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清水義範さんが教育を論じた「行儀よくしろ。」という本を読んだ。教育論とはいっても、学校教育、教育産業、家庭でのしつけとかいった狭義の教育のことではなく、文化を次世代に伝えることこそが教育であり、おとなの責任だというような主旨で、文化論のような内容になっている。

戦後日本人はそれまでの文化を捨てて消費がすべての「欲望社会」を実現してしまった、欲望社会では人間は勝ち組と負け組に分けられ、勝ち組に回れない多くのおとなたちはギスギスして自己肯定ができないでいる、勝ち組に回る道が閉ざされている子どもたちはイライラしている、と清水さんはいう。

先日の記事でわたしは次のように書いた。

リベンジとか再チャレンジとかいう語は、なんだか、よい大学やよい会社に入ること、あるいはお金をたくさん稼ぐことが『勝ち』で、そうでない人生は『負け』という価値観に基づいているような気がする

これを清水さんの文脈でいうと、人生に「勝ち負け」があるという考えかたのひとが増えて社会でそのような言説を見聞きする機会が多くなると、社会全体の空気がそのようになり、とくに若いひとたちは「勝ち組」になることが人生の第一義だと考えるようになるだろうということだ。

文化を守った美しい生き方を日本人は取り戻すべき、というのがこの本での清水さんの主張である。守るべき文化として、生活習慣の美、美しい日本語、行儀、礼儀、我慢などが例に挙げられている。たしかに、小津さんの映画に出てくるような日本人の所作や言葉遣いは美しいとわたしも思う。

でも、むかしの日本人の所作や言葉遣いをわたしはなぜ美しく感じるのかと考えてみるとよくわからない。この本も美しいものは美しいのだという論理で進めていて、なぜ美しいのかについてはとくに論じられていない。古くからの伝統だから美しいというわけではない。奴隷制やカースト制といった伝統的に行われてきた制度はわたしは美しいと思えないし、明治になるまで日本で長く行われていた立ち小便の習慣も美しいとはいえないだろう。

けっきょく、いまもむかしも、あるいは洋の東西を問わず、率直であることや他人を思いやることを「美しい」と感じるのではないかという気がしてきた。清水さんの覚えているむかしの日本人は素朴なひとが多く、いまの人たちよりも率直さや他人を思いやるきもちがよく表れていたということではないだろうか。

教育されるのは若いひとだけではない。わたしは中年だが、自分の考えかたは実際のひと付き合いやら本やらブログやらから他人の考えの影響を受けてたえず変化している。それはいまでも自分が教育されつづけているということだ。同時に、自分がどのように考えてどのように生きるかは、よい影響か悪い影響かはわからないが、多少なりとも他人に影響を与えていると思われる。だから、たとえわたしのような子どものいない人間であっても教育に無縁なわけではない。妙な偏見や劣等感をもたず、思いやりをもって生きていくことが社会や若い世代に対する責任なのだろうと思う。
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