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すべらない敬語
梶原しげる 新潮社 発行年月: 2008年01月

フリー アナウンサで、「しみじみドリンキング しみじみりぃ~」の「イングリッシュ演歌」歌手でもある、シーゲル梶原さんが敬語について語った本である。

帯やカバーには「超実戦的敬語入門」とか「喋りの力がアップする」とか、会話術の本であるかのような宣伝文句が書いてあるけれど、実際には、日本特有の意思伝達手段としての敬語を観察、考察しているまじめな本だ。といっても、取り上げている例の多くは芸能界などのなじみやすいところから取材しているし、まったく堅苦しくなくてとてもおもしろい。

敬語はむずかしいとよくいわれるけれど、子どものころから自然に使っているものだし、だれでも使っているものだから、わたしはむずかしいとは思わない。わたしの祖母や両親は初等教育、中等教育しか受けていない、いわゆる学のないひとたちだが、ごくふつうに敬語を使っていた(日常会話のほとんどに敬語を使う、関西の一地域でのこと)。

敬語は単に尊敬や謙譲の心を表すためだけに使われているのではない。日本語には英語でいう主語に対応するものがない。だから、述語だけで行動の主体をわからせなければならない。そういう表現上の必要があって敬語が使われているのだとわたしは思っている。

それは、たとえば英語母語話者が無意識に冠詞を使い分けているのと同じで、日本語母語話者ならだれでも自然に使っているものであり、勉強しないと使えないほどむずかしいものであるはずがないと思う。

それなのによく敬語はむずかしいといわれる理由の 1 つには、学校で、尊敬語、謙譲語、丁寧語といった、こむずかしい用語を教えて正しく分類できるかどうかを競わせたりすることがあると思う。学校でそんな教育をするから、特定の状況にはいつも 1 つだけの正しい敬語表現があって、自分はその正しい敬語を使えていないのではないかと疑心暗鬼になるのではないだろうか。

方言のことを考えても、特定の状況での正しい敬語表現は 1 つだけではなく複数あるはずだ。極端にいえば人の数だけ敬語表現があるとわたしは思う。そもそも、ふだん自然に使っている会話表現を意識させて分類させるような学校の授業に何か意味があるのか。


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