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夏があまりに暑かったので、九月は雨がよく降る月だということを忘れていた。
先日は妻の誕生日だったのでスーパーに買い物に行ったついでに発泡ワインでも買って帰ろうと思いたった。ワインの売り場に行くといろいろなワインが並べられていたが、どれが発泡ワインなのかわからない。もともとわたしにはワインの造詣などまるでない。店員さんに聞こうと思って見渡してみたが店員さんが見あたらなかったので、レジのところに行ってレジ打ちの人に「商品について聞きたいことがある」といって人を呼んでもらった。

ワイン売り場の前で待っていると、しばらくして五十代ぐらいの男性がやってきた。「発泡ワインがほしいんですが」というと「ハッポーワイン?どのようなものですか」といわれた。「泡の出るワインです」「泡の出るワイン?」「シャンパンとか泡が出るでしょう?」「ああ、シャンパンはクリスマスぐらいにしか入れていません」「シャンパン以外の発泡ワインもないのですか」「ハッポーワインというのがよくわからないのですが…」というやり取りがあって、心の中で「このひと発泡ワインも知らないのか」と思いつつも、けっきょくワインは買わずにレジに並んで買い物を済ませた。

レジを出てから、さきほど人を呼んでもらったレジの人に「さっきの人、発泡ワインも知りませんでしたよ」と言ってみたら「ハッポーワイン?ごめんなさい、わたしも知りません」「泡の出るワインですよ」「いや、ワインはちょっと…」と言われた。ここで初めて「あれ?自分の言語感覚のほうがおかしいのかな」と思い始めた。

その後、スーパーからの帰り道にある酒屋さんに寄って「発泡ワインありますか」と聞いてみた。若い店員は少し不思議そうな顔をしてから「ハッポーワインは、ちょっと…」と言いかけたが、近くにいた別の若い店員が「発泡ワイン?スパークリングワインのことだよ」と口添えしてくれたおかげで、「ああ、こちらです」と売り場まで連れて行ってくれた。わたしは内心で「ああ、そうか、スパークリングワインともいったな。さっきもそういえばよかったのか」と思った。

けっきょく発泡ワインを1本買って帰ることができたわけだが、だれでも知っているだろうと思っていた語が実はそうではなく自分のほうが少数派だったのかと思わされた体験だった。ちなみに「スパークリングワイン」といわなかったのはカタカナ語を使いたくないとかいったこだわりがあったわけではなく、単にその語を忘れていただけだ。Google で調べてみると「発泡ワイン」は 約 29,700 件、「スパークリングワイン」は約 1,160,000 件で、まったく桁が違う。カタカナ語の「スパークリングワイン」のほうがとおりがよいのかもしれない。
NHK 教育の「トラッド・ジャパン」の再放送を見ていたら、「竹」についての話の中で、司会の江口さんが英国人の Stuart Varnam-Atkin さんに「ししおどし」の「しし」は wild boar のことだと説明していた。あれ、ししおどしは「鹿威し」と書くのだから wild boar というよりも deer のほうがいいんじゃないの、と思った。

ちょっと辞書で調べてみたら「しし」というのは野獣の総称だった。つまり、江口さんとしては「しし」とは beast のことだと説明してもよかったわけだ。いまでは聞かないけれどシカのことをむかしは「かのしし」といったらしい。つまり、「ししおどし」とは「かのしし」や「いのしし」などの「しし(野獣)」を追い払うためのしかけだ。

なお、「しし」は獣肉のことでもあり、宍戸錠さんの「宍」(しし)は「肉」の異体字だ。「宍色」といえば肌色(pale orange)のことである。元をたどれば「鹿(か)の肉(しし)」を「かのしし」、「猪(い)の肉(しし)」を「いのしし」といっていたのが、肉のことだけではなく動物自体も指すようになったのだろう。ちなみに、「唐獅子」というのはライオンの「獅子」をイノシシやシカなどの野獣を意味する日本語の「しし」と区別するためにできた語らしい。

似たようなのに「ナマコ」がある。あれはもともと「こ」と呼ばれていて、「生(なま)のこ」を「生こ(なまこ)」といったと聞いたことがある。だから、ナマコの腸(わた)のことはいまでも「このわた」といわれている。むかしの日本ではいろいろなものを1文字で表していたのかなと思う。
紅梅

今年は、早くからウメやロウバイが咲いている。これは紅梅。
きょうは二十四節気の「霜降(そうこう)」。この日のことを知らなかったので、カレンダーでこの文字を見たときに「しもふり」と読むのかと思ってしまった。明鏡国語辞典によれば、このころから霜が降り始めるという。もちろん、(別の意味ではあるが)同じ字で「しもふり」とも読む場合もある。

明鏡国語辞典の説明では霜が「降(ふ)り始める」となっているが、霜とか霧などは「降(お)りる」ともいう。同じ漢字で送り仮名が違うだけだからややこしい。広辞苑の「霜降(しもふり)」の項では「霜の降りたように、白い斑点が散らばっている文様」と「降りる」のほうを使っているのがおもしろい。

雨や雪が降るのはわかるけれど、空中を落ちてくるわけでもない霜のことを「降る」とか「降りる」とかというのは、よく考えるとちょっとふしぎだ。「霜が生える」という表現であったとしてもおかしくないような気がする。科学的に考えれば、空中の水蒸気が地面で氷の結晶になって目に見えるようになるのだから、降る、降りる、というのはそれほど変ではないかもしれないが、むかしのひとがそんなことを知っていたわけではないだろう。

霜だけではなく、霧(きり)や霞(かすみ)、靄(もや)なども「降る」「降りる」ということを考えると、むかしのひとたちは、霧、霞、靄、霜などのことを、天から降ってきた、あるいは降りてきたものと考えていたのではないだろうか。もしかしたら天の雲が落ちてきたと思ったのかもしれない。


追記:
そういえば、「霧が立つ」「霞が立つ」「霜が立つ」などともいう。霧や霞などが「立つ」のは、地面や水面からたちのぼるように見えるからなのだろう。霜が「立つ」のはなぜだろう。地面から突き上げるように立つからだろうか。
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