倒くさくない)。

「白髪三千丈」の三千丈とはどのくらいの長さか、というような場合は、「三千丈」と入力するだけでよいようだ。「三千丈 = 9.09090909 キロメートル」と出てくる。同様に「百貫デブ」の「百貫」は「百貫 = 375 キログラム」だそうだ。小錦より重い。

定数もあって、たとえば、「天文単位/光速度」あるいは「au/c」とすると、太陽光が地球に届くまでの時間(1天文単位 /光速度 = 8.31675359 分)がわかるし、「4/3*pi*太陽の半径^3」で検索すると太陽の体積がわかる。おもしろい。
テレビで観たのだが、女優の音無美紀子さんはうつ病を患っていたことがあって、それが回復するきっかけになったのは、お子さんにせがまれて目玉焼きを作ったことだそうだ。何に対しても自信を失っていて何もできないと思っていた自分がおいしそうな目玉焼きを作ることができたことで自信を取り戻すきっかけになったという。お子さんはことばを介さずとも音無さんの気分や情動をよく理解できていて、そのタイミングでそのようにせがむことが事態の好転につながるかもしれないというよい勘が働いたのだろうと思う。

その番組のナレーションは「音無さんはお子さんに目玉焼きを作ってあげることで回復のきっかけを……」というようないいかたをした。それには、どうも違和感を覚えた。どんなに立派で大切なお子さんであっても、親が子どもに料理を作るのは「作ってやる」でいいのではないかと思う。

間違いとしてよくあげつらわれる「花に水をあげる」という言いかたは、実は、わたしには違和感がない。わたしが生まれて育ったのは京都府の田舎だが、その地域の方言では日常生活で非常によく敬語を使う。そのせいではないかと自分では思っている。京都弁は、非生物に対してさえも敬語、丁寧語を使うといわれる。わたしの故郷の方言は典型的な京都弁ではないけれど、京都弁の影響を多少は受けていると思う。たとえば、マメのことを「おまめさん」という。

しかし、そうだとしたら、「お子さんに目玉焼きを作ってあげる」に違和感を覚えるのがなぜなのか、ますますよくわからない。ともかく、番組制作者やナレーターは、わたしのような違和感を覚えることはなかったようだ。
「パンデミック」とか「フェーズ5」とかいうのは、それぞれ pandemic、phase という英語から来ている。pandemic の pan は panorama や Pan-American などの pan と同根で「すべて」という意味ではないかと思うが、違うかもしれない。違ったとしてもそう思っていれば覚えるのに役立ちそうだ。関係のありそうな英単語をまとめてみる。

pandemic:世界的(全地域的)大流行の/世界的(全地域的)流行病
endemic:地域固有の/風土病
epidemic:流行性の/流行病
outbreak:反乱/突発/大発生

「パンデミック」と「フェーズ」は、世界保健機関の「WHO global influenza preparedness plan (世界インフルエンザ事前対策計画)」の英語表現をそのままカタカナ語にしたもののようだ。それにしても、なんでまたそのままカタカナ語にしたのだろう。「世界的大流行」「段階5」ではいけない理由があるのだろうか。英語のまったくわからないわたしの両親などは「またわけのわからないことばをマスコミが使い出したよ」と思っているに違いない。まあ、なんでもカタカナにすればよいというのは翻訳者としてはありがたい。原語のままなんだから少なくとも誤訳といわれることはない。

さらにググってみると、昨年の NHK スペシャルで「パンデミック・フルー」というドラマを放送したらしい。「パンデミック」というカタカナ語はそのあたりから広まったのかもしれない。考えてみれば、「ワーキング・プア」という語も NHK スペシャルで知った。NHK は、そういう海外発祥の概念をカタカナ語にして広める役割を果しているのか。

だが、一方で NHK は「ゴールデンウィーク」とはいわず、かたくなに「大型連休」という語を使っている。海外発祥の概念ではなくて日本でできたカタカナ語だからなのだろうか。
大手ネットショッピングモールの「楽天市場」には購入した商品のレビューを書くページある。そのページに、「商品の使いみち」を選択させるドロップダウンメニューがあるのだが、その選択肢を見て目がテンになった。
ドロップダウンメニュー
「実用品・普段使い」とか「趣味」とかいう選択肢は理解できるが、「プレゼント」と「ギフト」はどう違うのだろう。プレゼントよりもギフトのほうがやや硬めの表現かなと思うぐらいで、はっきりした区別があるような気はしない。母の日の贈り物は「プレゼント」か、それとも「ギフト」か。

このページを設計したひと、それを承認あるいは検収したひとたちは、「プレゼント」と「ギフト」は明らかに意味が異なっており、ユーザもその違いを知っていると考えているわけだ。また、大手サイトのページなのだから、おそらく何百万、何千万単位のユーザが実際にこのページを使っているだろうし、それらのひとたちも「プレゼント」と「ギフト」の意味の違いがわかっているのだろう。どうも、自分だけがわかっていないような気がしてきた。

英語としてはどうか。ロングマンの学習者用英英辞典は、present と gift をそれぞれ次のように定義している。

present
1 [C] something you give someone on a special occasion or to thank them for something; [=]gift:

gift
1 something that you give someone, for example to thank them or because you like them, especially on a special occasion; [=]present

どうやら、少なくとも英語学習者のレベルでは、present と gift の意味の違いを考える必要はないようだ。

しかし、次のように書かれているサイトもあった。

Careful users of the language make a distinction between the two words. A Gift tends to be much more valuable than a present. It usually passes from the rich to the poor, from the high to the low. A present, on the other hand, passes between equals or from the inferior to the superior.
The Difference Between Gift and Present

これは参考になる見解で、ギフトのほうが高価な贈り物で、裕福なひとから貧しいひとに、または上位者から下位者に贈られる、プレゼントは同位者同士または下位者から上位者に贈られるという。gift は神から授けられた才能のことでもあるから、上位者から下位者というのはなるほどと思う。そうではあっても、しいていえばそういうことが多いということで必ずそうでなければならないというわけでもないだろう。

ちなみに、「おもたせ」は来客が持ってきた手土産を,その客に出すときにいう語(新辞林)だから、この選択肢のように贈る側が使うのはおかしいようだ。
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