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社会人には、そのひと本来の性格とは別に、自分の地位に期待されている役割を果すための性格、いわば「顔」があると思う。会社員であればたとえば上司としての顔、家庭では親としての顔など、だれでも時と場合によって自然に使い分けている。プロレスラーやテレビタレントなどはもっと意図的に(芝居の中だけではなくて日常生活においても)善人のようにふるまったり強面のようにふるまったりして自分に期待されている役割を演じていると思われる。

そういう役割性格のことを心理学で「ペルソナ(仮面)」という。仮面というのは一種の比喩だけれども、ただの比喩というだけではなくて、プロレスラーなら本当にマスクをつけて悪役を演じることもあるし、ふつうのひとでもサングラスをかけたり髭を生やしたりすることで「素顔の自分」とは違う役割、性格を演じやすくなる。着衣もまた同様で、会社員がスーツを着てネクタイをするのも、店員さんが店員さんらしい服装をするのも、自分と周囲に対して役割を明示することで社会的な役割性格を演じやすくする効果があるのだろう。

スタンフォード大学の有名な監獄実験では、囚人役を演じる被験者に囚人服のような粗末な服を着せている。この実験は、単なる心理学の実験であるにもかかわらず、囚人役の学生たちは卑屈、隷属的になっていき、看守役の学生たちは高圧的、残虐になっていった。人間にとって、与えられた役割はかくも強力な無言の強制力を発揮するもので、着衣は各自の役割を視覚的に表象するものに違いない。

サングラスを外す、髭を剃る、着衣を脱ぐなどの行為は、仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨てる、つまり自らの役割性格を放棄することの象徴だと思う。たとえば、自己啓発セミナーでは受講者を全裸にさせて自己紹介させるというようなセッションがあるという。全裸にすることで会社の社長だとか代議士だとかいうペルソナを文字どおり「脱ぎ捨て」させる効果があるのだろう。

押しつぶされそうな重い責任にストレスを感じていれば、期待されている役割から離れて本来の自分、素顔の自分に戻りたいと思うのは自然だ。日本語には、裸になって出直す、胸襟を開くなどという象徴的な慣用句もある。とくに意識レベルが下がっていると、簡単に脱ぎ捨てられないつらい現実の役割の代わりに着衣を脱ぐことを代償行為にしてストレスを発散するというようなこともありうるだろうなと思う。最近あったタレント全裸事件からそんなことを考えた。
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