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先日、裁判員制度についての NHK の特別番組を見た。模擬裁判のようなことをやったり、一般市民が議論したりしてなかなかおもしろかった。

裁判というのは公正であることが大切だと思う。そして、公正であるためには感情に左右されてはいけない。しかし、いろいろなひとのブログを見ていると他人とのやりとりで簡単に感情的になる人が非常に多いと感じる。こんな現状では、裁判員制度なんてとても無理なことだよなあと思う。

わたしはけっこう他人のブログにコメントするほうだが、そのひとの考えと違う意見をコメントするだけでキーっとヒステリックになられたことが何度もある。「わたしのブログなんだからわたしの好きに書かせて」なんてコメントを返されたこともある。もちろんあなたのブログなんだから好きに書けばよいと思うが自分と同じ意見や自分と違う意見などいろいろな意見を聞きたいからコメント欄を用意しているのではないのか。とはいえ、いったん切れられると何を書いても無駄なので、そういうブログは読むのを止めて敬して遠ざけることにしている。

他人の意見が自分と違うというのは当たり前だし、違う意見を摺り合せていくことでお互いに新しい考えを得られるのじゃないのかと思うのだが、そういうひとはお互いの考えを尊重して議論するという習慣がないのだろう。自分と違う意見を提示されているということと悪口を言われているということの区別ができないのだと思う。

また、議論というものを正しい結論あるいは最も妥当な結論を共同して見つけていく作業ではなく、政治的な勝ち負けをきめるための行為と思っているのかもしれない。世間での自分の地位を保つためにも相手の意見を認めて自分の意見が否定されることを許すわけにはいかないとか、自尊心が許さないとかいうふうに考えるのだろう。それは、事実や確かさよりも、世間における地位や面子、プライドのほうに価値を置いているということだ。

わたし自身は面子とかプライドとかいうものよりも、議論によってより確かな事実や結論を得られることのほうが大事と思っている。理系と誤解されることがあるのはそのせいか。ただ、自分のことはそれでよいのだが、相手もそうであるべきだと思ってぶしつけなことを言ったり書いたりする。しかし、たいていの場合、相手は事実よりも面子を重んじているので、わたしはいつも嫌われることになる。

いずれにせよ、いっしょに真理に近づいていくために議論をするという習慣がほとんどない国民性では、裁判員として他人の意見を聞きながらいっしょに1つの結論を見つけていくなんてことができるはずがない。


追記(2008/12/15):
裁判員制度は、人を殺す(可能性がある)仕事を国が強制するという点では徴兵制度と同じなのだから、特定の宗教を信じているひとなど良心に基づいて拒否できる制度は少なくとも必要だと思う。

さらに追記(2008/12/16):
昨日のわたしの追記と同じような趣旨のことを仏教のひとが訴えている記事があった。
「人を裁くことできない」 裁判員制度で善光寺住職 
コメント
この記事へのコメント
こんにちは。
とある言語学の先生が、日本人の言語感覚の特徴として、わかりやすく、「沈黙は金」「以心伝心」「言わぬが花」「不言実行」などという言葉をあげていらっしゃいました。つまり、日本において、雄弁であることは「口が上手い」という必ずしもポジティヴでないニュアンスの言い回しになり、論理的であるということは「理屈っぽい」と解釈される、と。私は、こういう国民性も最近はずいぶん変わったように思っていましたが、「KY(空気読む)」などという言葉が流行るようでは、まだやはり「表現するより察知する」文化であるようですね。
裁判員制度ですが、このような「文脈を読む」文化のなかで、ディスカッションをする訓練も受けておらず、確たる信仰(罪と罰に対する規範意識)も持たず、昔から「大岡越前」や「遠山の金さん」に親しんできた日本人には、ずいぶんと荷が重い話だと思います。今からでも考え直したほうがいいのでは、と私個人としては望みますね。
2008/12/14(日) 00:43 | URL | marineko #mQop/nM.[ 編集]
そうですね。日本人が言語や理屈に重きを置かないのは今も変わらないとわたしも思います。
日本では、よくも悪くも、三浦和義さんから河野義行さんや山本モナさんに至るまで、証拠に基づいた公正な方法(裁判など)によって人を裁くのではなく、世間様が人を裁く、という成文化されていない制度がずっと続いていると思います。そういう日本の精神風土に裁判という制度はもともとなじまないものなのかもしれません。
それでも法曹の世界は世間の論理から離れて判断してくれる可能性を残した last resort だと思うのです。実際、世間によって有罪扱いされた三浦和義さんは司法の場では無罪になりました。それなのに、そういう場所になぜ世間(裁判員)を持ち込もうとするのでしょうね。
2008/12/14(日) 07:00 | URL | たんご屋 #Qhkulfr2[ 編集]
>そういう場所になぜ世間(裁判員)を持ち込もうとするのでしょうね。

やはりどんな業界でも高度に専門化されてしまうと、いわゆる「世間の感覚」とズレがでてきて、それはよろしくない、ということになったのでは…?と推測します。これは、日本人の「正義」に対する感覚とも関係してくると思いますが。
民主主義の世では、法というのも、もともと世間の多数を占める中間層が(これは妥当・正当・正義である、と)納得するようにつくられる(べき)ものですし。
それにしても、何のトレーニングもしていない素人が、明日からいきなり裁判員、なんて無茶だと思います。アメリカでも、おなじく突然に陪審員指名されたりするようですが、それまで受けてきた学校教育のなかで、論理的なものの考え方や討論の仕方などを学ぶ機会がありますし、下地が違うなあと思います。国民性の違いもあるでしょうけど、歴史的にも長いので、社会に浸透している気がします。少なくとも彼らは指名されても、無駄に驚いたりはしていないですね。
2008/12/14(日) 09:46 | URL | marineko #-[ 編集]
そういう建て前なんでしょうけれどね。番組でも推進派の専門家はそういっていました。
しかし、世間の感覚を反映すべきなのは立法(国会)であって司法(裁判所)ではありません。司法に世間の感覚を持ち込むというと聞こえはいいですが、裁判に偏見や差別を持ち込み、リンチや村八分を合法化するという危険と裏腹だとわたしは思います。
手続きの都合でしかたないのでしょうけれど、裁判の評決というのは本来は多数決で決めるべきことではありませんよね。米国の陪審員も多数決では決めないはずですし。Twelve Angry Men ではありませんが、多数の意見が少数の意見より正しいとは限りませんから。
2008/12/14(日) 11:03 | URL | たんご屋 #Qhkulfr2[ 編集]
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