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訓読みのはなし」という本を読んで、音読みと訓読み、漢語とやまとことばのことをしばらく考えていたら、翻訳をするときは名詞を名詞節にすると自然な日本語になる、という翻訳技法のことが想い出された。それはいろいろな本に書いてあることだが、とりあえず覚えているのは、安西徹雄さんの「英文翻訳術」だったか、「英文読解術」だったかという本である。その本の内容を確認しようと思って探してみたがすぐに見つからなかった。そこで、たまたま本棚にあった別宮貞徳さんの「翻訳読本」を見てみると、やはりそういう内容のことが書かれていた。要約して引用すると次のようなことだ。

They would be reminded of his past love of them.
× かれらは、自分たちへのかれの過去の愛を想い出すであろう。
○ かれらは、むかしかれが愛してくれたことを想い出すであろう。

これはつまり、「his past love of them」という名詞句をそのまま「自分たちへのかれの過去の愛」という名詞句で訳すのではなく、「むかしかれが愛してくれたこと」という名詞節(動詞的構造)にしたほうがわかりやすいという翻訳技法である。これはわたしがいま考えた例だが、「Too much smoking is harmful to your health.」という文は、「過度の喫煙は健康に有害である」と名詞中心に訳すよりも「タバコを吸いすぎるとからだを壊す」と動詞中心の構文にしたほうがわかりやすいだろうということだ。

音読みと訓読み、漢語とやまとことばのことからなんでこんなことを連想したかというと、おおむかし、日本に漢字が入ってきてやまとことばに当てはめたころには、「観梅」を「うめをみること」、「登山」を「やまにのぼること」と理解し、また、実際にそのように読んだりしたことがあるのかもしれない、そうだとしたらそれは別宮さんたちのいう現在の翻訳技法と同じだなと思ったからだ。

日本人が「彼は料理がうまい」と表現するところを英語は「He is a good cook.」と表現したがるといわれるように日本人は英語のような名詞的構造ではなく動詞的構造でものごとを考えているからこのような技法が成り立つわけで、翻訳技法といっても単に構文上の問題ではなくて英語と日本語の考えかたを移植しているわけだ。

また、名詞は漢語に訳されることが多く、それを動詞にほどくとやまとことばを使うことが多い。もちろん「観梅する」とか「登山する」のような漢語の動詞もあってそれでも名詞中心で訳すよりもわかりやすくなるのだろうけれど、漢語よりもやまとことばのほうが自然に受けとめられるということが動詞を中心にするとわかりやすくなるもう 1 つの理由だと思う。

そういった例をほかに考えてみると、「城春草木深」を「しろはるにしてソウモクふかし」ではなく「城春にして草青みたり」とすれば、漢語ではなくやまとことばにしているので意味もわかりやすいし自然な日本語になる。また、Seeing is believing を「百聞は一見にしかず」ではなく「見ることは信じること」と訳せば子どもにも意味のわかる表現になる。

ただ、技術翻訳ではこれと逆のことが要求される。look for は「探す」ではなく「検索する」、close は「閉じる」ではなく「終了する」、must は「ねばならない」ではなく「する必要がある」と訳すことが多い。つまり、やまとことばや動詞中心の構文ではなく、名詞中心で訳すということだ。けっきょく、当たり前すぎるはなしだが、どういう訳文が期待されているかによって訳しかたを変える必要があるということだろう。
コメント
この記事へのコメント
たんご屋さん、お久しぶりです。
いつも興味深く拝見しています。

翻訳学校で実務翻訳を習っているのですが、最初は、やまとことばと漢語をバランス良く使いなさいのようなことを言われるんですよ。
でも decide を「決める」と訳したら「決定する」に訂正されたりするんです。
きっと「決める」だと稚拙な文に感じるからでしょうね。

こちらとしては、なぜ?って感じなんですけど。

漢語ばかりだと文が堅苦しい感じがして好きではないのですが、最近は仕方なく漢語寄りの訳文になりつつあります。

このあたり、少しジレンマに陥っているところです。
本当に、日本語の難しさを痛感する毎日です。
2009/02/11(水) 19:10 | URL | 惑いの翻訳家志望 #-[ 編集]
「惑いの」さんがいつも書いていらっしゃるような多くのかたの役に立つ記事はわたしにはなかなか書けないのですけれど、思ったことを気ままに書かせてもらっています。学校ではそんなことをいわれるのですか。「やまとことばと漢語をバランス良く使いなさい」というのは当たり前すぎて、ある意味何の役にも立たない言いかたですね(笑)。最近は、identify のような語は「特定する」とか「識別する」とかいう漢語よりも「知る」のような和語のほうがしっくり来ることも多いなあと思ったりしています。
これからもお互い頑張っていきましょう。
2009/02/11(水) 22:08 | URL | たんご屋 #Qhkulfr2[ 編集]
はあ~、大変なお仕事なんですね。でもお陰様で私たち外国の本も読めるわけで。今は特にまた、文の内容によって翻訳の用語も細分化しているのでは?若い人にあまり漢語調の訳をしても全然わからないでしょうし。私などの世代だとまだ明治期の文学など多少は読んでいるので、漢文の素養はなくても漢文調の翻訳をカッコいいな、と思う心性が残っていますが、今はどうでしょう。「可哀想だた惚れたってことよ。」なんて江戸前の粋な口調もわからないでしょうねえ。「た」ってのがわからないでしょう。「三四郎」ですよね。今の人、猫とか三四郎とか読めるんでしょうか。私が江戸の戯作とかを読めないのと同じに、漱石などもいつか歴史の中に埋もれていくんでしょうか。さびしいです。翻訳のことは素人で下手なことは言えませんのであまり関係ないコメントになってしまいました。
2009/02/15(日) 02:07 | URL | 沈丁花さん #m9.eh7ss[ 編集]
うーん、これは、翻訳の話というより日本語の話なんですよね。翻訳といっても日本語を書いているには違いありませんからね。ちょっとわかりにくかったでしょうか。
漢文調というのは「金色夜叉」みたいなやつのことですかね。もちろん、訳したことも自分で書いたこともありません。そもそも、わたしは文芸作品を訳したことがありませんし、わたしの力では訳せません。でも、昔の西洋詩の翻訳などでは漢文調に訳していたものもありますね。小説もそうだったのでしょうか。そういったのも趣があっておもしろいと思います。
「可哀想だた惚れたってことよ」は、動詞中心の構文あるいは「やまとことば」で訳す好例として見出しにしました。
2009/02/15(日) 07:06 | URL | たんご屋 #Qhkulfr2[ 編集]
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